うーん ちと説明しにくいのは、ああいう管理社会の中で、生身の教師の肉声、信念、異議申し立てというやつがどういうことになるのか、なかなか現場のムードが理解されにくいのだろうと思う。異議申し立てや信念にもとずく行動がどういう扱いを受けるか。まず、よってたかって組織が一枚岩という「幻想」を固持するための同調圧力がかかる。それでもだめなら、うきあがらせる。「あんたは信念をもって立派だ」といって二階にあげ、梯子をはずす。たしかに異議をとなえて首にはならん。だが信念をもって同調圧力に抗して生きるというのを続けるのは日常的に続くと、くたびれはててしまう。ひとは信念だけでは生きられない面もあるのだ。
信念がある教師という。だが、そういう人材はそもそも採用されにくくなっているのだ。そして採用された青年教師は先輩をみて、観察学習する。上にさからったらいかんということをすりこまれるのである。 教育委員会や文部省とは独立した民間の教育研究団体が、各教科や各指導分野にたくさんあり、そこには手弁当で熱心な「信念ある」教師がたくさん集まっていた。一時は、その規模は世界一であった。だが、現在その規模は激減している。最盛時の1/4ぐらいではないか。( 信念なんかもっていると校長になれないのだ。 校長になるということの意味については別途解説が必要であるが。) 当事者能力というが、そんなものはじめから教師にはなかったのである。あたえられなかったといってもいい。
このへんのところ外部からみたらわかりにくいだろうなあ。
アンケートににげこむのは、そういうやり方だと責任が問われないからだ。そんなことで解決しないことは、「信念ある」教師はみんな知っているのだと思う。別に一番いい結果を生むなんて思っていないだろうなあ。
単純にいえば、今の教師の状況は、社会の拡大、いや濃縮再生産になっているにすぎない。 そういうのを笑うのは、おいらから見ると「目くそ鼻くそを笑う」という気がするね。
もちろん、信念ある教師はたくさんいる。孤立無援でたたかっていると思うのだが、いることはいる。間違いなくいる。願わくばそういう先生をちゃんと保護者がみぬき支えてやってほしいと思う。 おいらの教え子で町田で中学の教師をやっているのがいる。何年か前に彼と話した話題。「生徒に刺されるときは、右か左かどっちの腹を刺された方が助かる率が高いだろうか。」これ、まじめな議論の一部である。つまり、信念ある教師というのは今や命がけの話になっているのである。
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