むかしの話で九州と北海道で盛り上がっていますな。
記憶にある西浦温泉というのは仁ちゃんがいうとおり、知多半島蒲郡にあることがわかった。
たぶん、仁ちゃんや栄蔵さんが奥多摩の御岳で同級会はじめて、二回目くらいが西浦温泉かもしれない。
この西浦温泉旅行ではこんなことあった。東京駅で新幹線こだまに乗った。となりにも紳士が座った。となりの紳士が中公新書の何とかいうのを読み出した。こっちは缶ビール飲みながら、ふーん最近のサラリーマンもまじめな本読むんだなあとおもったものだ。そして名古屋で降りようとしたら隣の紳士も降りる。ひょいと顔見たら何と中川徹君だった。
西浦温泉のあとはどこにいったか記憶がないが、仁ちゃんが書いているように、北海道へ何回か行ったようにおもう。札幌全日空ホテルで五本さん山田君に会った記憶がよみがえってきたから。とにかく仁ちゃん、英蔵さんなしにはこんな楽しい同級会をえんえんと続けることができなかった。本誌上をお借りして深甚からの感謝を申し上げたい。
小生の就職のはなしだが、札幌北高定時制で教育実習やって教職資格をとった。四年生の夏休みに、桑園寮でいっしょだった文学部の本多君の実家の標茶に、仁ちゃんのあと遊びに行ったことがあり、道教委の面接試験でどこに行きたいかときくので標茶高校といいかげんなこと言ったが不採用だった。採用されていたら五本さんの母校、名門釧路なんとか高校にも赴任し、逸徳先生に負けないような立派な教師人生を歩んだかも。
教職だめでした…と中川先生にいうと、君に向いている会社がある。戦争中、海軍中尉として軍用機の四エチル鉛開発でマルマル曹達二本木工場にいたんだが、妙高山のみえる風光明媚なのんびりした山のなかの工場。いっしょに仕事した当時の先輩が取締役になっているのでと紹介状書いてくれた。筆記試験がなく簡単な面接だけで採用になった。(東京での入社式は仁ちゃん宅に泊めてもらった)――― が、8年間も給料だけもらって辞めてしまったのだから、中川先生にも会社でお世話になった先輩諸兄にも申し訳ない。もう鬼籍に入ったひとが多いが、いいひとばかりだったなあ。時代もいい時代だったんだな。
親から生まれる時から、人生は偶然の積み重ね。「生は偶然、死は必然」(と、尾道の貧乏寺の山門に書いてあった)
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