2012年4月30日月曜日

RE:等身大・・・ 褌子

   こんどの牡鹿半島行きは高校時代の同級生の石見君のすすめで実現した。
彼は佐渡の漁村出身だが、現役時代は漁船の船外機を売りに東北の漁港を歩いていたというから牡鹿半島に土地勘があったのである。それでも半年以上も文字通り「入り浸る」とは…。たった三日のボランティアの自分だって一泊二食6500円の民宿に二泊して新幹線や防水カッパ、酒代などで4万円は使っている。
  質問すると、彼は半年以上もこちらに持ってきている自分の軽自動車やボランティア用に寄付されたコンテナハウスで寝泊まりして自炊もしているのである。風呂はたまに民宿で500円で入るがヒゲぼうぼう。立川市方面からのボランティアの「受け入れと配布」の仕事で牡鹿半島じゅうをかけまわりながら、手伝っている漁民たちの仮作業所で洗濯もしているのだそうだ。奥さんと娘さんが(心配してか)一度だけ、豚汁作りにやってきたとうれしそうに語っていたから決して家族に見放されているわけでもなさそうだ。
  定年退職後にいちど脳梗塞をやっている石見君に、俺たちももう古稀だぜ無理すんなよと石巻駅で別れ際に言ったら「こういうことやっているときがいちばん体調がいいんだ」との応えがかえってきた。
  やっぱり等身大で生きている幸せな男なのである。【写真は石巻駅で別れるとき】

等身大・・・猫跨ぎ

  高速バスでとんでもない事故が起きた。何だか続くね。立て続けに登校の小学生の列に乗用車が突っ込んで死者を出すというやり切れない事故が続いた。一見華奢な軽自動車でも40キロを越すスピードでぶつかれば人間はひとたまりもない。そんな危険と隣り合わせに生きている。一人一台かどうか知らないが車無しでは世の中が回らない。そういう凶器に囲まれて自分は被害者にも加害者にもなりうる環境に起居しているわけだ。そしてもう一つ原発という巨大な存在。生身の人間が何万人も束になってもどうしようもないもの。車社会といい、原発といい、それに対峙する人間は芥子粒のように小さい。家族を例の事故で轢き殺された男が、情報を漏らした警察署長を土下座させて罵っていたのを見た。こんな時の感情のぶつけどころがない。たまたま署長に矛先が向かったのは気の毒だが、つまりこんな社会に押し潰される人の苛立ちだ。そう、こちらは存在のあまりもの軽さ。そういう社会に人は今生きていることを改めて考える。
 瀬戸内寂聴が東京新聞にはげしく生を燃焼させた人々を書いていた。アナーキスト大杉栄とその周辺の人物達である。男と女は惹かれるとすぐ関係を持つ。関東大震災で甘粕以下憲兵隊になぶり殺しにされた。しかしいわゆる主義者に対するこの激しい憎悪は何処から来るのだろう。とにかく人間が熱い。自分と等身大の感覚で対象と向かい合い激突する。おなじく放浪記の林芙美子。猥雑で汗と埃まみれの東京下町で体を張って生き抜く。熱い。同じく皆等身大で生きた時代だった。
たまたま読んでいたので奇妙な比較になるが、今の芥子粒のような人間像に比べて、あの時代は良し悪しは別にして、皆、等身大で生きていたんだなあと改めて思う。
 そこで褌子氏のボランティアを思う。津波の前に人間は芥子粒みたいに流されてしまったが、懸命に立ち向かう人間像は尊い。まさに等身大で復興に立ち向かう。ここから何事も始まるんだと改めて思ったね。ご苦労さんでした。

月浦で支倉常長像・・・・褌子

   三日目も朝六時半から、12人のメカブ切りのおばちゃん達に「おっちゃん!カゴこっち」「おっちゃん!これ運んでえ」と、大奮闘。汗びっしょり、目がまわってきてあわててホースで水道の水を飲んだ。じいちゃんでなく、おっちゃん!おっちゃん!でよかった。一仕事したあとの朝飯がうまい。
いっぱいメカブをお土産にもらい昼の弁当食べて帰ることに。おやじさんが何にもあげるもんがなくてさあと恐縮するが、また来年もきますと約束する。
 石見君が女川港を案内してくれた。高台の女川中央病院から見下ろすと眼下に三階建てのビルが横倒しになっている。銀行員が屋上に避難したが一人をのぞいて全員流されたという銀行支店が目の前にある。女性がじっと手すりにもたれて港をみていた。病院の調理室にいて首まで海水につかったそうだ。いまでも津波襲来の映像はみられないと言っていた。電源喪失まで危機一髪だった女川原発は山のずっとむこうで見られなかった。カモメが群れ飛ぶこんな穏やかな海が千年に一回とはいえ、あの日にかぎって黒山のようにふくれあがって全てをさらっていったのか。
  津波で廃校になった学校のちかくの月浦港の丘のうえで支倉常長像【写真】をみる。支倉常長は伊達政宗の命で慶長年間にメキシコをへてイスパニア・ローマに月浦から旅だった。常長は8年後に受洗もして帰国したがキリシタン禁制で不遇のうちに1622年に故郷で没する。その390年後、未曾有の大津波が月浦をはじめ故郷の村々を壊滅させることなど常長は知るよしもなく像は太平洋をみわたす丘に静かに立っていた。

2012年4月28日土曜日

牡鹿半島ボランティア その一・・・褌子

津波に襲われた宮城県牡鹿半島のワカメ収穫ボランティアに参加した。【おやじさんと記念写真。お化け蛸みたいなワカメの根っこ】
防水カッパ、ゴム長にゴム手、みやげの千葉の落花生をつめこんだ大きなリュック姿で新幹線で仙台着、石巻までのバスにのる。石巻駅まで石見君(佐渡高校時代の同級生で半年以上も牡鹿半島にきている)が迎えにきてくれた。
立川市民の石見君は立川からどんどんボランティアと支援物資を牡鹿半島に送りこみ、さらに牡鹿半島のワカメなどの海産物を立川の青空マーケットで売りさばいて支援金をつくるなど一匹狼の優秀な仕切り屋。自称「牡鹿半島を支援する会事務局長」である。彼は佐渡の漁村で育ったので、震災後いてもたってもいられず佐渡にとても似た牡鹿半島に単身、車でやってきた。車のなかやコンテナハウスで寝ていてヒゲぼうぼうだが、どこに行っても漁民に「局長!」と信頼されている。
石見局長の軽自動車で石巻の港をまわったが、冷凍工場が全滅なので日本有数の漁港だったとは思えないほど漁船も少ない。赤サビだらけの巨大なへこんだタンクが横倒しになったまま。道の両脇に津波に一階をぶち抜かれた民家がえんえんと並んでいる。ダンプも走ってない。「復興のツチ音」など聞こえてこない。政府は何をやっているのか…誰もがそういうと局長が話した。北上川河口を越えて、夕方、牡鹿半島小渕浜の民宿到着、この民宿だけが津波から助かった。山の上には桜が満開だが民宿の窓から見下ろすと海岸の近くに瓦礫が山になって積み上げられている。付近のワカメ工場も民家も全滅状態。
民宿で夕食。そばで食事していた女性は飛騨高山から二回目のボランティアに来たという、焼津の元教師だという男性ふたりが大きな布に激励の寄せ書きをしている。
翌朝、六時半頃、突然石見君が迎えに来た。朝飯がまだだというと浜で食えばよい、いますぐ仕事にいこうと車に乗せられ養殖ワカメ業者のおやじさんのところでおろされた。挨拶もなしに新品の防水カッパに着替えて作業開始。船で収穫したばかりの養殖ワカメが網にどっさり入ったままフォークリフトで作業場へ山のように運び込まれてくる。
十数人のおばさん達が根とメカブとワカメがついたままの茎とに切り分ける。ワカメがついたままの茎を九〇度の熱湯におじさん達が投げ込んでボイルする。茶色から瞬間的に緑変したワカメが海水をどんどん流し込んでいる水槽にコンベアで落ちてくる。私の初仕事はこのワカメを冷たい海水で冷やしながら棒で次の工程に送る仕事である。単純な仕事であるが立ちっぱなしなので腰がすぐ痛くなった。次の工程はワカメを三〇キロくらいずつ袋につめて二六%の塩水槽で攪拌するもので出し入れが大変な重労働。さらに塩漬けになったワカメをおばさん達が茎から丁寧にむしり取る工程がつづき、このむしり取られたワカメをさらに圧搾して水分をとばして、夕方には段ボールへつめて漁協へ出荷されるのである。
三月四月が養殖ワカメの収穫期、牡蠣棚が流されて復旧してないので、ワカメだけで一年の収入のほとんどをこの二ヶ月で稼ぐ。朝は四時から船で湾外に養殖ワカメのロープを引き上げにゆくのだそうだ。おやじさんの身内の男性は、これが辛くて絶対漁師になりたくないと思ったが、船も電動化され、さらにフォークリフトが入って嫁ももらったし漁師も悪くねえなあとやっと思うようになったら去年の津波で機械も工場も全部やられてしまった…といっていた。
文字通り朝飯前の仕事をすませて八時半頃から朝食になった。津波後につくった仮作業所であるが煮炊きができるようになっている。卵のぶっかけご飯がこんなにうまいとは。食後ゆっくりお茶を呑むのかと思ったら、もう全員が次の仕事にかかっている。昼は弁当が配られた。黙々食ってまた仕事。作業所わきでカモメをみながら叔父さん達と並んで立ち小便する。一キロくらい先の山の杉林まで津波がかけのぼった跡が残っている。ここに数十軒もの集落があったのか。おやじさんの小学3年の孫が学校から帰って仕事場に遊びにきた。
北海道教育大学釧路分校を三月に卒業したばかりの女性がボランティアに来ていて、自分の母親より年上くらいのおばさん達といっしょに一心不乱に手を動かしている。彼女はちかくのコンテナハウスに一〇日間も寝泊まりして、がんばりぬいて夕方、栃木の実家に帰っていった。
漁民は朝が早く夕方は四時半頃になると仕事終了である。おやじさんが軽トラで民宿まで送ってくれた。車の中で「仙台の高校にまで行っていた孫が帰っていて津波にやられた。もうひとりの孫もその前に交通事故で死んだ。青信号だったんだぜ。孫がひとりになってしまった…。若いときから働いて働いて五千万の家建てて、子供に身上渡したら全部流されてしまったんだ。いまは狭い架設住宅だもんなあ…」とつぶやいた。
津波で流された跡地に秋葉山権現という石碑だけがぽつりと残って建っている。
民宿に帰って風呂と夕飯。ビール呑んだらまだ7時なのにたちまち睡魔が襲ってきた。

2012年4月23日月曜日

佐渡放鳥トキ雛誕生・・・褌子

  世に言う健康法は人それぞれ、とは全くその通りだ。
わたしの郷里の長兄は86才で70年くらいタバコと酒のみ放題だが、今のところは何ともない。戦争中腹空かせたからそのぶん食いたいだけ食って魚釣りに車で毎日でかけて刺身を食っている。
  新藤兼人監督は99才で『一枚のはがき』を撮影した。すごいといえばすごいがやっぱり歳だなあというできばえだった。
黒澤明も晩年は「どれすかれん」「まあだだよ」とか、これがあの「七人の侍」の監督かと思うようなたわいない気楽な映画をつくった。年取って体力気力がおちるということは芸術家にとってもきびしい現実がまちうけるのだ。
  佐渡で放鳥されたトキから雛が誕生したと報じられている。私の実家のすぐそばにトキ飼育センターがある。
このトキはすべて中国の奥地で捕獲された渡来トキの子供たちである。日本のトキは絶滅したが中国由来の「ニッポニアニッポン」が60羽くらいに増えた。二三才で大人になってペアをくみ抱卵をはじめるというから本能というものは不思議なものだ。
  人間も地球の隅々にすみついて人口は増えるばかりだが、核エネルギーにまで手をだしてこんな繁栄はいつまで続くのか。人類だけが年中あっちこっちで戦争して猛烈に殺し合いをやるというのもやっぱり不思議だ。
  明日、牡鹿半島にいく。一週間以上、ワカメの収穫ボランティアやる予定だったが、やぼよう殺到で二泊三日になってしまった。ったく。
   春愁や憂き世のつきあいもうやめたい(19字)

2012年4月22日日曜日

健康法・・・猫跨ぎ

  映画監督の新藤兼人氏が今日、百歳の誕生日を迎えた。まだ矍鑠と現役なのは目出度い。医師の日野原重明氏と並び称される。数年前だが、この二人の実に印象的な対比をテレビで見た。まず日野原氏が自身の食事につき話をしている。朝食はジュース。昼は乾パン二、三枚とジュース。夜はまあ普通の和食。これくらいが高齢者に丁度良い、ということだった。たまたまチャンネルを回すと、新藤氏が出ていて偶然同じ食事の話をしている。「朝食はしっかり食べねばいけません。空腹ではいいシナリオを書けませんよ。ビフテキなんかも食べます。」という。これは可笑しかった。世に言う健康法は人それぞれ。画一的なことをいっても始まらないという見本だ。

2012年4月21日土曜日

脚気には征露丸・・・褌子

  「茶のしずく」といううまいネーミングの石鹸の添加物が猛烈な小麦アレルギーを発症させるとは恐ろしい。
  今はやりのヒアルロン酸とかコラーゲンとかも回春薬みたいにみんな怪しい。
  さて、脚気といえば征露丸。いまはラッパのマークの「正露丸」(大幸薬品)となっているが、もともとは日露戦争時に脚気の薬として大量使用されたのがはじまりだという。「クレオソート丸」という名前が、ロシアを征伐する「征露丸」となった。
  もちろん脚気=細菌説の森陸軍軍医総監も征露丸の使用に熱心だった。陸軍では毎日、脚気予防に征露丸を服用させたが、もともと“脚気菌”なんていないのだから薬効むなしく日露戦争では陸軍兵士25万人が脚気に倒れ、27,800人が死亡した。 (こんな脚気哀史は司馬遼太郎『坂の上の雲』にはでてなかったが)
  仁丹もそういえば将軍マークだ。仁丹は日露戦争中に「病原菌をよせつけない懐中薬」として大量発売された。創業者の森下博が明治四年の台湾出兵に同行した際、現地の住民が服用していた丸薬をヒントに「最良なる毒消し」として開発し発売。ここでいう「毒」とは“脚気菌”をはじめチフスやコレラや梅毒のこと。大正期に入ると、当時猛威を振るっていたコレラに対しての予防を森下仁丹は前面に打ち出し庶民のあいだで爆発的に愛用されることになる。
  日本兵士は福助の軍服を着て征露丸や仁丹を背嚢にしのばせて明治38年以来一度も改良されなかった旧式銃三八銃で敗戦まで戦い続けたのである。
  もっとも陶器の筒状で携帯に便利な石井式濾過器は中国大陸での不衛生なたまり水も日本兵が飲用可能にするうえできわめて効果が大きかったと、多田重男さんという元衛生兵だった近所のおじいさんから昔きいたことがある。(衛生兵のいちばんの仕事は「従軍慰安婦」の性病検査だったそうだ)
  森村誠一『悪魔の飽食』で生体実験などの悪事が暴露され衝撃をあたえた関東軍防疫給水部731部隊の石井四郎部隊長が開発した石井式濾過器である。

2012年4月20日金曜日

茶のしずく・・・猫跨ぎ

  茶のしずくとかいう石鹸がまた似た展開となっている。早く周知すればよいものを何かをおもんばかってずるずる先延ばしし、出さなくてもいい被害者を出してしまったと原告団は怒っていた。全く同じ構造だ。しかし―
 このアレルギー話は良く分からんな。要するに石鹸の主要成分ではなはなくて、髪の洗い上がりをしっとりとさせるのに添加した或る成分が問題を起こした。「(日本アレルギー学会は)小麦の加水分解成分「グルパール19S」が原因とみられるとの見解を示した。同学会は、この成分が顔の皮膚を通して体内に入ることで小麦に敏感な体質となり、小麦を含む食品を食べるとじんましんやショック症状を引き起こすことがあるとしている。」とある。人体へのこの強烈な副作用はどの程度知られていたのか。知っていて加えるはずもない。まあ4000万個売ったと言うから、分母がでかくなって、問題が顕在化したということなんだろうが。ラーメンが食べられなくなったと悲痛な顔で訴えていた。しかし良く分からんな。特殊な化学品ではない。小麦の加水分解物だ。こんなことがあるんだ。何だかこの裁判は紛糾しそうだ。

同じ話しをくりかえすということは…褌子

 森軍医総監の話は、当欄で昔おなじような発言があったなあとうすら覚えがありました。
  同じ話を何度も何度もくりかえすのも老化の症状とか。
  しかし薬害エイズも水俣病もそして原発事故も似たような構図になっている。同じ誤りを何度も繰り返すのも日本社会の病理かもしれない。
  もう原発は再稼働だと政府が騒いでいるが、まだ福島原発は毎日水をそそいで冷却中でまさに事故の真っ最中ではないか。とんでもない話だ。

脚気再掲・・・猫跨ぎ

森鴎外のその話は以前書いたなと思いだして、調べると2005年7月に投稿している。ちょっと別な視点を書いている。以下の通り。

日清・日露戦争に参加した日本兵が脚気に苦しんだことは私も断片的に聞いたことがある。森鴎外が真の原因をうすうす気付いていたのに頑なに細菌説に固執したのも、彼の東大時代の同級生との出世競争が絡んでいたとか。責任ある立場、立場での、派閥、面子、責任回避など、ついこの前の、薬害エイズ事件と全く同じ構造であることに驚く。とにかく動き出す迄が大変で、出さないでも済む犠牲者をさんざん出したのち、局面がぐるっと転回すると脚気もエイズも原因は明々白々の疾病としてケロリとしている。結局、本当の責任者を出さない見通しが立って幕引きとする。変わらんなあ。

『陽だまりの樹』のつづき森鴎外のことなど・・・・褌子

   森鴎外は偉大な文豪だが、陸軍軍医総監として頑迷固陋な医学者でもあったという逸話がある。
   『陽だまりの樹』にもさかんにでてくるが幕末から明治にかけてコレラが大流行し日清戦争の戦死者のかなりの部分がコレラ菌の犠牲者だった。
 この影響もあって、日清戦争の10年後の日露戦争のときに日本兵がつぎつぎと脚気で倒れてゆく原因を森陸軍軍医総監は正体不明の細菌のせいだと頑強に主張する。(日露戦争の戦死五万の半分が脚気で死亡したという説もあるくらい)
 農村出身の二三男の兵達が白いご飯が毎日食べられると軍にあこがれるような当時の日本庶民の非常な貧しさが背景にあって、脚気の原因がビタミンB欠乏症だということに日本の医学はまだ気づいていなかった。
 陸軍側の細菌説に反論したのが海軍の高木軍医少将で栄養に関係があると主張した。けっきょく日露戦争直前に二艘の駆逐艦に白米ばかり食う水兵と白米を食わせない水兵をのせてハワイまで往復させるという実験をして、栄養原因説の正しさを立証した。
 それでも森軍医総監は日露戦争中も細菌説に固執してドイツ医学がビタミン欠乏症だと完璧に証明するまで自説を決して撤回しようとしなかったと、吉村昭『白い航跡』は詳細な調査にもとづいて書いているから、森軍医総監が名作『雁』や『高瀬舟』の森鴎外と同一人物かと驚く。
 高木督篤は日本最初の看護学校の創立者でいまの慈恵医大の前身だそうだ。
 ――――― 朝散歩したら、もう桜は完全に散ってしまっている。地面の花びらも風でとんでしまいどこにも見あたらない。
  藪のなかではシャガの花が咲いていた。ヤブ蚊もでてきてもう初夏の気配…。ウグイスの鳴き声もものうい。

2012年4月18日水曜日

『陽だまりの樹』・・・・褌子

  手塚治虫原作の『陽だまりの樹』がテレビドラマになり、芝居にもなって上演されている。
  われわれの年代には手塚治虫ファンが多い。
  私も小学時代からの手塚漫画ファンでだいたい全巻読んでいるのではないか。(ほぼ全作品を読んだり観たりといえるのは吉村昭の小説と黒沢明監督の映画くらいか)
  中学時代の思春期には手塚漫画で「性の秘密」を知った懐かしい思い出もある。
  子供の頃は「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「ぼくの孫悟空」そのあとは「三つ目が通る」「ワンダースリー」などが懐かしい。
  そしていい大人になってからは「アドルフに告ぐ」「ネオ・ファウスト」「奇子」「ルードウィヒ・B」「火の鳥」「ブッダ」など。
  最近も小学生の孫に「三つ目が通る」、中一の孫に「ブラックジャック」全巻を送ったばかり。
  黒沢明は青年期にドストエフスキーとシェークスピアを徹底的に読んだそうだが、手塚治虫もドスエフスキーとゲーテの「ファウスト」をなんども愛読したのだそうだ。私自身はドストエフスキーもシェークスピアも「ファウスト」も面倒くさくてほとんど読んだことがない。
  『陽だまりの樹』では蘭方医に対して幕末の江戸城に詰めている多紀一派などの漢方医が種痘所に反対したとして悪者に描かれているが、森鴎外の『渋江抽斎』を読んでいたら彼ら漢方医の役割を高く評価しているくだりがあって面白く思った。

2012年4月17日火曜日

猫というものは・・・猫跨ぎ

猫については後半かなり濃密に観察する機会があった。猫には行動パターンがあってそれをなぞるところがある。寒冷期には二階の私の布団の上、及び中が定位置。体力が弱ってからは一階に小さな寝床を作ってやり、そこにおとなしく起居するようになった。
死期間近のころである。呼ぶと必ずこちらを向き、ひと声鳴いていたのが、全く反応しなくなった。手を近づけると必ず舐めたのも反応無し。すっかり「人」が変わってしまった。
死ぬ四日前。夜十時頃、布団に入って本を読んでいると、ひょっこり二階へ上がってきた。ぐるりと部屋の中をパトロール。それから布団の私の胸の上に来て私を見おろす。しかし視線は私を見ていない。敢えて言えば私の顔の背後か。撫でてやっても勿論反応なし。いつものように足元に一時香箱を組み、それからゆっくりと下へ降りて行った。これが二階へ来た最後である。下で爪研ぎをしているのが聞こえてきて驚く。重病人がラジオ体操をしているようなものだ。その時、体が覚えている行動パターンをなぞっているなと思った。意識(猫の意識など判らないが)は完全に内向きになって、私との関係性は皆無になっていた。

2012年4月16日月曜日

動物派と植物派・・・褌子

動物派、植物派というのもある。
小樽出身の古生物学者井尻正二は、犬や猫ほど面白いものはいない。一日中みていて飽きないといっている。野尻湖のナウマン象の発掘などに熱中したひとだから、人類にもっとも身近な動物で進化し続ける生命体に興味が尽きなかったのだろう。犬も猫も人間と共存することによって種の繁栄のみちを選んだ。彼は植物ほど動かず鳴かず飛ばず陰湿なものはない。犬猫よりも盆栽などをいじくりまわして喜んでいるひとの気が知れないといっている。
 しかしうちの近所のおじさんは年中鉢植えの早月や松柏などに針金をぐるぐるまいて無理矢理ねじまげ古木風に仕上げるのがじつに楽しそう【写真】。イワヒバも一鉢何十万円もするんだと泥棒対策に余念がない。

2012年4月15日日曜日

猫派と犬派    九州のl熊

みなさん猫がお好きなようで・・。猫と言えば昨年他界したわたしの母のことを思い出す。わたしの母は猫が大の苦手だった。通りすがりで近くを猫が通り過ぎるだけで身体が固まって天を見上げる。自分の身体に触れると“キャーッ!”と叫び声をあげる。あたりかまわず金切り声で。よっぽど嫌いだったのだろう。犬はそうでもないけど・・。世の中には犬派と猫派がいるとか。普通はあまりこだわりなく両方かわいいと感じるのが大勢のようだが。面白いことに私の長兄と妹も母のDNAを受け継いでいる。そしてすぐ上の兄は長年かわいい猫と暮らしていて世にいう愛猫家、それも半端な接し方ではない。いい年ををして抱きしめて頬ずりをする。私は嫌いというほどではないがあまり好きでもない。こちらが無関心であっても勝手にからだを摺り寄せてくる身勝手さ、厚かましさはあまり好きでない。まあどちらかというと嫌いに近い。わたしのむすめと息子は愛猫家。これはわたしの家内の遺伝だと思う。蛇をペットにするひともいるようだが動物好きもいろいろだね。

RE:猫句に想う・・・・・褌子

・瘠猫の鼻梁ひいでて春深む
  写真で拝見すると非常に美人で聡明な猫だね。目もとくっきりと毛並みもじつにいい。私は猫を飼ったことがないのでよくわからないが、作者とは相思相愛であったのだろう。
・桜草の大日時計に猫とあり
  猫好きの話をきくと話がとまらない。米原真理も大変な愛猫家であったらしく彼女のエッセイは猫自慢がえんえんと続く。猫は人類とのつきあいも長いなあ。いま愛読している『銃・病原菌・鉄』は人類がペットを友にしてゆく永い歴史を物語っている。
・猫の背に夕日のあたる花の冷え
  こんなに美しい毛並みの猫だもの。夕陽が照り映えるつやつやとした猫の背がみえるようだ
・妻知らぬ桜のときに猫逝けり
  猫跨ぎ氏の奥様がいちばん愛していた猫だったんだね。
・これよりは花明りとも無明とも
  津波で子供を失った母親が朝な夕なに海辺に立ち尽くして泣いているという。
  東北にいってもわたしは何もすることができない。語ることばももってない。
  みちのく各地をことしもまた桜の開花が北上してゆく。年々歳々変わらぬ自然の営み。人の世の無常にこの句をひそかにつぶやくことにしよう。  

2012年4月14日土曜日

別れ・・・猫跨ぎ

  申し遅れたが飼っていた猫が死んだ。今月7,8日と犬山へ俳句の旅行に出掛けたが、8日夜帰宅すると冷たくなっていた。2月初めから何故か殆ど餌を食べなくなった。犬猫病院に見せ詳しく調べたが、はっきりした所見なし。腎臓がやや弱っているが、と言う程度。要するに寿命と言うことだった。16歳で家猫だったからあと2,3年はと思ったが旅立ちはあっけなかった。爾後、徐々に瘠せ、最後は骨と皮になったが、死ぬ前日までトイレの排泄(小便のみ)は自力で行い、周りに一切の迷惑はかけまいとするかのようだった。最後まで矜恃を失わなかったというしかない。前日までというのは、遺体の傍のベッドは大量の尿で濡れていた。最後の夥しい排泄はまるで体液を振り絞ったかのようだった。苦しんだに違いないがそれも飼い主には見せずに逝ってしまった。ペット霊園で火葬に付し、骨壺に入れて仏壇に置いてある。

瘠猫の鼻梁ひいでて春深む
桜草の大日時計に猫とあり
猫の背に夕日のあたる花の冷え
妻知らぬ桜のときに猫逝けり
これよりは花明りとも無明とも

2012年4月13日金曜日

春だね・・・猫跨ぎ

函館にも春が訪れたらしい。五月にかけて急いでページを捲るように、春爛漫となる。    
飾らぬ春到来の喜びがあるね。そんな五句ほど鑑賞。

・蜂蜜の固まったまま鳥帰る
・ママレード春を延ばしてをりにけり
食卓にも春が来た、の風景。それでも蜂蜜の固まったままとは、春まだ来の感じね。
・風光る人見知りする男の児
風光るは春の季語のなかで特筆のもの。風と光が命を孕んでいる如く躍動感がある。
人見知りする子供にも間違いなくあるんだ。
・川音を色に変へけり糸柳
柳の新緑は実に目に沁みるね。これも典型的な春らしい景色。
・風呂敷に春満月を包みけり
西瓜でもくるむように満月を包んでどこへ行こうか。この春宵に。

函館にも春せまる・・・・褌子

・宇宙から何か落して四月馬鹿
きのうみたBSコズミックフロントの大マゼラン、小マゼラン星雲は面白かったな。
われわれの銀河系ちかくにある大小二つの星雲が衛星星雲だと思っていたが、いずれ宇宙の彼方へ飛び去るということが証明されたのである。一期一会
・さくら餅葉も食べる人食べぬ人
わたしは食べます。
・漬物のうすひ味付け鳥曇
鳥曇りとはいい季語だね。春がきたという雰囲気がある。特選
・ホーホケキョ餌台のある無人駅
朝の散歩で近くの竹藪で耳をすますとウグイスがさかんに鳴いている。可愛い声だな。無人駅ののんびりさとウグイスののんびりした鳴き声。
・うららかや何処に打とうか句読点
春がきたね。けっこうだ。めでたい。
・川音を色に変へけり糸柳
春の小川のせせらぎがきこゆる
・風呂敷に春満月を包みけり
平和だね。空気が湿っている。やはり春だ。
・風光る人見知りする男の児
町中や電車のなかで赤ん坊をみると無性に可愛くみえるようになった。余裕がでたと  いうか、ようするに暇になったんだね。
・蜂蜜の固まったまま鳥帰る
冬鳥は北方に旅立ったが、蜜蜂はまだ働く気配がない。冬と春の微妙なせめぎ合いが一句にでている。準特選。
蜜蜂の箱をイチゴのハウス農家に貸したら、全部ハチが死んでいたと知り合いが言っ  ていた。やはり千葉でも今冬の寒さはひどかったんだ。もう少し気温があがると蜜蜂  も元気よく働きにでることだろう。
・ママレード春を延ばしてをりにけり
ママレードの黄色は春色そのものだが、函館にはまだ冬が居座っているということか

■大学の卒論原本がデジタル化したのでと中村邦夫先生の名前でご丁寧に送られてきた。
 「両性高分子電解質うんぬん」と題してある。へーこんなこと勉強したことあったのか

函館通信175・・・櫻狂い・・・仁兵衛

 西原さんからの櫻歩きの写真楽しませて戴きました。都内には本当に櫻が多いと改めて知らされた感があります。住宅街に次々に現れる桜はたとえ一本づつ別れていても結構どの木も風情を出しているのが判ります。櫻狂いも当然出て来るのでしょう。北朝鮮に櫻を沢山植えてミサイル・核狂いを治せないものか真剣に外交政策として取り上げてみてはどうだろうか。
 函館の櫻はまだまだですが枯れ木に花を咲かせる気持ちで十句ご覧あれ。

  宇宙から何か落して四月馬鹿
  さくら餅葉も食べる人食べぬ人
  漬物のうすひ味付け鳥曇
  ホーホケキョ餌台のある無人駅
  うららかや何処に打とうか句読点
  川音を色に変へけり糸柳
  風呂敷に春満月を包みけり
  風光る人見知りする男の児
  蜂蜜の固まったまま鳥帰る
  ママレード春を延ばしてをりにけり
 

2012年4月11日水曜日

人慣れ雀・・・猫跨ぎ

  西原さんの写真にあった不忍池の珍しい手乗りの雀たち。これ「人慣れ雀」といって鳥類専門家の間でも話題になっているらしい。雀は警戒心が強く、人が近づくと必ず逃げる。この様に全く警戒心を見せないのは本来ならあり得ない。こういう現象が2010年の数年前から日本各地の公園で見られるようになった。理由はと言うと、団塊の世代が大量に定年を迎えるなど、公園で時間を過ごす人が多くなった。つまりのんびりとパンくずなどを与える機会が格段に増えたからというのである。雀が警戒心を見せなくなったのは、要するに社会が豊かになり余裕が出てきたあらわれと説明される。言いかえれば、社会の尖りが緩んできたということか。こんな処に社会の変化が反映されているというのも面白い。東京ではこの上野公園、不忍池が代表的なスポットという。

2012年4月6日金曜日

いい東京散歩でした・・・褌子

西原さんから写真がきたので転載いたします。みなさん気品のあるきりりと引き締まった顔ですね。 いい東京散歩でした。寒風に咲く初々しい桜。颯爽軽快に歩く初老の紳士達

  樋口一葉も釣瓶で水をくんでいたという井戸と昔のポンプ、そのまわりの古い家と石畳の狭い道などが印象深い。上野東天紅での紹興酒もうまかった。とくに散歩途中で飲んだ冷たいビールの味は生涯忘れません。(生涯不忘事がずいぶん増えちゃったな)

  【写真=沢蔵司稲荷の椋、関東大震災にも東京大空襲にも耐えて焼け残ったような風格あるムクの巨木。国兼写真館謹撮】

2012年4月5日木曜日

駒形どせうでした・・・・褌子

下↓の写真が縦長すぎて、國兼さんのふんどしのハシからはみだしているみたいなので改行マークを冒頭に三つくらい入れて調整しました。あしからず。去年は駒形ドジョウでしたね。思い出しました。被災地で大勢困っていてもドジョウ喰うために暇人で混んでいて待たされた。

かにかくに・・・猫跨ぎ




この写真は公開していなかったかな。その駒形どぜうで順番待ちをしているところ。社長はずいぶん大きなマスクをしていたんだなあ。
定期的に逢っていると、いつの間にか随分と歴史を重ねていることに気付くね。しかし不思議と天気に恵まれる。明日は風も収まり格好の散策日和。
ところで、大雪の写真の五本さんの隣の女性。五本さんの友人。同期でこういう人いなかったかな。何せ記憶がない。事務の人じゃないよ。
(追記:褌子殿、どうもありがとう。この隣の女性は清水さん。五本さんと一緒によく山へ行っていたらしい。橋本君より)

歴史をきざむ東京散歩・・・・褌子

   セピアとは烏賊の墨の色か。また利口になってしまった。
   秋のHorohorokai旅行とは別に、毎年4月花時に上野の樽正で小蔵ひでをさんに幹事をおねがいして飲んでいたが、東京散歩は8年くらい前に仁ちゃんに深川の芭蕉庵につれていってもらい高橋でドジョウ食ったのが最初かもしれない。このときから1年くらい俳句に夢中になったがそのご空中分解。何やっても長続きしないボクの性格は親譲りか。
  翌年もたしか仁ちゃんに桜満開の谷中墓地 ⇒上野コースを案内してもらった。翌2006年4月7日は上野 ⇒谷中まで去年と逆のコースを小倉・宮崎・小林・鈴木・越野・西原で歩いて池之端せせらぎ館で飲んだ。2007年は日記の書き忘れ。2008年4月4日は根津加賀料理店で10人。2009年4月3日は谷根千いったいファーブル昆虫館、高村光雲旧宅、朝倉文夫記念館、根津神社などが記憶に残っている。2010年4月2日は台風並みの強風の翌日で浅草ビューホテルでスカイタワーを観ながら紹興酒を飲みほうだい。
  去年はむろん回向院・関東大震災慰霊塔・朝鮮人虐殺記念碑などみてドジョウを食って3・11の直後だったので生涯忘れられない散歩となった。
  この貴重な文化の薫り高い東京歴史散歩は江戸っ子の仁ちゃんが発案し、秩父の小蔵ひでをさんが幹事をうけついで苦労しながら長年続けてきたものだ。われわれ同期生は優れた幹事をえて何やってもこつこつと遊び事だけは長続きするんだね。【写真は本文とは関係ありません。東大寺で飛鳥のプレ旅行国兼氏小林氏】

2012年4月4日水曜日

みんなあそんでばかりいて・・・逸徳

おいらはあまり山にはいかなかったなあ。 中川さんの左は若き日の中村さん、五本さんの横は事務の・・・えーと、星川さん? うーん名前がでてこない。ちなみにセピア色のセピアはコウイカのことらしい。イカの墨は19世紀にはインクにつかわれていて、これがしばらくすると褐色に退化することから来た。先月「イカの解剖」でスミをつかって実験したばっかり。トリビアでした。

『冬のデナリ』・・・褌子

  五本さんの右の女性、中川先生の左の男性は誰だろう。中川先生は山にいくとこんな風にタオルを頭にまいていたね。
  はっちゃんのセピア色の写真がいい。第二講座で記憶に残っているのがニセコの山スキーだ。
  トムラウシというと先年の遭難事件をおもいだす。
  5月に野麦峠に行くので、山本茂実『ああ野麦峠』を読んでみた。昭和42年頃のベストセラーらしい。非常に感動。さらに『喜作新道――ある北アルプス哀史』を読んでいるが面白い。僕は山はあまり登ったことないが、山岳小説は好きだ。
  井上靖『氷壁』とか新田次郎『芙蓉のひと』とか。圧巻は西前四郎『冬のデナリ』
  『冬のデナリ』のデナリとはアラスカ原住民のことばでマッキンレーのこと。1967年の冬のマッキンレーへの初挑戦を描いたノンフィクション。冬には日照時間が4時間、高度6千mの頂上付近では氷点下50度にもなった上に、風速50mの強風が吹いて、計算上氷点下148度にも感じられるという恐るべき極寒の山。
  植村直己すらも生還できなかった冬のマッキンレーのすごさがわかる。

橋本君より説明あり・・・猫跨ぎ

トムラウシの写真を見た橋本君からメールが入っていた。昭和42年8月の間違い。褌子氏もとっくに卒業したあとだ。
撮影は橋本君。場所は白雲台と言うところ。背景は十勝岳と美瑛山。ほかに小松先生、新井さんが同行していた。
とにかく登山中は曇天、頂上もガス。下山の途中から晴れてきて夕日に照らされて長い尾根を下った、というのは全部橋本君の言。
こちらは断片的にしか覚えていない。三日間のへとへと行程だった。





梅娘に囲まれてしまった・・・褌子

  僕は勉強に忙しくてトムラウシは行ってない。とにかく五本さんだけがとにかく可愛いね。
   昨日の春嵐はすごかったが、今朝4月4日早起きして水戸偕楽園にいった。午前九時の開門と同時に入ったらかわゆい梅娘に囲まれてしまった。さっそく記念写真、まんなかが含羞の僕。シャッター押してるのがサイなのでいつもの握手はご遠慮した。桜はまだ咲いてない。梅は昨日の嵐でだいぶ散ったがそれでも見応えがあった。
  偕楽園の子規、明治22年4月4日の句  
   崖急に梅ことごとく斜めなり
On the steep hill,  Stand aslant the plums, One and all.

昔の写真・・・猫跨ぎ

二講座の新井さんから昔の写真を入手。というか、橋本君の写真らしい、もともとは。どうも撮影時の記憶はないのだが。昭和44年、二講座中心でトムラウシへ行ったときのスナップ。松澤君、五本さんもいる。
数えると43年前か。セピア色もなつかしい。中川先生が若い。我々は若いというか子供だね。雪渓で雪を砕いて氷小豆を作ったが、私はくしゃみ連発で食べるのを止めてしまった。てな、どうでもいいことを覚えている。記憶って妙だ。

寒い・・・・逸徳

とんでもない春の台風さわぎで、みなさん被害はないですか。今日はうってかわって寒気が流れ込んできて、静岡は5分咲きのサクラが寒さに震えております。お師匠の津波の話、今年の3/11に朝日が出した東北震災のデータをのせた特集を念のためにとっておいたのだが、それによると今回の震災では津波そのものではなくて、それが駆け上がった高さ(遡上高)が出ているのだが、宮古で39.7メートル、大船渡で40.0メートルが出ている。これは地形にもよるのだろうが、すごい数字だ。おいらのところは海岸線からは20キロぐらい奥で、ここは海抜は34メートルくらいだからまあいいかなと思っている。浜岡原発は18メートルの防潮堤をつくっているが、予想が21メートルで、中電および再稼働期待の政治家たちはだいぶあせっているようだ。どうするんだろうね。と、高みの見物。 再稼働の件であるが、現在停止中の浜岡原発には使用済み燃料だけで1100トン以上があり、中にはプルトニウムを含むMOX燃料もふくんでいるのだが、これのいきどころがない。英仏に再処理を委託していたが、この契約もつづかないだろう。六ヶ所村の再処理施設はめどがたたない。要するに手のうちようがない。住民が危険だからどっかにもっていってくれといっても、もっていきようがないのである。アメリカはすでにとっくに再処理はあきらめた。日本では深地層処分といったって、この地震列島のどこにうめるというんだろう。要するに、これは解のない問題のようである。したがって、再稼働すれば、子孫に危険な負の遺産をのこすだけで、そんなこと倫理的には許されない。なんか、こどもにもわかるような問題だと思うのだが、それをほっぽいて置いて再稼働といわれてもなあ。

なんだか、良寛の気分になってきた。死ぬべき時には死ぬのが一番いいという諦観にとらわれてしまうのである。もうやけくそ。

2012年4月1日日曜日

巨大地震・・・猫跨ぎ

  東海、東南海、南海地震などが同時発生する「南海トラフの巨大地震」について、内閣府の検討会は31日、科学的に考えうる最大の震度と津波の高さ(満潮時)を公表した。
高知県が34mとかとてつもない数字になっている。御前崎も20m以上とか。逸徳氏のあたりはどうなのか。
ここも「科学的に考えうる」最大の値という事で計算上そうなるという訳だが、歴史的にそんな事例があったのだろうか。東日本大震災の場合は貞観地震とか似た前例があったというが。静岡の場合はどうなのか。
何だかやたら恐怖をあおっているように思えてならないが。34mの津波なんて言われて、対策も何もあったものでない。計算上そうなるなというのなら、巨大な小惑星が落ちて地球壊滅なども心配せねばならなくなる。