2012年9月30日日曜日

大倉集古館・・・褌子

   きのう、大倉集古館にいった。大倉喜八郎は大成建設、サッポロビール、富士銀行などを創業した越後新発田出身の財界人。戊辰戦争、日清・日露戦争でのしあがったので死の商人ともいわれたが、東京経済大学や大倉集古館の設立もした文人の側面もある。アメリカ大使館そばのホテルオークラの前庭にたつ大倉集古館は、西安や洛陽あたりにあるような不思議な建物。
   一階は国宝古今和歌集20巻の巻子本の展示でにぎわっていたが、私はもっぱら二階や建物周辺の古代中国の春秋戦国時代の遺物や北魏の古拙な仏像、高句麗の石塔などにみとれた。王義之などの書画、杜甫や王維の漢詩を日本の江戸期の文人たちがきそって書いた掛け軸もおおい。
    中国文明は朝鮮半島を経由して日本にはいり成熟した。いぜん韓国慶州でみた石仏の十一面観音と滋賀近江の観音様とはそっくりだが成熟さがまるでちがう。一衣帯水の東アジア大陸と日本列島の文物の悠久の交流をおもう。
   明治維新でいちはやくなりあがった近代日本の中国侵略、朝鮮植民地化も、ごく最近数十年の尖閣・竹島のこぜりあいも遠い昔のことのように忘れてしまうかのようなひとときを大倉集古館で過ごした。

2012年9月28日金曜日

お疲れ様・・・猫跨ぎ

  なかなか楽しい秋田旅行をしてきた様で結構でした。ほろほろ企画別バージョンで手に手をとって老いの二人旅も続きそうだね。しかし何かほろりと疲れが感じられるのは気のせいかな。褌子氏に日頃の披露が溜まっているとは、何が起こっているのかと訝ったが、疲労であったか。まあそれも回復したということで結構でした。その温泉は良さそうだね。確か乳頭温泉は日本の三大温泉地とどこかで聞いたことがある。記憶しておこう。
  季節の変わり目が急に訪れて、毎年の事ながらこの時季、体調がよろしくない。喘息持ち共通の現象。しばらくするとけろりとするのだが。
しかし、日韓、日中友好なんて上っ面の言葉遊びのような気がしていたが、その通りになった。お互いに何も理解していないし、行動様式の違いもこの先変わることもあるまい。以前、ソウルに行った折のこと、東大門市場を散策していたら男二人の物凄い喧嘩に遭遇した。真っ赤になって激高している。何が原因かは知らないが、相手の言い分を聞く気などあらばこそ、とにかく自分の主張をまくし立てるだけ。廻りは知らん顔をしている。これが彼等の流儀だ。価値観が先ず前提にある。理屈はそのあとだ。話せば分かるとは日本で通用する言葉だな。中国もまったく同じだ。そういえば、外国で交通事故を起こしたら絶対先に謝るなとよく聞くが、これに類する事だ。すると日本人だけがお人好しか。
  ネットの朝鮮日報を見ていたら、中韓の間で同じ領土紛争が起きかけている。済州島の南150kmにある離於島(岩礁みたいなものらしい)は従来韓国が管轄していたが、中国が急に領有を言い出したらしい。韓国が近くで沈没船引き上げを計画すると、我が領海侵犯だと言いだした。今後中国は「海洋監視船と無人航空機を使って常時監視する体制を築く」という。あれ、何処かで聞いたセリフだ。中国は外洋への出口確保のため、長期的に事を進めている。尖閣もその一環だということがよく分かる。

2012年9月27日木曜日

おひさ・・・・垂れ流しの逸徳です

褌子さんと2泊の旅、よかったです。 日頃の活動で疲労がたまっていた褌子さんが元気をとりもどしたようで、よかったよかった。蟹場温泉はおすすめです。東京から秋田新幹線で、田沢湖で、そこからバスで1時間ですからそれほど遠いわけではありません。 源泉かけ流しを垂れ流しと何度もいいまちがえ、どうも垂れ流しということばには潜在意識的なトラウマがあるようで。 混浴露天風呂ということで、元気を出していた褌子さん、「女性専用入浴時間」が設定されていますと聞いたとたん、顔面に一瞬の失望のかげが。 おいおい、あなた何を考えていたんだ。 もしかしておいらと同じことだろうか。 だとすると相当すけべいだなあ。 まあ自明のことだが。 しかし、この露天風呂すばらしい環境。あたりに人家一切ない国有林のなかの沢のそばにあり、蒼空をながれる雲をあおぎながら、緑の木々と鳥の声をききつつ、天地と融合共鳴できる。なにもいらない。なにもたさない。 まあいつ死んでもいい・・・そういう感じになる。 

で「生もろこし」である。 あれはもともと「もろもろの菓子をこしている味の菓子」というだじゃれで、決して生のとうもろこしではないのはわかりきっているのだが、おいらのユーモアは理解されなかった。 残念。

しかしこういう旅はいい。今度は奥さんとどうぞなんていわれたが、冗談ではない。非日常の世界に没入して傷ついた自我を修復しているというのに。 なんでそんな現実的なことを。

わらび座と蟹場温泉・・・ 褌子

   長いことご無沙汰している。
  きのう逸徳さんとの二泊三日の秋田旅行から帰ってきたら、また元気がでてきた。
  9月の残暑続きですっかり夏負けしてしまったらしい。三日ルスにしたら、庭にはシロバナの彼岸花がにょきにょき伸びていた(写真)。
―――――
  来月には、ほろほろ会で遠野にいくので「遠野物語」をぱらぱらと読んでみた。長々とつづく話にやや倦いていたら田沢湖ちかくの「わらび座」で「遠野物語」をやるというので逸徳さんに同行させてもらったのである。
  角館で集合し、バスで田沢湖近くのわらび座経営のホテルに入る。
  ゆっくり風呂にはいって六種類の地ビールを飲んだ。翌朝、民俗芸術研究所を訪ねたあと、わらび座劇場で「遠野物語」を鑑賞。わらび座を北大体育館ではじめてみたのは三年生のときだったか、あのときの感動がよみがえってきたおもい。もっとも演劇に造詣がふかい逸徳さんは、いろいろ意見を感想文に書いたりわらび座にいる教え子にアドバイスしたりしていたようだが。
  逸徳さんが井上ひさし『新釈遠野物語』をもってきているので借用して読み始めたらめっぽう面白い。
  角館にもどり武家屋敷など見学する。土産物店で「生もろこし」をどうぞと秋田美人の売り子さんが呼びこんでいる。「生のトウモロコシは甘みがあって旨いんだ」と逸徳氏がしたり顔で解説したが、売り子嬢が爪楊枝で口に入れてくれたのは意外にも小豆のさっぱりした落雁みたいな羊羹だったので大笑い。
  バスで深い山の中の乳頭温泉郷に入っていく。いちばん奥の蟹場温泉に泊まった。小雨のブナ林を傘をさして露天風呂に入りに行った。「温泉タレ流しの混浴なんだ」と逸徳さんがしきりに宣伝するので遠野物語の狐狸でも湯につかっているかと思ったが、誰も入っていない。夕闇迫るうっそうとした緑のなかで逸徳さんのカモシカのような裸を鑑賞しながら温泉掛け流しの湯につかった。翌朝も散歩のあと足湯、木風呂、岩風呂などを堪能したら夏負けがふきとんだのだから効能あらたか。本当にいい湯、いい旅でした。さそっていただいた逸徳さんありがとう。

2012年9月20日木曜日

そんな隣人だ・補足・・・猫跨ぎ

  元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏が尖閣の問題でこんなことを言っていた。中国は資本主義近代国家になる途上にある。一般的にそう言う場合、仮想敵国を必要とするというのである。それが日本であると。歴史に例をとると、チェコではドイツ、フィンランドではロシア、などがその役割をはたした。敵意を燃やす中で国民意識が醸成される、と。そして民主的に指導者を選挙できる体制になってようやくそれは終わると。
反日と独裁政権にたいする反発はセットになっている。取り扱いを誤れば、矛先は今の政権に向けられる。中国側もヒヤヒヤの綱渡りだ。
しかし民主化まであと何年かかるのか。意外に早く今の体制が崩壊するのではないかという観測も多い。

2012年9月18日火曜日

そんな隣人だ・・・猫跨ぎ

  中国の反発の具体的な内容が報道されるようになってきた。予想外だったのは「激しい屈辱感」である。日本の世論も、あの乱暴狼藉、非は日本政府にあるという報道官の言に対し激しい屈辱感を持つ。
  日本の主張は、1885年調査した日本人探検家の申請に基づき1895年に、無人島であることを確認して日本領に編入した。「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたり、国際法で認められている領土取得のルールである。爾来、1970年頃まで中国は一度も抗議を行っていない。
  一方中国の主張は、古来中国領である、につきる。どんな文献があるのかまったく不明。そして、日清戦争(1894~1895)の後の台湾割譲の際に一緒くたに強奪したのだという理屈だ。下関条約の時には尖閣は日本領になっていたのに、つまり、日本側の細かな先占の議論など歯牙にもかけない。彼等にしてみれば、日本帝国主義膨張期のこと故、細かな議論は意味がないということなのだろう。まことに粗暴な議論だ。
しかし、その調整のために外務省があるのだろうに、どんな話をしているのだろう。何故機能しないのか。しょせん外交とはそんなものか。

100対0、日本には爪の先程の理もないということを中国市民は信じているらしい。そう教えられている。激しい屈辱感ともなろうものだ。
中国の若者は自国の文化大革命を知らないという。何千万の犠牲者を出した自国の歴史を教えられていない。歴史認識が間違っているとこちらには教訓を垂れるが、巨大な偏向教育が行われている。そんな隣人だ。

2012年9月16日日曜日

補足です・・・猫跨ぎ

反日デモの画像を見ていると、暴徒はみな二十代の若者だね。反日教育を教え込まれた世代。愛国無罪だそうだ。中央政府は沖縄線を突破する橋頭堡にするという長期戦略を抱いているらしいからどうなるのか。人民解放軍の少将は、いつでも準備は出来ていると息巻いていた。まさに中国帝国主義を見る思いだ。

拙句にコメント有難うございます。若干補足を。
・この風の名前知りたし秋夕焼
新涼を見越して作ったんだけれど、あてが外れた。まさに熱風だねえ。
・芒原へ猫振り返り振り返り
これはそういう読み取りをされたか。振り返るのは猫。芒原に死にに行く猫なんだけれど。先般死んだわが猫のイメージを重ねた。
・蜩の美(は)しき極みの笑ひかな
蜩の鳴き声は哀調をおびていてもの思いに誘うが、ふとこれは喜びの声ではないかと思った。彼等は子孫存続、繁栄を願って鳴きしきっているわけ。それを笑ひと言ってみた。

2012年9月15日土曜日

函館通信187・・・猫跨ぎ句鑑賞・・・仁兵衛

 相変わらず鋭い秀作有難う御座います。何処から評していったら良いのか迷いますね。   
 
 ・終戦忌柳行李に躓けり・・・柳行李も滅多に見なくなったのに更に其れに躓いたと続けば昭和の夢の世界か。終戦でその時間が切れているのが決まっている。 準特選。
 ・逝く夏や陸橋の下がらんどう ・・・陸橋の下のイメージが私の中ではばらばらでまとまらない。
 ・この風の名前知りたし秋夕焼 ・・・風の名前は熱風ではないのかな。
 ・東洲斎写楽の寄り目葡萄酸し・・・写楽の寄り目と葡萄の酸っぱさを並べるてその滑稽さを楽しめる句だ。
 ・芒原へ猫振り返り振り返り・・・猫振り返りは作者が振り返っているのか猫が振り返るのか両方取れそうだがやはり前者だろう。猫を芒原に埋めて供養は出来ましたか。
 ・蛸のぶつ切り人類は斯く生きて来し ・・・蛸の生を食べるのは限られた人種のようだ。だからこそ生きて来た強さを持てたのかもしれない。取合せが極めて素晴らしく感じた。特選。
 ・花火果て上弦月の下帰る ・・・花火も月も上に輝いた。ゆっくり感がすらりと出た句だ。
 ・落蝉を掃き寄せ夏の煮崩れる ・・・掃き寄せるほどの数の蝉がいたのかな。夏が煮崩れるの表現に引かれた。
 ・蜩の美(は)しき極みの笑ひかな ・・・中七の表現に脱帽。蜩の声が笑いにまで昇華されている。準特選。
 ・十六夜や森の蜂の巣太りをり ・・・十六夜と蜂の巣の取合せ妙なり。


2012年9月14日金曜日

九月の十句・・・猫跨ぎ

今日も暑かった。夕方買い物に出るが、いつもの道の正面に高々と入道雲。いつも同じ景色だ。それが茜色に変わりつつある。明日も暑い、きっと。

・終戦忌柳行李に躓けり
・逝く夏や陸橋の下がらんどう
・この風の名前知りたし秋夕焼
・東洲斎写楽の寄り目葡萄酸し
・芒原へ猫振り返り振り返り
・蛸のぶつ切り人類は斯く生きて来し
・花火果て上弦月の下帰る
・落蝉を掃き寄せ夏の煮崩れる
・蜩の美(は)しき極みの笑ひかな
・十六夜や森の蜂の巣太りをり

2012年9月13日木曜日

九月仁句鑑賞・・・猫跨ぎ

・伝説になると暗示し夏尽きぬ
 今夏の出来事で伝説化するものはなにかと考える。漂流する政治、孤島を巡っての領有権争い、脱原発論議の高まり、この辺りかな。
・占領の記憶薄れて九月かな
 室蘭に上陸し道央目がけ国道を延々と走り行く進駐軍の車列。サングラスの兵士。駅前のダンスホールのジャズ。勿論、子供には禁断の場所であったが。
・葛の花名無しのごんべ甘噛みす
 昔の記憶かな。良い匂いのする葛の花。噛んだ?
・常陸よりなほ奥つ方いなびかり 
 まだ鎮まる気配もない。瀕死の巨大な蛸がオクビと汚穢をまき散らす。特選
・コッペパン何もつけずに秋の空
 給食でコッペパンが出たが、暫くしてサイコロ状のバターが付いた。長期欠席の級友のこちこちになったパンを何本も帰りに持たされた。先生は何を思ったのかな。食べ物を捨てるという発想は誰にもなかった時代だった。
・昨夜の雨瓦礫に滲みてちちろ鳴く
 こころはまだ片付かぬ被災地の瓦礫か。準特選
・漣やとんとんとんと月を切る
 とんとんとんがどうだろうか。そういう音のイメージはない方がと思うが。これは見方それぞれで。
・大仏の臍のあたりの野分かな
 野分に晒されるのは露仏で鎌倉の大仏さんか。でも臍は衣に隠れているようだ。函館の露仏かな。俳諧味。
・お代りの脱脂粉乳秋深し
 まずい代名詞で脱脂粉乳は語られるが、美味とは言わぬが、嫌いではなかったね。そう私もお代わりした。
・とんぼうやこの海峡渡れるの
 てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行ったという詩があったなあ。この時期、小動物に目が行くね。

言葉がない・・・・仁ちゃん句鑑賞・・・・逸徳

パーキンソン病か。 知ってはいたが、はっきりとご本人の口からうかがうと、うーん言葉がない。 ありきたりの言葉を発しても、そのうすっぺらさに自分で参ってしまい、結局何もいえなくなり、立ち往生する。言葉は無力だなあ。 すまん、われながら不細工だ。ただ、ただ一日一日を生きることを味わいつくして、過ごしていってほしいと願う。ホントにそう思う。 

しかし、ほっとするのは、仁ちゃんの俳句の世界だ。感性の世界が、豊かに、春の海みたいに広がっていることを感じ、はげまされます。しろうとが心に残った句を僭越ながら・・・

 伝説になると暗示し夏尽きぬ・・・ いや今年の夏はひどかった。 こちらでは「脳幹のとけ行くほどの暑さかな。」である。伝説になるだろう。
 占領の記憶薄れて九月かな・・・・ あの戦争、「戦中」を思い出すのか「敗戦」を思い出すのか、それとも「占領」を思い出すのか。 
敗戦が過ぎて占領になったことと、八月が九月になったことが何となくうまく重なっている。 おいらの記憶の最初は3歳の時におふくろの背中でみた静岡大空襲である。
 常陸よりなほ奥つ方いなびかり・・・・ 3.11を連想する。いなびかりの下、ひとの心の底にあるのは地底火山脈だ。 いなびかりの語感がすき。ガラスの破片のような緊迫感がある。
 コッペパン何もつけずに秋の空・・・・・ コッペパン、なつかしいなあ。最近のパン屋はフランス語だかイタリア語だかあふれていて、おじさんにはよくわからん。 
 昨夜の雨瓦礫に滲みてちちろ鳴く・・・・ 命のいとおしさ。そこにめをむける作者の目のあたたかさ。
 漣やとんとんとんと月を切る・・・・・ これいい。トントントンのリズムが漣にぴったり。 気が付いていて見ていなかった光景  特選
 大仏の臍のあたりの野分かな・・・・ ちと光景がうまくうかんでこない
 お代りの脱脂粉乳秋深し・・・・・ 脱脂粉乳ということばがわかる世代もへった。まずかったが、おかわりしたのだ。あれからずいぶん遠くまできた。今や宇宙は秋。もうすこしだ。雪はまだこない。
  とんぼうやこの海峡渡れるの・・・・やさしい。とんぼうと海峡、前句の瓦礫とちちろ。ちいさいいのちを扱うのがうまいなあ。組み合わせて準特選。

しかし、ことばは無力だなあ。無力を知っていることはいい。無力だからこそ、ひとは何かとつながりたくって、しぼりだすように言葉をはくのだろう。

2012年9月12日水曜日

函館通信186・・・特定疾病・・・仁兵衛

 パーキンソン病は難病の一つらしい。8月に診察を受けた時特定疾病の申請書を書いて出した。特別に症状が悪化したわけではないが医療費が減額されるのは結構なことだ。

 函館もやっと夏の暑さから開放され始めた。直ぐに寒くなるのだろう。泊原発が停止していたままの北電の計画停電は特に実行されぬまま電力は間に合った。しかし、北海道は冬の方が電力事情が厳しくなると予測されている。下着を一枚多く穿いて冬が乗り切れるのかこれから考え様と思っている。

 去年の暮から函館に三人の俳人がやって来て講演や句評会を開いていった。坪内稔典、池田澄子と宇多喜代子の三氏である。三者三様の俳句観を展開していったが同年代である坪内が一番自分には近いかなと感じた。今年の六月に出た坪内の「俳句の向こうに昭和が見える」を読み更に親近感が湧いた。近作十句。

  伝説になると暗示し夏尽きぬ
  占領の記憶薄れて九月かな
  葛の花名無しのごんべ甘噛みす
  常陸よりなほ奥つ方いなびかり
  コッペパン何もつけずに秋の空
  昨夜の雨瓦礫に滲みてちちろ鳴く
  漣やとんとんとんと月を切る
  大仏の臍のあたりの野分かな
  お代りの脱脂粉乳秋深し
  とんぼうやこの海峡渡れるの


 

難しい話はともかく・・・・褌子

  いじめ問題について、むつかしい話が続いているね。
  逸徳さんの語り口は氏独特なものがあり私などにはやや難しいところがあるし、私自身も静岡にでかけて氏の教育実践の場に臨んだこともない。
  が、私が(理科教師だった女房も)逸徳さんを理科教師として信頼するのは、教頭や校長という管理職には目もくれず、子供たちの側にいつもたとうとしているからだ。退職後も朝昼晩の酒を夜一回だけにしてまで子供たちのなかに飛びこんで科学少年団などに夢中になっているからだ。しかも先生馬鹿にならずに菊川九条の会でも活躍しているからだ。
  子供たちは本能的に教師がほんものかにせものか見分けるが、氏の場合は間違いなく合格ではないか。
  (というわけで、田沢湖芸術村まで逸徳さんの教え子に会いにいって、夜は乳頭温泉で小生の背中ボリボリかいてほしい)

2012年9月10日月曜日

そうそう・・・・逸徳

そうなんだろうなあ。 内向きの共同体、確かにそういうのはあるね。 そして、そういうのがどこにもはびこっている。日本全体がそんな感じだなあ。 だから、退職したとき、正直いってどこか、茫漠とした荒野、あるいは一種の異次元世界から辛うじて生還したという感じはあった。 よくまあ、おいらも変にならないでここまでもってくれたものだと・・・。いや少しは変になりかけていたのかもしれない。
 だから、まじめな若い先生と飲んだ時に、「教育の目的はなんだ」と問われて、「たったひとりでいい。たったひとりの革命家を育てることだ」といった覚えがある。 もちろん一種の比喩だが。その内向きの共同体をぶちこわしたかったんだろうなあ。
 教育というのは、きわめて個人的営為の側面があり、イメージ的には芸術家、または医者の治療行為にちかい。 だから、政治が教育を管理するのは、画家の筆先や医者のメスの操作を、画一的に管理しようというようなものだという、根本的な違和感がある。 あぁあ、政治が教育をいじりすぎたなあ。 今となっては、何をいってもしょうがないが。 

判らんなあ・・・猫跨ぎ

よく判らんなあ。現場を直接知らないからね。別に血刀引き抜いて校長室に乗り込めと言っているわけではないが。
  だけど、ふと思ったのは教師皆が皆圧迫を受けていると感じているんではあるまい。いや、案外今の状態が好ましく思っているのではないか。波風立たず、上に従って穏やかにいこうや、と。いじめ自殺でもあろうものなら、あ~あ、面倒なこと起こしてしまってと内心舌打ちしているのではないか。そういう内向きの共同体が実は出来ているのではないか。
  ところで貴兄の「単純にいえば、今の教師の状況は、社会の拡大、いや濃縮再生産になっているにすぎない。 そういうのを笑うのは、おいらから見ると「目くそ鼻くそを笑う」という気がするね。」が実は一番言いたいことなんだろう。要するに何処も同じだ。何で学校ばかり責められるんだ。まあ、その通りだね。

そういってもなあ・・・・逸徳

うーん ちと説明しにくいのは、ああいう管理社会の中で、生身の教師の肉声、信念、異議申し立てというやつがどういうことになるのか、なかなか現場のムードが理解されにくいのだろうと思う。異議申し立てや信念にもとずく行動がどういう扱いを受けるか。まず、よってたかって組織が一枚岩という「幻想」を固持するための同調圧力がかかる。それでもだめなら、うきあがらせる。「あんたは信念をもって立派だ」といって二階にあげ、梯子をはずす。たしかに異議をとなえて首にはならん。だが信念をもって同調圧力に抗して生きるというのを続けるのは日常的に続くと、くたびれはててしまう。ひとは信念だけでは生きられない面もあるのだ。
 信念がある教師という。だが、そういう人材はそもそも採用されにくくなっているのだ。そして採用された青年教師は先輩をみて、観察学習する。上にさからったらいかんということをすりこまれるのである。 教育委員会や文部省とは独立した民間の教育研究団体が、各教科や各指導分野にたくさんあり、そこには手弁当で熱心な「信念ある」教師がたくさん集まっていた。一時は、その規模は世界一であった。だが、現在その規模は激減している。最盛時の1/4ぐらいではないか。( 信念なんかもっていると校長になれないのだ。 校長になるということの意味については別途解説が必要であるが。) 当事者能力というが、そんなものはじめから教師にはなかったのである。あたえられなかったといってもいい。
このへんのところ外部からみたらわかりにくいだろうなあ。
アンケートににげこむのは、そういうやり方だと責任が問われないからだ。そんなことで解決しないことは、「信念ある」教師はみんな知っているのだと思う。別に一番いい結果を生むなんて思っていないだろうなあ。 
単純にいえば、今の教師の状況は、社会の拡大、いや濃縮再生産になっているにすぎない。 そういうのを笑うのは、おいらから見ると「目くそ鼻くそを笑う」という気がするね。

もちろん、信念ある教師はたくさんいる。孤立無援でたたかっていると思うのだが、いることはいる。間違いなくいる。願わくばそういう先生をちゃんと保護者がみぬき支えてやってほしいと思う。 おいらの教え子で町田で中学の教師をやっているのがいる。何年か前に彼と話した話題。「生徒に刺されるときは、右か左かどっちの腹を刺された方が助かる率が高いだろうか。」これ、まじめな議論の一部である。つまり、信念ある教師というのは今や命がけの話になっているのである。


いま流行るのも・・・猫跨ぎ

  いじめの報道を見ていて気付くのは、学校が表に出てこない。偶に出てくる校長が紋切り型の対応で「判りません」。そして、いま教育界ではやるもの、それは全校アンケート。この「客観的な数値」を出して、数値に何事か語らせ、自分たちは後ろへ隠れる。生身の教師の肉声、涙、喜怒哀楽が見えない。これを当事者能力の欠如と言うのだろう。
批判覚悟でそういう殻に閉じこもるのは、それが結局、一番良い結果を生むと判っているからだ。教師が管理されているから、いじめられているからというのは情けない言い訳だ。異議を唱えてクビになるわけでもあるまい。つまり教育に信念がないのだろう。どうして良いの判らないのだろう。それを正直に告白する勇気もない。これでは尊敬されない。

2012年9月9日日曜日

『戦争と平和』・・・褌子

  テレビで得意満面でしゃべりちらしている男は橋元でなく橋下ですね。
  大阪市長も東京都知事も本来の仕事を全くしてないそうだ。
  いかに過激なこと言って目立つかだけを考えている。やんやともてはやすマスコミが情けない。
  いま大阪と東京の教師たちが徹底していじめられている。知人の中学教師も精神がぼろぼろになって退職した。私も中学生の可愛い孫がいるので、死んだ蜂を食わせるほどのいじめをうけた大津事件のあとも愛知でも埼玉でも札幌でも中学生が命を絶ったと思うと辛くてしようがない。まさに大人のいじめ社会の反映だ。リストラで路頭に迷っているひとや親会社の倒産で金がもらえない末端下請け労務者の相談にのると心底そう思う。小泉竹中の新自由主義の構造改革でいっそうひどい格差社会になった。
  そういうきびしいことから逃避して読書三昧というわけでもないが、高橋克彦『火怨―北の燿星アテルイ』は面白かった。東北旅行で多賀城とは胆沢とかも行きたくなった。次は安倍氏や奥州藤原氏の興亡をえがいた『炎立つ―燃える北天』を読む。
  もっとも岩手出身の高橋克彦の文章は熱すぎて宙を飛んでいるところがある。お盆過ぎに読んだ吉村昭『間宮林蔵』のほうがはるかに何かが残った。何もたさず引きもしない吉村昭の語り口はじつにいい。
  BSで『戦争と平和』のソ連版四部作を一日かけてみた。30才のころ中耳炎手術で入院して病室にもちこんだ『アンナカレーニナ』も『戦争と平和』も面倒くさくなって途中で投げ出した。しかしこんど映画をみて大いに感動。女房は描き方があまりに悠長すぎると寝てしまったが、ロシアのあの大地というものはそういうものなのだ。ちょうど200年前の1812年、侵入するナポレオン軍にはじめてロシア軍が互角の死闘を演じたボロジノのたたかいの場面の箇所だけ、映画のあと本棚から『戦争と平和』第3巻をひっぱりだして読んでみた。やっぱり世界文学屈指の巨篇なんだなあ、もっともっと若いうちに夢中で読んでおけばとため息もつきながらしばしむさぼり読んだ。映画の終章の字幕は「悪人どもが結束してこの世界を抹殺しようとするなら、善人たちも結束して悪と闘えばいいのだ。単純なことなのだ。」というもの。ふーん…
夕方、クール宅急便で釧路から届いたばかりのサンマを焼いて食った。はらわたがうまい。
    

或るアンケート・・・猫跨ぎ

  ラジオを聴いていたら、異様なアンケート結果を伝えていた。現在の幸福度については、北欧諸国が軒並み高いが、日本はずっと下で、アジアの中でも低い方だった。ついで「先生を尊敬しますか」については、各国の国民は概ね90%以上「イエス」。日本だけが極端に低く50%を切っている。生活レベル、治安、保健衛生どれをとっても日本は世界の最高水準だと思う。平均寿命の高さが何よりの証拠だ。日本の教師の教育能力は多分世界でもトップクラス(褒めすぎか)だろう。何故こんなにも低いのか。
  ということは、幸福度とか教師を尊敬するとかを決めるのは、こういう項目とは別次元のことなのだろう。ちょっと考えても明日は今日より悪くなると言う黄昏れ感がとにかく強い。不安心理が根底にある。まず指摘されるのは、政治が機能不全を起こしている。衆参ねじれのため(だけではないが)何でも政局化してしまい何事も決まらない異常な状態が続いている。かといって明確なビジョンを誰も打ち出せない。橋元維新の会の異常な人気のみ目立ち、既成の政党、政治家が明日の己の安泰のため橋元にすり寄っていく様は醜悪というしかない。政党のリーダーを選ぶ時期になったが、自民党などは事前の顔ぶれがそのまま俺が俺がと譲らず乱立のさまだ。自党を纏められないで国をリードできるのか。政党も溶解しつつある。政治家を尊敬するかを調べたら、最低にランクされること間違いなしだ。政治の状況は日本全体を表象しているような気がする。
  橋元は文楽を一度見て、こりゃ駄目だと言ったという。伝統芸能をこんな若造に生殺与奪を任せて良い訳もないが、みな黙りこくっている。もっともこの稀代のトリックスターも今がピークでその内に急速に消えてゆくだろうが。
共通して言えるのは、この国全体に、流砂現象が起きているのではないか。信頼できるものは何もない。規範がない。崇高なものは冷笑の対象だ。先進国の文明の大変化を先取りしているのかも知れない。これは褒めすぎか。

2012年9月8日土曜日

なかなか気温がさがらない・・・・逸徳

おひさ。 うちは太陽熱温水器をっけているんだけれど、最近は次の日の朝でもチンチンに熱いお湯が出る。洗濯物は12時までにかわくし・・・。変な天気ですなあ。
談論風発で。おいらも参戦を。いじめについて。 本質的にはいじめは、加害者側に問題があると思っている。自分の屈折した感情や、解決できないストレスを、目前のスケープゴートにぶつけているのである。つまり弱い。そして、これお師匠のいうように、間違いなく大人社会の反映だろうなあ。 つまりいじめのモデルは周辺にいくらでもうずまいているのであり、子供たちは単にチンパンジーだってやる観察学習をしているにすぎない。
ひとつの即時的対応。学校にいかないことだ。 あれは命がけでいくような場所ではない。休んでいいよといってやることが第一歩だと思う。
 関連して、教師の非行について。実はずっと前から気になっていることばがある。たしかデュルケムではないかと思うのだが、まだ確認できていない。それは「人間は誇りをうばわれると破廉恥になる」という言葉である。 プライドを傷つけられると人は攻撃的になり、プライドをすてると破廉恥になるというのだ。 確か暴走族の心理研究かなにかの論文で、このことばにであったと思う。 ほんとにそうだよなあ。 破廉恥な行動が人間的プライドと共存できるわけがないのである。 
そして、今までの教育行政の歴史は、とことん教師を管理されるロボットとしてあつかおうとした歴史であつた。それは今もなお加速しているのである。したがって教師のプライドは日常的にずたずたにされつづけているのである。だから、おいらからみていると教師に非行がでるのは当然の帰結ではないか。 まだまだ非行は増えるだろうという気がする。 特に大阪は増えるぞ。どうする橋下さん。

さそわれて敦賀にいってきた。日本科学者会議の福島問題のシンポジウムに参加するためである。マスコミが取り上げないような問題をたくさん聞いた。いや、実に今のマスコミは一部しか伝えていないなあ。それを痛感した。そして福島の問題が顕在化していくのはこれからだろう。そういう中で、新聞を一紙だけ読むのは危険だと鋭く指摘した人がいたなあ。古い記憶だが、この言葉、学生のころのお師匠ではなかったかなあ。
 で、そのあと1泊だけ金沢に回った。実は偶然にも今まで金沢はいったことがなかったのである。21世紀美術館とともに民芸工芸関係をみてまわったのだが、加賀友禅に感動した。加賀友禅と京友禅の違いに、金沢の気候と光がからんでいるというのである。ならべてみるとそれがよくわかった。 今度は能登の輪島塗を訪ねてみたい。

2012年9月4日火曜日

マスコミといじめ・・・猫跨ぎ

  滝川の事件はちょっと覚えていない。マスコミの癖として、悪者を作り、それを血祭りにあげるのは常道だ。もう枚挙に暇がない。社会的に上であればある程よい。引きずり下ろす快感を大衆に提供する。今思い出したのは、雪印食中毒事件。社長のインタビューで「俺も疲れているんだよ」の数秒の画面が繰り返し報道され、雪印けしからんの大合唱となった。このインタビューは、雪印に居た井筒君の話では、二十分にわたったものだった。対策とか事故対応を色々言っていたのに、それは全く報道されていない。
しかしこういう側面もある。大衆がそれを望んでいるからだ。マスコミの下品さは大衆の下品さの反映だと思う。そういう記事が売れるのだろう。
  いじめは古今東西あるのだろう。いずれも大人の社会の反映だろうね。我々の子供の頃は、相対的に少なかったし、単純だった様に思う。地域社会がそれなりにしっかりしていたし人と人の触れ合いはもっと濃厚だったからではないか。弱い者いじめは少なかった。遠足で身体の弱い子を、誰が言うともなく手を貸したように思う。
今のいじめの陰湿さ、しつこさ、複雑さは、地域社会の崩壊とか、先への不安とか、大人社会がしっかりしていない反映だと思うね。大人の苛立ち、不安感、孤立感、そんなあれこれが、子供社会に反映しているのではないか。

パラリンピック(その3)・・・国兼

   イギリスでのパラリンピックの入場式をテレビで観ていたら、例のブラックホールやビッグバンにからむ宇宙論のホーキング博士が車椅子で登場してきて驚いた次第。元気なのだと・・・・。理化学辞典で調べてみると、1942年生まれで、私と同じ年である。彼は若い時からパーキンソン病的病に侵され、その中で独創的な宇宙論を体系づけた科学者で、ある意味ではアインシュタインを上回っているのではと思う。ノーベル賞をもらっていないのが不思議な気がする。ホーキング博士を見ながら、フト我が仁兵衛さんを思い出したりした・・・・。
 皆さんに応援を頼んだ女子柔道52kgクラスで出場した半谷静香さんが、1回戦で中国の選手に敗れ、敗者復活戦でも敗れてしまった。残念ではあるが、聞くところによると4年後を目指した「激励会」をささやかに行うとのこと。勝った勝ったと拳を上げるのもよし、負けて悔し涙を流し再起を期すのもスポーツマンらしくて好きである。

 話代わるが、猫跨ぎさんの言う「いじめ」のこと、もう6,7年前だったか、わが故郷滝川市が全国版のニュースになったことがある。なんと「いじめ」問題で。その時の教育委員長が小、中、高校時代の私の友達だった女性の旦那である。古くから滝川でお茶屋をやっていた3代目で、その代々の誠実さが買われ、町の名誉職として引き受けたのであろう。それがテレビで土下座させられるシーンを全国に流されてしまった。そのために、ひっきりなしに電話がかかり、町の名誉を汚したというたぐいの中傷、罵倒されたらしい。そのせいだと思っているが、私の友達は体調を損ない病に伏せてしまった。
 スケープゴートという言葉があるが、このジャーナリストたちの正義ずらした、マイクとカメラを持って執拗に善良な平凡だった1市民を追いかけるハイエナのような奴らに唾をかけたい気持である。彼らが執拗に追うべきことは、現在の全国的に蔓延し始めたこの度を越した「いじめ」の背景であり、家庭の親たち、教師たち、そしてこのゆがんだ日本の社会全体であり、またジャーナリスト自らの堕落を追求すべきであろう。

2012年9月3日月曜日

今朝のアレ?・・・猫跨ぎ

今朝のアレ?!を追加しよう。
大津の中学生いじめ自殺問題で、加害者の少年の警察による取り調べがはじまったという。彼等の両親が「あれはいじめではない。単なる遊びだった」と強力に主張しているという。え?これは言い訳にも何にもならんぞと思った。
  自分の子供の頃の(多分5年生くらいか)記憶だが、実はいじめに荷担したことが一度だけある。たまたま行き合わして成り行きでいじめに加わってしまった。その子は泣きながら帰って行ったが、直後、実に嫌な気がして、こんなことは二度とすまいと思った。言いたいのはそのことではなく、いじめている最中の妙な気持ちよさ、昂揚感だ。いたぶっている時の快感というか。それをはっきり覚えている。いじめている側は、まさにこれは単なる遊びなんだ。この弱者をいたぶる快感は本能に近いと思う。思うに子供はまだ「人間」でない。いろいろ陶冶されて、まともになる。時には体罰も必要だろう。その視点がなくて、法律の刑事罰の対象かどうかになっている。それはおかしい。

2012年9月2日日曜日

最近のアレ?・・・猫跨ぎ

  最近の報道でアレと思ったこと。ちょっと旧聞になるが、札幌で白菜の浅漬による食中毒事件があった。腸管性出血性大腸菌O-157によるもので、死者もでた。生肉を使ったユッケで死者を出したのは、たしか腸管性出血性大腸菌O-111。どちらも病原性の強い大腸菌の変種だろう。ユッケは分かるが、白菜の浅漬とは。漬ける前の白菜の洗浄が不十分だったと言うことらしいが、こんなことで死者が出るとはなあ。
  それからたしか渋谷の公園だったと思うが、雷がクスノキに落ちて、傍を歩いていた女性がとばっちりで亡くなったという。そのクスノキの写真が出ていたが、中程度のそれ程の高木でもない。また孤立樹でもなく、適度にばらけて植わっているなかの一本。樹皮が縦にべろりと剥がれている。まさか、こんなところを歩いていて落雷にあうとは。何処に危険があるかわかったものでない。