2013年12月16日月曜日

存在の哀しみ・・・猫跨ぎ

  根底には存在の不可思議さへのおののきがあり、それが詩歌に顕れるとき、存在の哀しみの表出となる。まあ、そんなところではないか。我ながら良いことをいうなあ。
「手の汚れ」にしても意識は同じだけれど。
今の俳句の大衆化、堕落はもはや度しがたい。店頭で俳句雑誌をパラパラと開いて欲しい。爺婆どもが相も変わらぬワビサビを装ったバカ俳句を量産している。俳句をやってますという形をとりたいだけだ。全く心に響かない。

閑話休題。漆器がああいう真摯な努力に支えられている。しかし塗り椀一つが15000円か。今の商品経済に乗せるとそう言うことになるのか。まあ徐々に身の回りに置いていきたいものだ。そうそう、ひでを氏が朝市の漆器店で奥方に洒落た花器を買っていた。帰って褒められたのではないか。

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