吉村昭『関東大震災』は十数年前に読んだことがあり、上野の不忍池が遊女の死体で埋まったなどというところだけ記憶に残っていたが、↓の国兼氏の発言では先日の震災記念館が焼死体の山をきずいた陸軍被服敞あとだったんだね。
それで記念館ができて震災で焼けただれた車や機械などが展示してあったのか。
不逞朝鮮人に注意せよのデマを最初に流したのは、千葉県船橋市行田にあった日本海軍の電波塔です。
震災被災者の不満が政府に向かうのを恐れた権力が、いちばん弱い立場の在日朝鮮人に被災者の怒りを誘導した。
さて、ことしの三月十日の東京大空襲の記念祭がことしも隅田川にかかる吾嬬橋のそばの隅田公園であった。
わたしも浅草で平和運動やっている人にさそわれて参加した。言問橋なども両岸から火に追われて避難してきた避難民が橋のうえでぶつかり、熱さのあまり何万人も隅田川に飛び込んだが、水温は10度くらいでたちまち水死したという。まさに火攻め水攻め。
地震も空襲もこわいなあと思って帰ったら、翌日が3月11日であった。
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