2011年6月7日火曜日

どうもなあ・・・・逸徳

お師匠のご高見を読んで、感じるところを書くかと思ったが、どうも熱意がわかない。これが、30代ぐらいなら延々と論じたろうに。 感想についてはほぼその通りだ。あの政治家どもの中に何者かを期待できる顔をしているやつはいない。ひとことでいって下品だ。醜悪だ。腐肉のにおいがする。あるのは猛烈な既視感である。こんなことばかり日本は数十年もつづけていなかったか。とにかく政治について語らなくなった。テレビをみるなら永田町よりも「笑っていいとも」のほうがはるかに精神的にいい

一言でいってしまえば(ほんとはそれはよくないのだろうが)閉塞感と絶望感だ。うえからしたまで小粒ばっかりで、それをみんなは観客意識でながめている。劇場型社会。いまや政治は、テレビのなかでは吉本演芸のレベルになった。そんなこといったら芸人さんにおこられるな。
 で、全然関係ないが、もしわれわれが末期がんになり、余命は1年かそこらということになったらみなさまがた、自分の問題として告知してほしいだろうか。誤診をのぞむが、それはないことにしよう。これ一種の思考実験。で考えられるパターン ①すぐ告知 その後の余生は自分できりひらくしかない。他者は本質的に傍観者となる。ともに死ぬわけではない他者は、いくら想像力をたくましくしても、「死んだ経験のない人、あとからいくひと」として、当事者にかけるべき言葉がない。言葉は無力だ。 ②告知しない しぬまでだましつづける。死を受容しきれない他者が、本人の意向とは別にこうなりやすい。③ 告知はする。だが絶望はしない。終わりが明日かもしれないか、一年後かもしれないという意味で、未来はあり、その短い未来を前提に今日の希望を構築する努力は可能である・・・と信じたい。その努力こそエルンストブロッホがいい、フランクルが指摘した「状態としての希望」 Living in Hopeということだろう。

 なんでこんなこと書いたかというと、今の政治論議に一種の相関性を感じるからだ。 日本は巨大な末期がん患者ではないか。家族はわれわれ日本人。 さて告知するか。行動をともなわないとき、それは絶望の表明である。そして絶望は何もうみださない。告知しない これもいい で、幸せのうたをうたいつづけるのか。 そのまま最後までいくのもわるくはない。青江三奈さんもうたっていたではないか・・・「だましとうしてほしかった。・・・」と。あれ名曲である。さて告知はするが絶望もしない・・・・ ほんとうはこれであるべきだろう。最近憲法9条関係の集会や原発と東北震災関係の集会にでて、50代以上の革新の発言をつづけて聞いた。 ややくたびれた。 基調のトーンは怒りと、絶望だからだ。 ほんとうは希望の歌をこそ聞きたい。特に、若い世代に対して、希望の歌を歌いたい。「絶望したり投げ出すのにはまだ50年ははやい」と背中をどやしてやりたい。 年をかさねるということは、挫折を何度ものりこえてきたはずなのだから、だれもが絶望のうたはたやすくうたえる。(別名をぐちともいうが) だが、本当の意味で、年を取っていくということは、みずからが「希望の歌の歌い手」として成長することなのだろうと、こころ密かに考える。マルチンルターが「明日世界が終わりでも、今日わたしはリンゴの樹を植える」といったことばにひかれる。

最近、何かの会合で意見をいうと、ほんとうに大したことはいっていないのに、本人もびっくりするほど予想外のいい反応がかえってくることが増えた気がして、実は不思議でしょうがなかった。おいらは詐欺師としての素質があったのではないかと心配した。(そういえば50年ちかくも前に大学出たときの記念文集でひとりづつメンバーの紹介を載せてあるページに、おいらのことをプソィドジャーナリストと書いたやつがいたなあ。傷ついた。50年ものPTSDになっているのだ。くそっ・・・・) で、はたと気が付いた。おいらがいいことをいっているのではない。ただ単に年をとったんだ。それだけのことだと。。。。

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