突然無粋な話ですまない。実は、最近ショックな話を聞いたので、それをあるところに書いたのだが、腹が立ってしょうがない。 そこで、その拙文のコピーをみんなにも読んでもらおうと思い、ここに貼り付ける。 暇なときに読んで。
3.1ビキニデーとは今から60年前に、ビキニ環礁でアメリカ核実験に遭遇被曝した第五福竜丸事件のことを記念した日のことである。こちら静岡では大変有名な事件であり、最近藤枝の高校生や大学生のグループが、これを記念して彼らのちからだけである映画をつくった監督を招いてちいさな講演会を開いた。関係があり招待されたので、そこに出席したときの話である。
・・・・・・映画のタイトルは「放射線を浴びたX年後」、そして監督は伊東英朗氏、もと四国の南海放送のプロデューサーである。彼は、講演の最初にこういったのである。 「長い間の反核、平和運動に携わった方々の熱意と努力に深い敬意を表しながらも、わたしは3.1ビキニデーという言葉をやめていただきたいと思う・・・・」 ビキニデーといえば、第五福竜丸の被災と原爆マグロ、そして久保山愛吉さんという犠牲がはらわれたことなど、こういう問題に深い関心を持つ人でもこういうことしか頭に浮かんでこないのが大多数ではないだろうか。では彼はなぜそのいわば平和運動のひとつのシンボルともなった「ビキニデー」という言葉に異議をとなえるのだろうか。 それはこういうことである。
アメリカが南太平洋で行った核実験は1946年から1962年まで、実に122回におよぶ。第五福竜丸事件は1954年3月1日ビキニ環礁でおこなった水爆ブラボーにかかわる事件であって、実はこの時期に前後して被曝した日本の船は延べ1000隻を超える。(もちろん漁船だけではない) 第五福竜丸は実はその中の1件に過ぎないのである。そしてそこにスポットがあてられた結果、他の船の被曝が今わすれさられようとしているというのである。伊東氏はその実態を南海放送のプロデューサーとして8年にわたって追跡した。その結果を集大成したのがこの映画なのだ。繰り返すが第五福竜丸はほんの一つの例に過ぎないと監督は強調した。そして映画は多くの国際賞を受賞した。
このことについては、さらに驚くべき事実が隠されていた。その後核実験による放射能汚染は全地球的に広がり、海は汚れ、汚染された魚は日本近海でも水揚げされるようになった。(伊豆沖でもとれている)そして全国に放射能汚染の雨がふりそそいだ。魚の汚染について、最初政府はいくつかの港を指定して、すべて遠洋漁船にそこに帰港するよう指示し、放射能検査を実施した。100cpm以下の肴は全部廃棄されたのである。いわゆる原爆マグロという事件をご記憶の方もおられるだろう。ところがである。 1955年、当時の岡崎外相はアメリカと交渉し200万ドルの賠償金で補償をすべて打ち切る。その金は、第五福竜丸乗組員の治療や、漁業関係者への補償などに使われることになる。
一方で、アメリカエネルギー省のサイトにアクセスすると、多くのかっては機密文書だった資料を見ることができる。 それによれば、アメリカは日本列島の被曝を予想していたのである。 そして、汚染はアメリカ大陸にも届いている。だが、それによって核実験は中止されなかったのだ。
だが問題はそこにあるのではない。それとともに政府は1955年12月をもって水揚げされた魚に対する放射能検査を一切中止する。もちろんそれ以後、魚がきれいになったわけではない。国民は、汚染魚をそのまま食べさせられたのだ。 ひとつのデータがある。政府発表でも857隻の漁船が被害を受け、廃棄されたいわゆる原爆マグロは457トンに達した。その多くが築地の魚市場の地下に埋められたのである。その汚染度の高さは、福島原発事故汚染土壌の比ではない。だが457トンを857隻で割ると、一隻あたり533キロにしかならない。つまり汚染魚はこれっぽっちのわけがないのである。では、その他の汚染魚はどこにいったのか。この時期から、暴落した漁価に対する対応として、魚肉ソーセージの大増産がはじまる。 つまり、おそらく我々は、汚染魚の多くを食べてしまったのである。(築地の移転が話題になっているが、あのマグロの場所掘り返すのかなあ。すごい線量だと思いますぞ)
被曝船の船乗りたちからは、専門家も認める放射線による健康被害が続出する。推定2万人。そして、被爆者手帳を申請した被害者は、今もって1件も申請は受理されていない。 理由は、被爆者に対する援護の法的裏付けはヒロシマナガサキに対する者のみとなっているからである。 法を理由にして、不正義をなす悪人を法匪という。 ビキニ以後60年。 彼らを救済しようとする官僚も政治家もついに一人としてあらわれなかった。 つまり彼らは、関係者が死に絶えるのをじっとまっているのである。 これを法匪とよばずしてなんといえばいいか。 そして、われわれはそういう国の国民なのだ。
核実験の影響は未だにおさまっていない。 1957年には福岡で34万カウントの雨が降る。これは年間で24000ミリシーベルトに達するのである。 このような雨は、当時全国でふった。山形で10万カウント 長崎で8万カウント・・・ そしてこの雨に含まれる放射性物質がもしセシウム137なら半減期は30年 ストロンチウム90なら29年、したがってその当時の放射能の雨の1/4はまだ地上に残っている計算になる。そして、もっとも強い放射能の雨がふったのが、沖縄なのだ。天水を飲料にしている島も多かった沖縄である。ああ・・・
書いているだけで吐き気がしてくる。 60年前の歴史は終わっていない。福島の事故をみて関係者は、猛烈な既視感におそわれるそうである。
だが、このような被曝した船の実態をこつこつと掘り起こしてきた高知の高校生たちがいる。その活動をまた紹介してみたい。 若い人たちもすてたものではないのだ。いい大人がついていれば。
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