夕波千鳥は荒都歌の一節だと思っていました。荒都歌は長恨歌のように延々とつづく長歌だったように思う。近江神宮は皇紀2600年の紛い物だったんですね。行ったのは四十年くらい昔だが、たしかに歴史のにおいがさっぱりしなかったし時計博物館も貧相だったし。そばの日吉大社は全国日吉神社の総社たる雰囲気だったが。ここは長浜旅行の時に前泊で國兼、小林さんたちと行きました。山内さんも加わって大津の飲み屋でモロコの塩漬けを一匹まるごと食ったがものすごく塩辛く閉口した。ゆんべの旭川の飲み屋天金の焼きたてのホッケもカレイも旨かったなあ。アンキモもこってりした味で男山とじつに相性が。岩牡蠣は山内君が三つとも独り占め・・・
おっと話がそれた…あのとき、比叡山から坂本に降りてきて穴太アノウ積みといったか石ころを積み上げた堂々たる石垣をみた。恥ずかしながら崇福寺とか西教寺とかは記憶なし。石山寺はいい寺だったが三井寺はおおざっぱな感じ。延暦寺と覇権を競った園城寺のころから何度も火事にあっているのではないか。延暦寺だって信長に全山焼き討ちにあっていることだし。小さな寺だが義仲寺がよかった。芭蕉の墓と巴御前の墓があったように記憶する。
國兼さんが書いている博多湾の防塁は、白村江から逃げ帰って作ったものではなく、六百年も後の世の元寇防塁ではないか。わたしは見にいったことがあるが今も海沿いの松林のなかに残っている。古代の防塁は猫跨ぎさんが書くように太宰府をまもる水城だと思うが。この、みずきも跡地がかなり残っている。玄界灘をこえて攻めてくる唐・白羅連合軍を水際で防ぐのでなくこんな内陸部の水城で守ろうと考えたのも、平地の明日香でなく琵琶湖沿いの大津京で都を守ろうとしたのも、なにか現代人の目からすると見当はずれな感じもするがやっと律令制度をととのえたばかりの朝廷は死にものぐるいだったのだろう。
いぜん日本と同盟していた百済の都、扶余にいった。百済滅亡のさい三千人の官女が身を投げたという白馬江を崖の上からのぞき込んだ。この川を船で下っていくと河口が白村江の古戦場なのか…とおもったが日程で行きそびれた。たしかこの旅は猫跨ぎさんと行く計画だったが奥様の体調で…。そこでむかし理学部地質学科にいた江川君といった。慶州で十一面観音やみろく菩薩をみたときには朝鮮半島と日本の一衣帯水を感じたものだ。
さて、飛鳥旅行の民宿名が思い出せない。ママさんは可憐な五本さんを少し大振りにした感じであった。牛乳したての水炊きだったな。玄関にウメモドキが紅葉していた。小倉さんが二上山にいくと行っていたが、大津皇子の墓があるそうで、あとで黒岩重吾作品をよんだときに二上山に行きそびれたことを後悔した。
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