2011年6月17日金曜日

関東大震災・・・国兼

同名の吉村昭の本を読んで感じるところ大であった。
今春のホロホロ会の駒形屋でのドジョウを食べる前に皆と両国駅で待ち合わせ、近くを散策をした。予定していた旧安田邸庭園は3/11の影響で閉鎖しており、その結果予定外の近くの関東大震災祈念会館広場(今は横網公園というらしいが)を見学することになった。会館には当時の震災の写真や焼け爛れた当時の火災の激しさを示す遺物が展示されていた。どうしてこの場所に、何でだろうと思っていたが、吉村昭の本を読んで納得した。実はこの場所は当時陸軍被服廠のあった所で、被服廠が移転し2万坪を越えるこの敷地が空き地のままであった。
大正12年9月1日、相模湾沖のM7.9の大地震による関東大震災で、特に土地の脆弱な東京の下町界隈は建屋の崩壊とそれに続く大火災に見舞われ、4万近くの人がこの被服廠跡に難を逃れ殺到した。おりしも、ここを取り巻く周囲の熱風により旋風が何回もこの場所を襲い火の粉が降りかかり、逃げ惑う人々が折り重なって焼死したり圧死したという。その数4万弱という。東京市の死者は8万弱といい、内50%を越える人がこの被服廠跡で亡くなり、関東大震災で最大の死者が発生した場所であり、そのような謂れのある場所なのであった。その旋風の激しさはすぐ近くの旧安田邸の庭木が根こそぎ捥ぎ取られ、中には捩れ千切れていた木もあったという。いずれ、又訪れたいと思っている。
 
 ちなみに震源地により近い横浜でも多大な家屋が全壊し、火災の発生で数万人が亡くなったが、ここでは略奪行為も発生したという。特に、1日夜に「朝鮮人が放火している」という朝鮮人に特定した流言、蜚語が発生したのも横浜の本牧という。この流言は次第にエスカレートし「武装した朝鮮人の集団が放火し、略奪し、強姦し、毒薬を撒き散らしている」等々の流言が、あっという間に2日の日の午前中には東京まで、更に拡張されて伝えられたという。流言に驚いた東京市民は各地で自警団を組織し、見慣れぬ人間を尋問し、少しでも言葉の発音におかしい者はリンチを受け殺害された。自警団はその数を頼みに警察をも無視して凶暴化し、どんどんエスカレートしていった。この大震災で殺害された朝鮮人の数はその後の政府発表では230人と極めて過小に報告されたが、吉野作造博士のその後の調査では2613名、更に朝鮮同胞慰問会なる団体の調査では6千人を超える朝鮮の人が難にあったという。
 この関東大震災祈念会館広場には、褌子さんが探して見つけたこれら朝鮮の人々のいわれ無き死を悼む「朝鮮人慰霊碑」も建てられている。
 吉村昭が言う。騒擾を好む一部日本人の残虐性がと・・・。思うに、それを無批判に同調する多くの日本人がと・・・。孔子曰く「君子和して同せず、小人同じて和せず」と。

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