2013年9月8日日曜日

明日香のこと・・・猫跨ぎ

  明日香旅行は2006年ね。もう7年になるんだね。案内役の河野君も逝ってしまった。何か茫漠とした気持になる。
  熱田津は、今の松山にあったことは判るが、どこの地点だったかは判然としないらしい。新羅・唐連合にこてんぱに負けて逃げ帰った中大兄皇子は、太宰府に大規模な防護壁をつくり、さらに都を琵琶湖に面した近江京(今の大津)に移したのもその一環だった。天智天皇(中大兄皇子)が死に、壬申の乱で大海人皇子が権力を握ると、都はさっさと元の明日香に戻したことからも、近江京がいかに付け焼き刃だったかが判る。近江はたちまちに寂れ、それを悲しんだ柿本人麻呂が 「近江荒都歌」を万葉集に詠っている。
  額田王は生没不詳のひと。中大兄皇子と大海人皇子の両方に関わった魅力的な女性だっただけでなく、あんな歌を詠うところをみると、それなりの立場にいたのかとも想像するが、これも詳細は判らないらしい。宿の裏の墓碑は、まあ後世の私的な記念碑みたいなものじゃないかな。
ついでに、先日、室津で見た、山部赤人の句碑のことを記すと
「玉藻刈る唐荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はざらむ」 
��美しい藻を刈る唐荷島をめぐり飛ぶ鵜だからとて、家を思わないだろうか)
赤人は宮廷歌人で、天皇の行幸に随行した。西へ下る船上で、はるか都の妻を思い詠ったもの。
唐荷島は室津の沖の小島で、名前は唐の船が破船して荷が流れ着いた故事からとの説明があった。海藻を刈り取る場でもあったらしい。唐荷島を臨む岬にこの碑が建っている。
��写真は、沖の小島が唐荷島。小高い賀茂神社から臨む。瀬戸内海の海は透き通って予想外に綺麗だった。)

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