こちらでは、よせばよいのに中電が浜岡原発の再申請を出して、稼働への意志を鮮明にしはじめた。とにかく、衣のしたの鎧が見えるどころじゃあない。ころもがズタズタなのだ。いよいよひとごとではなくなってきた静岡である。
お師匠の指摘について。 対案を出すという建設的議論が必要なことは当然なのだが、どうも見ていると東電の体質だろうが、情報が完全に公開されていないようにみえる。つまり対案を出したくても、はじめから批判派の方には情報のハンディキャップがあるのではないか。 これではちと無理だ。それにくらべてドイツのメルケル首相が設置した、科学者だけの独立委員会の議論は見事だったと思う。とにかく日本は主要な報告書だけで三本も出ており、何がなんだかわからん。 それで思い出すのが、スペースシャトル事故のとき大統領が設置した事故調査委員会のファインマン博士の活動である。科学が、資本や権力がら独立して、キチンと信頼できる活動をしていたのは、この辺までだったかもしれんなあ。 それにくらべて、原子力にむらがる科学技術者のふるまいは、とても科学とはいえない行動が多かった。テレビでプルトニウムなんて、食べても大丈夫といった某東大教授や、福島の地元にすんだ方が健康にいいとくちばしった東電のえらい人など、笑い話にもならない話が続いた。科学への信頼が地に落ちたのである。あいつら万死に値すると思う。
で、対案をというお師匠の意見を考えていたら、はたと気が付いたことがある。今の事態は敗戦後の状況に似ていないか。 地震のように戦争は、庶民からみればどこか遠い空のかなたからやってきて、大災害をもたらした。で、終わってみると原因追究は「一億そうざんげ」とかなんとかごまかされ、責任はなすりあいになり、要するにごまかされ、基本的な土台は何も変わらず、食べていくことが先だと、戦争責任はすくなくとも日本人の手でキチンとやることはなかった。あれをきちんとやっていたら、戦後の日本の歩みはもうすこしは変わっていただろうに。
今回の件もそっくりだ、上の流れはそっくりあてはまらないか。 したがって、原因の追究と責任の明確化の作業は絶対必要だし、これは対案の議論とは別の問題である。また日本人はおんなじことをやるのだろうか。 沢山の原発が再稼働をめざしているのは、まるっきり戦後日本の歩みを再現していないか。
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