2012年4月30日月曜日

等身大・・・猫跨ぎ

  高速バスでとんでもない事故が起きた。何だか続くね。立て続けに登校の小学生の列に乗用車が突っ込んで死者を出すというやり切れない事故が続いた。一見華奢な軽自動車でも40キロを越すスピードでぶつかれば人間はひとたまりもない。そんな危険と隣り合わせに生きている。一人一台かどうか知らないが車無しでは世の中が回らない。そういう凶器に囲まれて自分は被害者にも加害者にもなりうる環境に起居しているわけだ。そしてもう一つ原発という巨大な存在。生身の人間が何万人も束になってもどうしようもないもの。車社会といい、原発といい、それに対峙する人間は芥子粒のように小さい。家族を例の事故で轢き殺された男が、情報を漏らした警察署長を土下座させて罵っていたのを見た。こんな時の感情のぶつけどころがない。たまたま署長に矛先が向かったのは気の毒だが、つまりこんな社会に押し潰される人の苛立ちだ。そう、こちらは存在のあまりもの軽さ。そういう社会に人は今生きていることを改めて考える。
 瀬戸内寂聴が東京新聞にはげしく生を燃焼させた人々を書いていた。アナーキスト大杉栄とその周辺の人物達である。男と女は惹かれるとすぐ関係を持つ。関東大震災で甘粕以下憲兵隊になぶり殺しにされた。しかしいわゆる主義者に対するこの激しい憎悪は何処から来るのだろう。とにかく人間が熱い。自分と等身大の感覚で対象と向かい合い激突する。おなじく放浪記の林芙美子。猥雑で汗と埃まみれの東京下町で体を張って生き抜く。熱い。同じく皆等身大で生きた時代だった。
たまたま読んでいたので奇妙な比較になるが、今の芥子粒のような人間像に比べて、あの時代は良し悪しは別にして、皆、等身大で生きていたんだなあと改めて思う。
 そこで褌子氏のボランティアを思う。津波の前に人間は芥子粒みたいに流されてしまったが、懸命に立ち向かう人間像は尊い。まさに等身大で復興に立ち向かう。ここから何事も始まるんだと改めて思ったね。ご苦労さんでした。

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