「感受性くらい」や「倚りかからず」など茨木のり子の詩は、テキトウに生きてきた私のような人間をときにしゃんとさせてくれる効用がある。
与謝野晶子、高村光太郎、山之口貘、金子光晴というタイプのまったく違う詩人4人を茨木のり子が描き出した『うたの心に生きた人々』(ちくま文庫)を読んだ。
高村光太郎を紹介する章の一節、『日本人の「典型」』のところが、戦争をする国へとすすむ現今の政治や世情を考えるととくに印象的。
青春時代からもちこたえてきた、光太郎の芸術の先覚者としての、知識人としての精神活動は、智恵子の死(昭和13年)を境に、くずれ去ったようにみえます。―――と茨木は書いて、天皇あやうし!陛下をまもれ!と叫ぶ詩「真珠湾の日」を3年後に発表するまでの光太郎というか当時の日本人の心境を次のように述べている。
――― 光太郎の心の荒廃に、しのびよってきたのは、なんと、かつてあれほどきらった父、光雲に代表された、下町の庶民感覚だったのです。
しんせつで、心あたたかく、おせっかいでもあり、権威に弱く、他人の暮らしのすみずみまで知りたがり、義理人情でバランスをとり、事があれば、よく考えもせず「やっちまえ!」と叫ぶ、むかしながらの日本人の心のふるさとへ――こういう里帰りの心を、「日本への回帰」と呼びますが、日本人は、どんなにモダンな人でも、老年に近づくと、こういう現象があらわれてくることが多いのです。(中略)
光太郎も六十代になって、例外ではありませんでした。.父や母や祖父たちの遠いなつかしい亡霊にひきよせられるようにあともどりして、折りしもはじまった太平洋戦争に、「日清」「日露」の戦争に熱狂した先祖たちとおなじように、夢中になっていったのです。
��写真は、友人だった詩人谷川俊太郎が撮影したもの。茨木のり子の魅力的な風貌をはじめて知った)
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