なんだかなあ。微妙なちがいかなあ。 第一にわが人生、何かひとつキチンとやりとげたかというと、そう自信を持っていえるものが実はない。 何をやっていてもそこそやってしまうが、どこか傍観者的だったのだ。つまり典型的器用貧乏。ほんとに自慢するものがないのである。 したがってひとつの事にうちこめる人は尊敬しかない。 つまり、このことで人に一目おかれるというのがない。そこそこのことをやっていながら、傍観者的であったので、そこで完全燃焼していないのである。そうなる前にまず自分がどっかしらけてしまう。 で、俳句いっぽんというお師匠にはリスペクト以外のなにものでもない。 だって、退職後のわずかな時期にここまで来てしまったのだから。昔は俳句のくの字のムードもないと思っていた人が、あれよあれよだと思うのである。
で、おいらの多動爺について。実は自分から飛び込んだものは科学少年団くらいで、その他はひっぱりこまれた。で、それもいいことだからやってやろうかという心理とちと違う。いいことをやるべきなら、このからだいくらあってもたらない。 で、引き受けたとき漠然と感じたのは、我が人生の終わりのイメージである。限定されたこの期間をどうしてやるか。そういう意識が確かに心のどっかにただよっていた。要はへんな言い方だけど演劇の演出家なのだ。「人生は芝居 ひとはみな役者」といったのはシェークスピアか。だから正義感とか社会的良心とか、思想とか、なんか鎧みたいな言葉の群れは、わかることはわかるが、3メートルくらい上空を通過していっている。 今まで、自分が果たしてきた社会的な役割の延長上を、最後まで驀進するしかないんだろうなあ。 なんだかあわれでしんどい。とまったら死ぬ回遊マグロみたいで、なんだかあわれ。
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