原発の状況評価をめぐる客観的な議論をしようとしているのであって、ちと議論がずれている感じがするがいかがか。 原発についていえば、そう簡単にはいかんというお師匠の指摘はわかる。だが、これはもうどうにもならんのであって、結論は明確に見えているのだと思う。つまり、おいらからいえばあれはもう人類の遺伝子プール全体をかく乱する反倫理的技術なのだ。 だから日本経済がどうであっても、青酸カリを飲み続けるわけにはいかんということであって、要はいかにはやくやめるかという議論しかない。それにともなう副作用は、もうこれは何がおきてもしょうがない。おいらはそう思っている。ちなみに倫理というより環境という要因を考慮にいれていない経済学や、経済活動はいびつだなあ。だから、再稼働を申請している電力資本とそれにつらなる一連の資本は、あれはもう麻薬中毒にちかいな。
ある社会的政治的選択が行われたとき、その結果に対して分析評価し、問題があれば責任を取るというのは、当然のことだろうし、めずらしいことではない。戦争責任もその範疇にはいる。だからこの問題は、別に国際的な力関係とか、傷者や敗者とか、東京裁判などはどうでもいい。歴史論の議論としてはわかるが。問題は日本人が日本人自身の問題として、どう対処してきたかだ。あれを業や宿命だとはおいらは300万の死者の前ではとてもいえん。戦争は悪ではない。そうかもしれない。だが問題は善悪の議論ではないのだ。それじゃあまるで倒産した会社の社長が、責任をとらず「運命です」といっているようにみえるがいかが。(ちなみにその社長が悪人であるという結論は、倒産ということからはでてこない。) 東電の社長もその口か。地震のせいにし続けるメンタリティはまさにそうみえる。はやく東電は破たん処理してしまうべきではないか。
ここでいいたかったのは、原発に対する状況と戦争に負けたときの状況の類似性だ。歴史はくりかえすのだろうか。
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