2011年6月30日木曜日

『古文字類編』・・・   褌子

  北京の古い本屋に行った。  そこで『古文字類編』上下を400元(約4800円)で買った。

























    北京大学震旦古代文明研究中心学術叢書特刊・増訂本・高明・叙白啓編著・上海古籍出版社というものである。古代の初期の象形文字である亀甲文字が春秋戦国時代など古代国家をへて、いかに変遷してきたかを代表的漢字一字一字図解したものであり眺めていると非常に面白い。
  本当は河南省の安陽市で発掘された殷墟に中国最古の亀甲・獣骨文字をみにいきたいのであるが、『古文字類編』でがまんしよう。【写真=河北省双風山革命陵園での象形文字の額=『古文字類編』】

線量計・・・猫跨ぎ

  安い線量計か。このまえ、中国製のインチキ線量計の通信販売で業者が摘発されていた。実態は磁力計を線量計と偽って売ったらしい。間の業者が悪いので、中国メーカーの責任ではないが。考えて見れば、まっとうな工業製品がべらぼうな安値で買えると思う方がおかしくないか。 こんなグローバル化が進んだ時代だ。そうか上海あたりのあやしい路地裏で磁力計なんかを掴まされないように。
 ここんとこ中国の評判がよくない。日本とドイツの新幹線技術を導入して北京-上海間を開通させたらしいが、独自の技術をプラスしたとかで、主要各国に特許を申請したらしい。恥知らずというか鉄面皮というか。やり口は判っている。抗議すると、「今後お宅との取引はどうなるか分かっているでしょうな」と来る。こう言うのを足元を見るとか横暴という。
  南シナ海の島嶼の領有権をめぐってベトナムとフィリピンを蹴散らす構えだ。有無言わせない。彼我の力関係をみて、こちらが上とみるや、容赦しない。周恩来のころの平和五原則とか互恵平等とか、あれは何処へいったのかね。この辺を聞いてみてくれないか。

函館通信147・・・石家荘・・・仁兵衛

 褌子さんは本当にお元気でいらっしゃる。
 “石家荘”と聞いて懐かしく思って書き込みをしました。15年位前に仕事で数ヶ月入った河北省の隣河南省の省都鄭州から車で3時間ぐらい南の累河を思い出しています。
 そこは当時、朝食付きで一泊800円だったと記憶しています。今の時期30度を越すが乾燥していて意外と過ごしやすかったな。しかし、しょっちゅう停電になるしお湯は出ないし3週間位長逗留したときは苦労させられた。朝 野菜や蒸しパン売りの声で起こされて お粥の朝食はそれなりに美味しかった。今は高速道路と国際空港が出来てすっかり様子が変わったようだがそれだけ物価も上がったことだろう。
 累河駅前には石家荘行きの汚いバスが客引きをし夜は汽車待ちの出稼ぎ者が500人くらい野宿していた。確か河北省は麦の一大産地ではなかったろうか。機械化が進んでいて何百台の大型コンバインが南から北へ約一ヶ月を掛けて刈り取って行くのは見ごたえがあると言っていた。それに比べ河南省は広い耕作地があまり無く同じ農作でもだいぶ格差があるんだと工場の人間にぼやかれた事があった。
 
 放射線の測定器は北京では売ってないのは当然でしょう。こういう物を買うの何でも手に入る上海に決まっているよ。兎に角世界中の模造品が揃った市場に行ったほうがいい。但し品質は保障されてはおらぬ。悪しからず。

誇るべき日本の大発明・・・・褌子

  中国旅行中もホテルにはLANケーブルがあるので、毎日、horohorokaiを見ているが誰も書き込みがないね。みんな、放射能で脳味噌をやられてしまったのか心配だ。中国からの能天気、ピント外れな発言にしらけているのか…。
  いま朝9時半ごろ、18階の和平飯店の部屋から見おろす北京のまちは小雨に濡れている。昨日は猛烈な車の渋滞、排気ガスにうんざりしたが、今日は過ごしやすそうだ。テレビでNHKをみると日本のほうがはるかに暑そう。連泊するので今日はホテルでのんびりすることになった。午後は本屋に康煕字典や象形文字解説字典などをみにゆく。猫跨ぎさん希望するなら康煕字典買って帰ってもいいけど。
  國兼さんが喜びそうな下らんことを書く。このホテル=ノボテルピースは100年をこえる由緒のあるホテルだそうで欧米人の宿泊客が圧倒的。けさも金髪のじつに美しいアメリカ人女性がたくさん、談笑しながらゆったりと食事をしていた。こちらも相席になってしまったが英語ができないので、じっと意味のない微笑をうかべて何食わぬ顔して珈琲のんだり外をながめているだけ。ここ数年の英会話はけっきょく何だったのか…とむなしくつらい。
  ところがである。広く立派な部屋のトイレはああやっぱりというか紙でふくしかないのである。ああこの優雅な美人さんたちもやっぱり大用をたしたら紙でふいているのか…。な~んだやっぱりそういうことなのか。こちらは母国で毎日、温水できれいさっぱりしているのに、紙では、いくらふいてもやはり微細な黄色断片くらいはまだついているのではないか!。そうだなにもびくびくすることなどないのだ。急に自信がでてきて優越感にひたり、金髪女性に微笑みかえして日本男児らしく悠然と食事をしついでにワインを飲んだ。
   それにしても自宅の水洗便座がなつかしい。日本人の偉大な大発明である。小蔵ひでをさんもあの大発明で頑迷固陋な大痔主から解放されたのである。小蔵ひでを社長宅には感恩とかかれた漆蒔絵超高級便座が床の間に鎮座しているのではないだろうか。
  中国もGNPで日本をぬいたと下らんことを自慢するなら、首都北京の由緒あるホテルくらい日本式洗浄便座にただちにきりかえるべきではないか。空母などつくるまえにやることをやれ!…とは昨日訪問した中日友好協会のお役人にいうべきだったか…
ここまで下らんことを書いてしまって、東北の避難所での一番の悩みはゆっくりと腰掛け式の便座でトイレをすますことができないことだとボランティアに牡鹿半島に行った人からきいたこと思い出した。不謹慎な発言を申し訳ない。

2011年6月29日水曜日

な~んだ こんなに高いのか・・・褌子

逸徳さんからも頼まれたがたしか五千円いないということだったね。
インターネットで調べたらでてきました。
高いのであきらめましょう。初恋といっしょで一押し二押し三押しでだめだったら男らしくあきらめが肝心。
上海精博工貿有限公司 放射線測定器ガイガーカウンター 線量計 電池駆動式 JB-4020
普拉耐科斯貿易(上海)有限公司
価格: ¥ 39,639だそうです。まだ在庫があるらしいが・・・。

放射線量計手に入らず・・・褌子

きょう、北京にやっと着いた。
いま和平飯店という紫禁城の東門にちかい由緒あるホテルから発信している。安いホテルで3泊したが急にいいホテルになった。
放射線量計について北京の中日友好協会友好交流部を訪問し超さんに会って線量計を北京で何個か買いたいと相談した。
ところが、中国ではそんなものはニーズがないので北京の電気屋さんには売ってないという。いや、日本でもっているひとからも頼まれたんだと、製品の写真を見せたところ、たぶん日本向けに中国で製造し輸出しているものだという。
インターネットで製造メーカーの連絡先を調べて直接、購入できないか相談してみてほしいということだった・・・・。
そんなことは今度の放射能騒ぎで日本の各社がみんなやっていることだろうから、こんどの中国調査旅行のみやげに何個か買って帰ろうという能天気なもくろみはついえた。

2011年6月28日火曜日

中国から発信。沙飛を調査する旅・・・・褌子

  上海で一泊し、翌日上海の魯迅記念館を訪問し、懇談した。さらに飛行機で3時間、河北省の省都である石家荘に飛んだ。ここでは双方山記念館というところを視察した。象形文字でかいた漢詩の額がすばらしい。
  さらに井陘炭坑を見学し、鉱区ホテルに二泊したが、それまで高級ホテルだったのに急に二晩もお湯が故障してでない。そのうえ夕べは蚊に悩まされた。しかし外は曇っているせいか、いがいと涼しい。飯もうまい。
  20世紀はじめにドイツ人によって開発された井陘炭坑にドイツ人がたてた煉瓦の給水塔が残っているがすばらしい芸術品のようなつくりである。そのご日本軍がこの炭坑を占領し、福岡の貝島炭坑が経営したが、病気になった中国人労務者をいきたまま捨てた万人坑跡は見るのがつらい。貝島炭坑の幹部の社宅が残っているが60年たっても煉瓦のびくともしない瀟洒なつくりであった。
   ホテルからみると朝早くから老若男女がひろばで太極拳とか楽しそうにやっている。十年くらいまえにはよくいた押し売りや物乞いが少なくなったような気がする。中国側の魯迅・沙飛の研究者などと食事をしていると、原発・津波・尖閣問題などが話題になる。
中国人研修生を津波から守って、自分は津波に飲みこまれてしまった社長さんのはなしは中国でもなんども報道されてみんな知っていた。

2011年6月22日水曜日

中国製放射能測定器・・・褌子

奮戦中のかたご苦労様です。
小生、一週間ばかり、中国へ調査旅行に行ってまいります。
放射能からの海外脱出ではありません。
中国語も英語もまったく話せないのに、最初、上海でひとりで一泊するのだけが少し不安です。
高齢者にとっては、こういう緊張感が若さと美貌に非常によいそうです。
中国製の放射能測定器が大変安いそうなので何個か買ってきます。

2011年6月21日火曜日

奮戦中 ・・・ 猫跨ぎ

 娘が新生児(女児)を連れて我が家に里帰り中。ますらお派出夫としては奮戦しておる。
炊事はもとよりミルク作り、沐浴、洗濯、etc.しかしこの歳になって子育てを実感。ある意味面白い。

  仁句は日記であるという自解にあるように雰囲気を味わうしかない。桜桃忌のように子供心にもショッキングなことも今になって思い出すことが多々ある。
なかで、一応第三者が解釈可能なのは、
・ 捩花や連絡船の銅鑼幽か
捩花の螺旋をじっと見ていると、記憶の底へ誘われる一種の眩暈感覚におそわれる。、そう、連絡船の乗船には何故か走るんだよね、ボストンバッグを持って。銅鑼はもうとっくに無くなってしまったのだろうが、あの音色は独特だった。

  アイヌ納骨堂はもちろん全く知らなかった。歴史の暗部と言えようが、ちょっと視点を変えると、こういう「人類学」は、かつてあったんだね。今はこういうアプローチは全くタブーになってしまった。黒人に有名な数学者、物理学者がいない、とひそひそ語られる。本当かどうか知らないが。こういうことを問題提起することも、況や研究テーマにすることも全くタブーだ。現代科学にもタブーはある。

2011年6月20日月曜日

北大のアイヌ納骨堂・・・・褌子

  太宰治の玉川上水での入水自殺事件は御幼少の仁ちゃんの人生にくっきりと影を落としているんだね。小一の昭和23年。
  小学3年か5年くらいだとおもうが、郷里佐渡島の上空をB29が毎日毎日、飛んでいった記憶が残っている。佐渡の上を38度線が走っているからだと小学の先生がいっていた。つまり(たぶん青森の三沢基地あたりからか)朝鮮戦争に向かう米軍機だと知った。いま記憶に残っている小生の社会的事件の初体験である。
  きょうの新聞で「北海道旅行を計画している人に、ぜひ訪ねてほしい」と書きだした記事がありました。
  モダンな北大病院のうらの駐車場のかたすみにひっそりと小さな小屋が建っていてアイヌ納骨堂と小さな看板がでている。
 戦争がはじまる前の1930年から戦後にかけて北大医学部の解剖学の研究者が、日本人はアイヌ人とちがって優秀な民族であることを証明するために、北海道各地のアイヌの墓を勝手に発掘して969体の頭蓋骨を集めて研究した。ドイツではナチスの研究者がユダヤ人が人種的に劣ることを証明しようとやっきになっていたが、それに呼応した北海道帝国大学の医学者の所業だという。
  けっきょく、戦後、北海道アイヌ協会の抗議にあって1960年になってやっと研究は終熄して、頭蓋骨の処分にこまってこっそり医学部の裏に小さな納骨堂をつくって収容した。北海道アイヌ協会はなんども北大に謝罪をもとめてきたがいまだに北大医学部は謝罪を拒否しているという。
  こんな話はまったく知らなかった…
  (6月20日赤旗から――「アイヌさまよえる遺骨」平田剛士記者)

2011年6月19日日曜日

函館通信146・・・竹の竿・・・仁兵衛

 褌子さん鑑賞評価有難う御座います。俳句には個人的な内容を包み込むとつくづく読む人には判らなくなってしまうもんだと感じました。私には「俳句は日記だ」という気持ちが側面にあるので読む人には理解されなくても良いと一部に思っているのでしょう。  

「 桜桃忌竹竿のある取水口」・・・太宰は昭和23年6月13日玉川上水に入水した。遺体の上がったのが実家近くの永福町の取水口であった。当時私は小学校一年生何も知らないのが当然である。所が五年生になったときと思う又入水者の遺体が上がったと友達と遊んでいるときにたまたま情報が入った。それ行け!野次馬根性である。一キロぐらい先にある取水口を見下ろせる橋に行った。既に処置は終わっていたので二三人の人が残っていただけだった。引き上げるのに使ったと思われる濡れた竹竿があった。
 こんな場景が記憶の中から時々現れてくる。これを句にしてしまったのだから読んでくれる人にはさっぱり判らないのが当然だ。

 これからもこんな場面が出てくると思いますけど宜しく。

2011年6月18日土曜日

関東大震災・・・ 褌子

   吉村昭『関東大震災』は十数年前に読んだことがあり、上野の不忍池が遊女の死体で埋まったなどというところだけ記憶に残っていたが、↓の国兼氏の発言では先日の震災記念館が焼死体の山をきずいた陸軍被服敞あとだったんだね。
  それで記念館ができて震災で焼けただれた車や機械などが展示してあったのか。
  不逞朝鮮人に注意せよのデマを最初に流したのは、千葉県船橋市行田にあった日本海軍の電波塔です。
  震災被災者の不満が政府に向かうのを恐れた権力が、いちばん弱い立場の在日朝鮮人に被災者の怒りを誘導した。
 さて、ことしの三月十日の東京大空襲の記念祭がことしも隅田川にかかる吾嬬橋のそばの隅田公園であった。
 わたしも浅草で平和運動やっている人にさそわれて参加した。言問橋なども両岸から火に追われて避難してきた避難民が橋のうえでぶつかり、熱さのあまり何万人も隅田川に飛び込んだが、水温は10度くらいでたちまち水死したという。まさに火攻め水攻め。
  地震も空襲もこわいなあと思って帰ったら、翌日が3月11日であった。

2011年6月17日金曜日

関東大震災・・・国兼

同名の吉村昭の本を読んで感じるところ大であった。
今春のホロホロ会の駒形屋でのドジョウを食べる前に皆と両国駅で待ち合わせ、近くを散策をした。予定していた旧安田邸庭園は3/11の影響で閉鎖しており、その結果予定外の近くの関東大震災祈念会館広場(今は横網公園というらしいが)を見学することになった。会館には当時の震災の写真や焼け爛れた当時の火災の激しさを示す遺物が展示されていた。どうしてこの場所に、何でだろうと思っていたが、吉村昭の本を読んで納得した。実はこの場所は当時陸軍被服廠のあった所で、被服廠が移転し2万坪を越えるこの敷地が空き地のままであった。
大正12年9月1日、相模湾沖のM7.9の大地震による関東大震災で、特に土地の脆弱な東京の下町界隈は建屋の崩壊とそれに続く大火災に見舞われ、4万近くの人がこの被服廠跡に難を逃れ殺到した。おりしも、ここを取り巻く周囲の熱風により旋風が何回もこの場所を襲い火の粉が降りかかり、逃げ惑う人々が折り重なって焼死したり圧死したという。その数4万弱という。東京市の死者は8万弱といい、内50%を越える人がこの被服廠跡で亡くなり、関東大震災で最大の死者が発生した場所であり、そのような謂れのある場所なのであった。その旋風の激しさはすぐ近くの旧安田邸の庭木が根こそぎ捥ぎ取られ、中には捩れ千切れていた木もあったという。いずれ、又訪れたいと思っている。
 
 ちなみに震源地により近い横浜でも多大な家屋が全壊し、火災の発生で数万人が亡くなったが、ここでは略奪行為も発生したという。特に、1日夜に「朝鮮人が放火している」という朝鮮人に特定した流言、蜚語が発生したのも横浜の本牧という。この流言は次第にエスカレートし「武装した朝鮮人の集団が放火し、略奪し、強姦し、毒薬を撒き散らしている」等々の流言が、あっという間に2日の日の午前中には東京まで、更に拡張されて伝えられたという。流言に驚いた東京市民は各地で自警団を組織し、見慣れぬ人間を尋問し、少しでも言葉の発音におかしい者はリンチを受け殺害された。自警団はその数を頼みに警察をも無視して凶暴化し、どんどんエスカレートしていった。この大震災で殺害された朝鮮人の数はその後の政府発表では230人と極めて過小に報告されたが、吉野作造博士のその後の調査では2613名、更に朝鮮同胞慰問会なる団体の調査では6千人を超える朝鮮の人が難にあったという。
 この関東大震災祈念会館広場には、褌子さんが探して見つけたこれら朝鮮の人々のいわれ無き死を悼む「朝鮮人慰霊碑」も建てられている。
 吉村昭が言う。騒擾を好む一部日本人の残虐性がと・・・。思うに、それを無批判に同調する多くの日本人がと・・・。孔子曰く「君子和して同せず、小人同じて和せず」と。

梅雨に仁句を鑑賞する・・・褌子

千葉は梅雨の真っ最中で、おととい蛍をみにいった。
すこし古い本だが井上ひさし『吉里吉里人』が読みたくなった。岩手県に突然人口四千人の国が独立した話で、宮古や大槌町の隣らしいから大震災でひどいめにあっているのではないだろうか。ボランティアにいったひとの話を何人もきいたが、自分の体力では行く自信がない。情けない。
原発も収束のみこみぜんぜん立たずで、まわりの人に頼まれて下記↓のような学習会も始めた。
安斉育郎氏の書き下ろしの本を読んでいるがまことにわかりやすい。
仁ちゃんの句は震災や原発にあわてず騒がず生きている様がみてとれる。
 ・ 山法師迷ひの糸の断ち切れて
そうか人間も古稀がせまりくれば迷いもなくなってくるのか…こちらは全然そうではない【写真は西澤邸の菖蒲と山法師】
 ・ 緑陰や文庫本持つ裁判員
佳句である。裁判員がいい。みょうにひねってなくて実にいい。
 ・ 梅雨入りや時計の砂の落ち具合
梅雨の湿気で砂時計の砂もさらさらといかんのかね
 ・ 原発に囲まれた地図梅雨晴間
・・・・
 ・ 三日前無口のままに燕来て
ツバメの子どもはかわいいね。
 ・ 桜桃忌竹竿のある取水口
太宰の命日と竹竿に取水口…はて??
 ・ 遠蛙電気自動車滑り出す
カエルの鳴き声と電気自動車の取り合わせは突飛で面白いといえば面白いが、二物衝撃はおきてこない
 ・ インパクト足りぬ広告夏に入る
そういうコマーシャルばかりだね
 ・ 鈴蘭や次の次の手大手飛車
スズランと将棋…
 ・ 捩花や連絡船の銅鑼幽か
捩花でDNAの二重らせんを想起した頃がなつかしい。青函連絡船の銅鑼の音もはるかむかしになったなあ

あるところでこんな話をした・・・褌子

あるところでおじさん・おばさん相手にこんなはなしをしたがわかったかどうか・・・・
原発・放射能問題学習会   その1 
この自然界には90種類の元素がある。
周期律表
アインシュタインの特殊相対性理論  E=mC二乗
すべての物質は、実は膨大なエネルギーのかたまり
一円玉=22兆カロリー(長崎原爆)
ウラン235という元素
   核分裂しやすく、わずかに質量mを減らし膨大なエネルギーをだして他の元   素に転移する 
原爆はウラン235をいっきに核分裂反応させる (水爆=核融合反応・太陽)
原発はウラン235を少しづつ少しづつ核分裂させて、熱エネルギーで蒸気をつくってタービンをまわして発電する
核分裂で発生する膨大な放射能物質  使用済み核燃料も膨大な熱と放射線を発生しつづける
フクシマ第一原発=三つの原子炉と四つの使用済み核燃料が冷却不可能になった。
3月11日にメルトダウンしていたことが二ヶ月たってわかった…
電気をつくる発電所で電気がなくなった!
  止める・冷やす・閉じ込める
チェルノブイリ以上の放射性物質をすでに空気中に海中に放出(レベル7)
10万トンの高濃度汚染水(ドラム缶50万本)の処理に追われ、毎日500トンの汚染水が増え続けている
放射線をだす放射性物質の性質を放射能・放射性という
放射性物質の量(ベクレルBq・キュリー)  ヨウ素131(半減期8日)
                 セシウム137(半減期30年)「
                 プルトニウム239(半減期2万4000年) 
などなど
放射線 α線
     β線
     γ線
��線はγ(ガンマ線と紫外線の中間くらい)
  人間の放射線の被曝量をシーベルト
現在の地球上で人間はいまも一年に1・4ミリシーベルト被爆している
��シーベルト=1000ミリシーベルト=100万マイクロシーベルト
例えばホウレン草に付着する500ベクレル/㎏のセシウム137を一日200グラム食べ続け   ると被曝量は1ミリシーベルト/年
被爆した瞬間に放射線は消える。
ベクレルは㎞2あたりとか㎏あたりで
シーベルトは時間あたり
  確定的被爆被害・確率的被爆被害

函館通信145・・・薄暑・・・仁兵衛

 函館もライラックが咲き終わってやっと初夏らしい気候になってきました。
 猫跨ぎさん、褌子さん、逸徳さんの第二講座コンビが丁々発止されているのを楽しく読ませてもらっていたのが十日近くも音沙汰なしになるなんて珍しい事だ。何方か健康を崩されているのだったら大いに心配だ。

 大震災から三ヶ月が経った。函館は余震が僅かだがいわき辺りはまだまだしばしば震度4程度が有ると言っている。又放射能のニュースを聞く度に日本には、いや世界的にも原子力、放射能に関するデータが少なくこの技術を使いこなすには容易ではないなと感じる。特に色々な基準作りの為のデータが世界的にも不足しているんじゃなかろうか。
 まあこんな時気分を一寸変えて俳句でも見てやってください。

 ・ 山法師迷ひの糸の断ち切れて
 ・ 緑陰や文庫本持つ裁判員
 ・ 梅雨入りや時計の砂の落ち具合
 ・ 原発に囲まれた地図梅雨晴間
 ・ 三日前無口のままに燕来て
 ・ 桜桃忌竹竿のある取水口
 ・ 遠蛙電気自動車滑り出す
 ・ インパクト足りぬ広告夏に入る
 ・ 鈴蘭や次の次の手大手飛車
 ・ 捩花や連絡船の銅鑼幽か


2011年6月8日水曜日

見立て ・・・ 猫跨ぎ

  癌になったらねえ。状況によるが、今の自分なら勿論告知してもらい、すぐ後始末にかかるということかね。①と③の違いがよく判らないが、運命を受容するには、それこそ無数のパタンがあるのだろう。告知せずだまして欲しいなんて、この期に及んで甘えても仕方ない。
ただどうかな。最近は基本的には本人に告知する流れじゃないか。ひところよりその傾向が強くなっているように思う。大体、気付く。隠しおおせない。むしろ知らせて、治療に立ち向かわせる。治る癌は治る時代だ。逆に治らないのはどうしても駄目だね。変な言い方だけれど。
  今の日本を癌に例えるのはどうか。見守る家族が日本人で、絶望的状況を告知すべきかどうか。妙な例えだね。しかし、東北の被災地の復興にかける姿などを見ると、そういう見立てはすべきではあるまいね。そうか、そういう不用意さがPSEUD何とかと言われるんだ。

2011年6月7日火曜日

歴史 ・・・ 猫跨ぎ

  老政治学者の話を聞く機会があった。旧憲法下の政党政治だが、ねじれなど、今に似た構造が昔もあったらしい。そう言う意味で歴史は繰り返す。そんな時どういう経緯をたどったか。検証する必要はあるのだろう。
  実は彼の話で最も興味深かったのは、革命後の権力のありようだ。フランス革命、ロシア革命、中国革命いづれも、勝者は権力を独占する。これは容赦ない。しかし明治維新はどうか。旧体制側にも応分の権力の一部を残している。この国の特徴かもしれない。日本人の思考様式というか体臭が歴史には詰まっている。
何を言いたいかというと、ここ十年の状況から短兵急に結論を出すのは拙速かもしれんということだ。
  民主党の当初の主張を思い出して見よう。①官僚主導の終焉(太政官政府)②アメリカ従属の終焉③財界主導の終焉。立派な主張だと思う。
しかし、見事にみんな看板倒れになったな。ひとえに民主党に実力が伴っていなかった。拙劣だった。同時にそれを見守る国民の方も未熟だった。ヒステリックに批判し、ひたすらムードに流される。話は飛ぶが、小選挙区制はこのヒステリーを助長するなあ。政治家を小粒にしたのはこのせいかもしれない。

どうもなあ・・・・逸徳

お師匠のご高見を読んで、感じるところを書くかと思ったが、どうも熱意がわかない。これが、30代ぐらいなら延々と論じたろうに。 感想についてはほぼその通りだ。あの政治家どもの中に何者かを期待できる顔をしているやつはいない。ひとことでいって下品だ。醜悪だ。腐肉のにおいがする。あるのは猛烈な既視感である。こんなことばかり日本は数十年もつづけていなかったか。とにかく政治について語らなくなった。テレビをみるなら永田町よりも「笑っていいとも」のほうがはるかに精神的にいい

一言でいってしまえば(ほんとはそれはよくないのだろうが)閉塞感と絶望感だ。うえからしたまで小粒ばっかりで、それをみんなは観客意識でながめている。劇場型社会。いまや政治は、テレビのなかでは吉本演芸のレベルになった。そんなこといったら芸人さんにおこられるな。
 で、全然関係ないが、もしわれわれが末期がんになり、余命は1年かそこらということになったらみなさまがた、自分の問題として告知してほしいだろうか。誤診をのぞむが、それはないことにしよう。これ一種の思考実験。で考えられるパターン ①すぐ告知 その後の余生は自分できりひらくしかない。他者は本質的に傍観者となる。ともに死ぬわけではない他者は、いくら想像力をたくましくしても、「死んだ経験のない人、あとからいくひと」として、当事者にかけるべき言葉がない。言葉は無力だ。 ②告知しない しぬまでだましつづける。死を受容しきれない他者が、本人の意向とは別にこうなりやすい。③ 告知はする。だが絶望はしない。終わりが明日かもしれないか、一年後かもしれないという意味で、未来はあり、その短い未来を前提に今日の希望を構築する努力は可能である・・・と信じたい。その努力こそエルンストブロッホがいい、フランクルが指摘した「状態としての希望」 Living in Hopeということだろう。

 なんでこんなこと書いたかというと、今の政治論議に一種の相関性を感じるからだ。 日本は巨大な末期がん患者ではないか。家族はわれわれ日本人。 さて告知するか。行動をともなわないとき、それは絶望の表明である。そして絶望は何もうみださない。告知しない これもいい で、幸せのうたをうたいつづけるのか。 そのまま最後までいくのもわるくはない。青江三奈さんもうたっていたではないか・・・「だましとうしてほしかった。・・・」と。あれ名曲である。さて告知はするが絶望もしない・・・・ ほんとうはこれであるべきだろう。最近憲法9条関係の集会や原発と東北震災関係の集会にでて、50代以上の革新の発言をつづけて聞いた。 ややくたびれた。 基調のトーンは怒りと、絶望だからだ。 ほんとうは希望の歌をこそ聞きたい。特に、若い世代に対して、希望の歌を歌いたい。「絶望したり投げ出すのにはまだ50年ははやい」と背中をどやしてやりたい。 年をかさねるということは、挫折を何度ものりこえてきたはずなのだから、だれもが絶望のうたはたやすくうたえる。(別名をぐちともいうが) だが、本当の意味で、年を取っていくということは、みずからが「希望の歌の歌い手」として成長することなのだろうと、こころ密かに考える。マルチンルターが「明日世界が終わりでも、今日わたしはリンゴの樹を植える」といったことばにひかれる。

最近、何かの会合で意見をいうと、ほんとうに大したことはいっていないのに、本人もびっくりするほど予想外のいい反応がかえってくることが増えた気がして、実は不思議でしょうがなかった。おいらは詐欺師としての素質があったのではないかと心配した。(そういえば50年ちかくも前に大学出たときの記念文集でひとりづつメンバーの紹介を載せてあるページに、おいらのことをプソィドジャーナリストと書いたやつがいたなあ。傷ついた。50年ものPTSDになっているのだ。くそっ・・・・) で、はたと気が付いた。おいらがいいことをいっているのではない。ただ単に年をとったんだ。それだけのことだと。。。。

2011年6月5日日曜日

政治屋Ⅱ・・・猫跨ぎ

  書き出したついでに、別に菅首相を擁護するわけでないが、朝野をあげたすさまじい菅下ろしはどうだ。安保の時の、岸に似てきた。
  菅は駄目という理由の一つは福島原発事故対応の拙さを指摘する。しかし、東電、政府、関連機関いずれも初めての体験で、細かな対応策も未整備だったようだ。相互連絡などのマニュアルがなっていなかった。これは構造的な問題と言うべきで、まあ誰がやってもこんなものでないか。水素爆発やメルトダウンも早期に予想していた専門家はどれだけいたのか。
 二番目に震災対応の拙さ、遅さについては、最大の要因は参議院のねじれ構造にあって、すぐそもそも論に戻ってああでもないこうでもないの議論になるから、法律一本スムースに通らない。遅れるのは当たり前だ。

さっぱり進まないことへの苛立ち、フラストレーションが全部、菅に集中した。あいつのせいだと。しかしいずれも構造の問題で、一個人の資質にするのは菅がいささか可哀相だ。
菅を辞めさせて、与野党の大連立という流れに動いているように見える。しかし、こんな楽観論が上手く行ったためしがない。主導権争いがまたぞろ起こる。

2011年6月4日土曜日

政治屋・・・猫跨ぎ

  誰かが政治家とは見栄と嫉妬のかたまりといっていたが、権力をめぐる政治屋どもの蠢動は見るに堪えんな。これまではそれでも一応は体面は保っていたが、今度は嘘つきとかペテン師とかの言葉が飛び出した。私怨丸出し。どこまで堕ちるか。鳩山という人間は民主党の設立に何億とかの金を出したんだろう。だからオーナー気分で、菅などは雇われマダムくらいに思っているのではないか。その金だって母親の私財で、いまでも相当の子供手当をもらっている。この男は決定的な何かが欠落している。何だろうな、羞恥心かな、いや何かな。あれ、彼は引退すると言っていなかったか。とにかく気持ち悪い。
  菅も何やらにやにや笑ってこれも気持ち悪いが、あと半年くらいやらしてやってもいいじゃないかね。それも許せんというのは頭の中が、全部わたくし事で占められている証拠だ。一昔前は、腹の中はどうであろうと、外見は「公事(おおやけごと)」の舞台を演じる遠慮があったが、それも吹っ飛んだ。それにしても、先日の国会の堂々巡りをする代議士の面々を見ていたが、薄っぺらな頼りない顔ばかりになってしまったなあ。みな自分の御身大事でどちらにつけば有利か、それで頭がいっぱいだ。ここ十年こんなことばかりやっていないか。戦前はこんな風景のなかでクーデターが起こったんだな。ファッシズム待望論か。