2014年6月7日土曜日

投稿    ・・・・褌子

    千葉大学医学部の辛亥革命赤十字隊記念碑
                沙飛研究日本の会世話人 西沢昭裕
 1912年(大正元年)といえば沙飛が広州に生まれた年だが、この1912年が辛亥革命によってアジアで初めての共和国が中国に成立した年であることはいうまでもない。
 1911年、辛亥の年に孫文ひきいる中華革命党が武昌に挙兵すると清朝政府軍とのあいだに内戦がおこった。当時、アジアでいち早く近代化をなしとげたかにみえる日本には中国からも大勢の留学生がきていたが、清朝末期の腐敗と列強諸国の侵略に心を痛めていた。武昌蜂起をきいて祖国の革命戦争にはせ参じようという気運が中国人留学生のあいだに大きくなった。
 その先陣をになったのが千葉医学専門学校(現千葉大医学部)の中国人留学生30名の国民革命軍赤十字部隊としての派遣だといわれている。
 私は千葉県の市原市に住んでいるが、自宅から車で20分ほどの千葉市亥鼻の台地に千葉大学医学部がある。千葉医専、千葉医大の伝統をうけつぐ古びた医学部本館の玄関脇に、「辛亥革命赤十字隊記念碑」があるというので訪ねた。
 記念碑は赤十字隊派遣のちょうど一年後の1912年11月9日建立とある。100年の風雪でかなり摩耗してか私には中国語の碑文が読み取れないが、刻印された30名の留学生の姓名のあとに「中華民国留学生千葉医学専門学校学生同建」とある。そばにていねいな説明板がたっている。この説明文は2009年に千葉大学元学長の故井出源四郎名誉教授が医学部創設135周年にあたり書かれたと記されている。
 井出源四郎先生の説明文によれば、祖国の革命戦争に参加したいという留学生30名の懇請をうけて、当時の荻生録造学長が留学生たちの休学と祖国の戦陣より帰還のあとは必ず復学させるという認可を文部省、外務省からとりつけたとある。
 派遣が決定となり急きょ、日本赤十字千葉支部の協力もえて、戦時医学を学んだ派遣赤十字学生隊に教職員や学友たちがカンパをつのり壮行費用や医療器具や医薬品を寄贈、1911年11月9日に数百人の教職員学生が千葉駅の壮行会を催して見送った。同年秋から翌12年にかけての革命戦争の末、孫文を臨時大総統として中華民国樹立が宣言されて、赤十字隊は全員復学を果たすことができたのである。
 「この壮挙は千葉大学医学部史の宝であり、日中の間に何が起ころうとも、(中略)貴重な日中友好の絆は決して断ち切ってはならないと確信し決意するものである」と井出先生は結ばれていて感慨深い。

【付記】
 仙台医専を中退して東京で文学活動をはじめた魯迅は1909年に帰国している。救国抗日運動への参加を決意した沙飛が魯迅最期の姿を上海でカメラにおさめたのは1936年。
 辛亥革命で成立したばかりの中華民国は袁世凱らの軍閥の裏切りによって共和政体が崩壊。1919年に中国国民党を結成して国民革命をすすめる孫文も1925年に志半ばに倒れる。 沙飛はその翌26年7月に国民革命軍の通信兵として北方の軍閥政府を打倒する北伐戦争に参加する。国民革命の根拠地となった広州で生まれた沙飛であるがまだ14才の少年であった。

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