2013年9月24日火曜日

風立ちぬを見てきた・・・・逸徳

宮崎監督最後の作品ということで、風立ちぬを見てきた。ちなみに、監督は我々とほとんど同じ世代で、彼のメンタリティには前から共感するところの多い人である。 特に飛行機は、かって10代のころ飛行機オタクとして航空工学をやりたいと夢見ていたおいらとしては、監督の飛行機への思い入れにはすごく共感、感動している。 したがって、今までの作品の中で好きなのが「紅の豚」である。 飛行機と、雲の描きかたがよかった。ついでにいうと「とべない豚はぶたじゃあねえっ!」という主人公のせりふのかっこうよさにしびれた記憶がある。

今回の作品の見事さはすでにお師匠が述べており、まったくその通りだと思うので、重なる部分ははぶく。 ただ、風の描写は見事だなあと思った。あれは実写では出ないと思う。 監督は風さえ重要な役者として見事に使いこなしている。 ホントにスクリーンから風が吹いてくるような思いにとらわれた。
「風立ちぬ、いざいきめやも」という詩はポール・ヴァレリイの原詩があるが、これは堀辰夫の誤訳という説があるらしい。まあそんなことはどうでもいい。「生きめやも」をどうとるかだが、 生きようとする意志と、その後に襲ってくるであろうある不安な状況を予覚した表現であろうと思う。 
作中で、主人公とイタリアの航空設計家カプローニ伯爵との会話が何回か出てくる。 伯爵は何回も主人公に問う。「君、風は立っているか」と。このときの風とは何だろうか。 それが気になった。 うまくいえないのだが、主人公をとりまく状況と、彼の内面の自覚的に生きようとすることを刺激してくれるある何か、なのかな。

ただ、風にはもう一つのとらえ方もある。歴史といってしまえば簡単だが、彼をとりまく時代状況である。 一万機以上もつくったゼロ戦は、とびたって結局一機ももどってきませんでした、という主人公の哀しみに満ちたセリフは、彼をまきこんでとうとうと流れた時代の風を感じさせる。 そういう風の中で彼は「いきめやも」としたのかもしれない。

飛行機というものは機能美というものがもっとも明確にあらわれてくる存在である。飛行機は確かに美しい。そして、美しい飛行機ほど性能がいい。

状況がどんなに激動しても、環境がどんなに変化しても、その中を時代を超えて貫く一本の線のようなものがあると思う。それは、ひとつの信念だったり、思想だったり、あるいは守りとおしたい価値だったり、真理や美や愛といったきわめて抽象的なものだったり、人によってみんな違う表現になるのかもしれない。ただ、そういう線を自覚的にとらえていくかいかないか、その線との距離や関係性において、その人の生き様が決まるような気がする。
 そして、主人公にとってそれは「美しい飛行機」というものでなかったか。 彼はその美しさにとらわれ、それに恋い焦がれるようにして生きてきた。モデルの堀越二郎は戦後も飛行機とかかわりつづけ、YS11の設計にかかわっている。 つまり美しい飛行機を彼は見果てぬ夢のように追い続けていくのである。彼の中にも風は吹き続けていたのかもしれない。幸せだったと思う。

風立ちぬ。いざ生きめやも・・・このことばも人によって違うとらえ方をされるだろう。おいらは関連してひとつの詩を思い出す。前にも書いたかもしれないが、もう一度紹介する。アメリカの詩人ロバートフロストの作品「白い森の中で」の最後の部分である。最後の節が「いざ生きめやも」と共鳴する。でもこういうとらえ方はもう年ということかもしれんなあ。

森はやさしく暗くそして深い
だが私には約束の仕事がある
眠るまでにはまだ何マイルかいかねばな
らぬ
眠るまでにはまだ何マイルかいかねばな
らぬ               




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