2010年11月30日火曜日

年末こんにゃく問答・・・猫跨ぎ

  菅内閣が保たないという声が聞こえ始めた。故竹下氏が歌手3年、首相2年の使い捨てという名言(迷言)を残したが、半年も保たないのか。内外に問題山積で、誰がやってもそう変わり映えしないのかもしれないが、要するに、鳩山民主党に抱いた幻滅が払拭されぬまま、ますます泥沼に入った感がある。先週、千葉松戸市の市会議員選挙があったが、民主党を名乗った5名が落選した。もう人心が離れているね。
  当初私も、明治以来の太政官政府の終焉、戦後の米国依存の外交政策の終焉、に期待したが、だから選挙で大勝したのだが、ことごとく期待を裏切った。結局、どうもよく練られた戦略を持たないまま政権についてしまった、という結果ではないか。
  それと、人物がいないね。鳩山は、日本のありように関する根本的な認識の欠落がある。それどころかまともな羞恥心を持ち得ない欠陥人格者だ。論評する気もない。
  菅も駄目だったな。目が泳いでいる。入り口を入ったらすぐ出口と評する人がいたが、悲しいほどの奥行きのなさだ。テレビカメラが見る中で、胡錦涛の前で官僚の書いたメモを見ながら発言していた。胡錦涛もびっくりしたのではないか。国辱モノだ。政治主導が聞いて呆れる。首相がこんなレベルで、他の政治家は推して知るべしだ。
  尖閣事件の中国人船長を釈放したのは検察で、政府は知らぬと。法の抜け道を擦り抜ける弁護士の方便丸出しで、まともな政治家のやり方でない。仙石らしい。仙石といえば「暴力集団」発言か。あれは、社会科学の用語だね。警察、軍隊は暴力装置。生の形で国会答弁に使うセンスが、どもなりませんなあ。まあもう度しがたいね。

2010年11月29日月曜日

国際派・・・猫跨ぎ

おっ、褌子氏も英語の勉強が順調で、ついに国際派に転身かと思いきや、ローマ字か。
まあ、小龍包を食べ過ぎぬように、元気にご帰還を。

仁句のつづき
・パスポート見せ合いながら鮭の秋 
・カプセルの枯野の先に消えにけり
この二句は、説明を参考にしても、ちょっと無理があるね。鮭がパスポートを見せ合うは、実態が何なのか。カプセルは聞いて判ったけれど、チリ鉱山とはやぶさの二股かけではなあ。
・二号道糸か。全く知らない世界。なにか動きが表現されれば面白いかもね。
・素足のままがまだ良く飲み込めない。サンダル履きで歩き回っているわけですか。

TAIPEIkaradesu....Konshi

Jinbei san no HAIKU haikensiteimasuyo.
Nekomatagi san mo surudoi kuhyouwo yoseteimasune.
horohorokai ni toujousuru haiku to kuhyouha bunkatekini suijunga takaito kokoTAIWAN demodaihyoubanndesu.
motiron Ittokusi no poem mo sutekidatoiwareteorimasu.
hakodate wa huyu touraide samusoudesune!
taiwan ha asaban ha suzusiidesuga nittyu ha 25dokuraide atuidesu.
taipei no kokyuuhakubutuin ni kyouha ikimasita. Kanji no kigennituite omosiroi tenjiwo takusan mimasita.
tyuugoku ha kantaiji de kanji wo syouryakusisugi de taiwandeha hihansiteorimasu.
taiwan ha hantaiji de mukasinagara no mutukasii kanji wo daiji ni siteorimasu.
kondoha horohorokai de taipei ni ryokousimasyou!
tabemono tokuni syouronpou ga jituni osisikatta.
deha mata minasan gokigenyou !!!

2010年11月28日日曜日

函館通信123・・・ハリスと道糸・・・仁兵衛

 猫跨ぎさん早速の評釈有難う御座います。日常の些事を句にしてゆくとどうも個人の日常性の差、地方性などで理解されないのが出てくるものだね。代表例が
・桟橋の二号道糸冬に入る
 猫さんは釣りをやらないのかな。道糸は竿先から仕掛けまでの部分でその先がハリス部分になるわけ。号数は糸の太さを示します。桟橋で鰈やアブラコを狙うなら2号糸で充分でしょう。単純に初冬の桟橋でのつりの情景で焦点を道糸に絞っただけです。
・冬の浜素足のままの広東語
 これは函館観光する中国人が増えてきて海岸近くで中国語が聞えてきました。
・パスポート見せ合いながら鮭の秋 
 鮭の押し合いへし合いしている遡上の写真からの想像句。
・カプセルの枯野の先に消えにけり
 少々飛びすぎたかな。カプセルの解釈に問題がありという事かな。今年のカプセルは一つは南米鉱山での引き上げに使ったカプセル。もう一つは小惑星糸川から戻ったカプセル。作者はこの気持で無理は承知で厚かましく句にしています。
 今、優勝決定戦で白鳳が勝ちました。豊ノ島よく頑張った。 

六の花・・・猫跨ぎ

そうか、「六の花」は雪の六角状の結晶からきた美称のことばの様ですね。軽い遊び感覚と理解。

仁句評釈 ・・・猫跨ぎ

 
 仁句は、俳句は日常の些事でよしとし、いわば日記であるという考えに徹している。それは多としたいが、最近とみに抽象性と省略をきかせてきて、一読意味が窺えないことがある。その辺が読者と乖離が出来てきているのではないか。ちょっとそれだけぬき出してみる。

・パスポート見せ合いながら鮭の秋
 パスポート見せ合いながら、がまず判らない。海外旅行の打合せをしているのだろうか。 昔の思い出に耽っているのか。従って季語の斡旋もよく判らない。 
・桟橋の二号道糸冬に入る
 二号道糸とは何か。函館特有の呼称か。 
・冬の浜素足のままの広東語
 素足のままの広東語。広東語を話す中国人が素足で浜辺に、とは意外性は感じるが、
 よく見えてこない。 
・六の花遅れて届く江戸便り
 六の花がよく判らない。江戸便りとは。現在只今に、あえて江戸とする意味合いが判ら ない。 
・カプセルの枯野の先に消えにけり
 カプセルとは、薬のカプセル、カプセルホテル、etc. 意味が判らない。 

以下の五句は判る。

・丸めたり引き伸ばしたり冬の空
判るけれど、丸めたり引き伸ばしたりする主体はだれなのだろうか。勿論、解釈は自由 でいいけれど、すぐ視覚に見えてこない。
・風呂敷の結び目解け冬の雲
これは、抽象性がうまく行った例ではないか。冬の雲の動きがそれを連想させたのであ ろう。
・整体のボキボキボキと小春空
・手袋を脱いで指切り針千本
・ななかまど実を踏んでゆく市電かな
 この三句は具象性がはっきりして、冬の風景が浮かんでくる。
 

2010年11月27日土曜日

函館通信122・・・いよいよ冬だ・・・仁兵衛

 明日から本格的な寒さがやって来る予報だ。函館に移って3年が過ぎたがなかなか気候に慣れたまでには程遠い。
 逸徳さん出した話題を忘れたなんて我々にとっちゃ日常茶飯事だよ。なーんも気にする事はないから安心して劇作を早く作った方がいいよ。記憶が強烈な時にまとめてすばらしい劇を実現してください。そんな時は俳句だの短歌などは全て忘れて没頭されんことを望みます。
 朝鮮半島がきな臭くなっているが我々は何をしたらよいのだろう。学生時代なら友人と議論する、何らかの行動を起すなどあったのだろうが今の私にはそれらは全くない。静かにメディアの情報を選んで自分なりの判断をしていくぐらいだろう。その点で当ブログの意見も貴重なものの一つとしたい。
 今月も出来の悪い十句をそっと出し厳しい評を頂きたい。
  ・パスポート見せ合いながら鮭の秋
  ・桟橋の二号道糸冬に入る
  ・丸めたり引き伸ばしたり冬の空
  ・風呂敷の結び目解け冬の雲
  ・冬の浜素足のままの広東語
  ・整体のボキボキボキと小春空
  ・六の花遅れて届く江戸便り
  ・カプセルの枯野の先に消えにけり
  ・手袋を脱いで指切り針千本
  ・ななかまど実を踏んでゆく市電かな

 

2010年11月26日金曜日

富岡製糸工場・・・国兼

逸徳さんの知覧編は確かに以前読んだが、ボケでもなんでもない、総てがブログから消去された後での新たな再掲示だと・・・。でも、知覧の特攻隊は現代の平和ボケの日本に善悪を超えた示唆を与えているのだと思っている。死んだはずの特攻隊の生還の話し、ゲゲゲの水木しげるも特攻隊ではなかったが、そのような経験者の一人である。ラバウル方面で玉砕を命じられた部隊が米軍に突入したが、奇跡的に生き延び、現地人の襲撃や米軍の銃撃の中を命からがら連帯に戻ると、激しく罵倒されたという。「全員玉砕」と既に本隊に連絡した参謀は、次の玉砕部隊に水木しげるを配置し「今度は必ず死んで来い」と。運良く玉砕命令が中止になったが、境港の水木の実家には既に手際よく戦死の通達が送られていた。戦後片腕をなくして復員した息子を見て両親は驚いたと言う。一枚の赤紙で戦地に送られ、軍と言う人間的であることを徹底的に否定した組織のなかでの出来事とはいえ、このような狂気の時代の再現だけは許してはいけないことなのだ!!!
 只、15年前のオウム事件を思い出すと、良識あるはずの医者や博士や修士たちが赤紙で召集されたわけでもないのに、満員電車の中でサリンの袋に穴を開ける。狂気の時代の雰囲気だけは今も続いている。

 さて、表題の件、この工場は明治5年創立である。未だ帯刀、ちょんまげ姿の武士等も多かった時代に、明治政府が当時としては莫大な大金をはたいてフランスから購入した代物である(写真左)。この工場を稼動させるためにフランスから技術者を呼び、その責任者の月給は当時の太政大臣並という。ここで働く女工は女工哀史の女工と異なり、選別された上家の子女で、待遇も極めてよかったらしい。他に輸出できる産業の無かったこの国で、政府が外貨を得るためにこの生糸の輸出に如何に期待したかである。
 只、実際には、政府が期待した生糸の生産は、この機械を日本的に使いやすく、生産性を上げるように改良に改良を加えた岡谷周辺の製糸業者たちである。そこで働く女工さんたちこそ、高山周辺から野麦峠を越え、明治時代の日本の近代化の礎となった文字通りの女工哀史の姿である。低賃金のもとで過酷な労働勤務を虐げられた女性たちこそが明治の国家の基盤を作ったのである。女性は太陽であるといった平塚雷鳥を先取りした女性群像である。
 話代わるが、明治国家の良かったなと思うことは、殖産興業という、只その国家目的のために外国の技術と専門家に惜しげもなく大金をはたいて呼び寄せ、また日本の優秀な若者たちを海外に留学させたことである。貧しい日本の中で大胆にこれを進めたことである。クラーク博士もその一人だったはずである。

 所で、褌子さんは台湾とか、マァー、ボケする暇は無いかもしれないが、褌を締める暇も無いね・・・?

逸徳さん何度聞いても迫力ありますよ・・・・褌子

逸徳さんのはなしは私もいぜん読んだ記憶があり、強烈な印象が残っております。
高齢者のはなしは何度聞いてもいいものですね。
わたしも知覧については感想を書きたいのですが、じつは明日から台湾へ行ってきます。
遊びではありません!! 
中国残留の日本人孤児と結婚した台湾出身の宋さんと仲良くなり、宋ペイヨウさんの故郷を訪ねる旅です。
宋さんは巨漢でいつもにこにこ大人の風格のある好人物です。
褌子「宋さん。そうさん。そうですよね」
宋ペイ勇「そうです。そうですよ。わたし宋ですよ」
てな調子で、台北の故旧博物館にもいってきたいと思っております。
鹿児島旅行の感想文がまだ中途半端なのに、こんどは台湾旅行の感想を書かねばなりません。
常に自分を忙しく追いつめ難行苦行を課しておけば、認知症の到来を少しでも緩和・弛緩・遅延させることができるのではないかという試みです。

そうだったか・・・・逸徳

そうか。二度目か・・・・・どっかに書いたような記憶はおぼろげにあったが、ここだったとは・・・・ぼけのはじまり、ついに来たか。まいった。(落ち込む)
 しかし、ぼけるということを昔の人はそれほど悲観的にはとらえていなかったらしい。「神様にちかずいた」などといい、ぼけてわかんないことをいうと「神様と話をしているらしい・・・」などという素敵な言い方をする。何か新しい視野がひろがってくるのだろうか。もしそうなら、ぼけも悪くない・・・・(などと、なぐさめている)
     菊咲いて お辞儀した人 名を知らず・・・・



2010年11月25日木曜日

鎮魂というしか・・・猫跨ぎ

  その振武寮のことは、以前にも当欄に投稿しておられたね。お忘れかな。私も同じ頃、ラジオでこの事件を調べた人の話を聞いた。壮大な悲劇というしかない。
  最近、岩手在住の九十何歳の老人で、特攻隊とともに飛び立ち戦果を見届け戻る任務を(そんな任務があったのだ)、終戦まで続けた元海軍士官の話を聞いた。彼は戦後、遺族に隊員の最期を報告伝達してまわった。
250キロ爆弾を抱え、或る角度範囲で敵艦の中心部に突っ込むのは極めて難度が高い技術を必要とした。
一つの思い出話として、出撃前夜、隊員の宿舎を見回りに行ったときのこと、車座でひそひそ話をしていた隊員たちは入ってきた彼に敬礼するどころか、ジロリをにらんだきりだったという。ところが翌日、一同集結した顔は一変し、皆晴れ晴れと挨拶し、整然と出撃して行き、攻撃の成果も一級だった。
何が一体あったのか。確実に死地に行く人間の心理状態など、容易には判らない。
  
  妻の必死の思いで特攻隊を出され一命を取り留めた夫婦のはなし。物語なら、めでたしめでたしで終わりだが、小生には、戦後この夫婦がどんな人生を歩んだのか興味がある。戦後民主主義の平穏でいささか緊張感の欠けた環境のなかで、どう人生を組み立てていったのだろう。あの記憶の反動はいかばかりか。こちらの方が、現代にあっては切実なドラマではないか。

とにもかくにも、特攻隊の話は、「鎮魂」でのぞむしかない。

で、もうひとつ面白い話を・・・・逸徳

巨樹に興味を持ったり、歴史に興味を持ったり・・・・ひとによって違うものだなあ。面白い。で、鹿児島について前回知覧の話を紹介したが、もうひとつ紹介したい。つまりおいらが興味をもっているのは「人間」というこのなんとも手を焼かせる動物なのである。

 知覧にいったのは、特攻隊のことを調べたいという気があったからであるのは前にのべた。実は、特攻隊の隊員たちを出撃まで世話をした知覧高等女学校の生徒たちが残した手記があるのだが、コレを朗読劇にしたらいいという、ある人からのアドバイスがあり、とりあえず現地にたってみようと・・・・と考えたわけ。
 知覧からの出撃は、439人、知覧司令部からの命令で他の基地から出撃した機もいれると1036人、特攻全体では3461機が参加している。ところが戦争末期だから、飛行機がおんぼろで途中で不時着した機がけっこう多い。整備兵たちは「こんなおんぼろで死なせなくてはならないなんて・・・・」と泣きながら整備したという。その不時着パイロットは、たとえば喜界島では一時30人を越える。そこで軍は貴重なパイロットをつれかえろうと三回にわたって喜界島に輸送機を派遣したのだが、最初の二回は九州に到着する前に撃墜され、結局最後の約10人が、かろうじて基地に帰りつく。もちろん再度出撃、つまりもう一度死ににいくためにである。

 ところが、ここから悲劇がはじまる。軍神として死んでいったはずのパイロットが生きて帰るという事をどうも軍はきちんと予想していなかったらしい。彼らは、幕僚の高級将校たちに「なんで死ななかった」「日本軍人の恥」「いきておめおめと帰ってきて・・」と罵倒されつづけるのである。そして、当時の特攻の総司令部は第六航空軍(ちと正式な名前がわかりません)として福岡にあったが、その横にあった福岡女学院の寄宿舎を接収し、そこに彼らを隔離して外界とのコンタクトを断つのである。そういう人間がいては戦意に影響すると思ったのだろう。その建物は「振武寮」とよばれていた。一時は50人を越える生還特攻兵が収容されていたようである。そして連日のようにいじめに近い扱いを受けて、うつうつとした精神状態ですごしていたという。ところがこの中に牧少尉という人がいた。かれは満州から転属してきたのだが、二式戦闘機という機種を操縦できたのは、その時振武寮のなかでは、たまたま彼だけだったらしい。そしてまた偶然にも雁の巣飛行場に二式戦闘機が一機だけ残っていた。そこで司令部は、牧少尉に単機特攻を命じるのである、その直前、振武寮にいっしょに収容されていたI少尉が彼に次のような計画を持ちかける。それは出撃したら目標は沖縄ではなく、この第6軍司令部にしてくれ。おれが何とか幕僚たちを一箇所に集めておくからそこにつっこんでほしいというのである。理不尽な扱いをつづけた高級将校たちへの復讐だったのだろう。

 しかし何という心情であろうか。I少尉のその時の思いを考えるととりはだがたつような気になる。そして牧少尉も正直動揺したようだ。だがしかしこの計画は直前で中止になる。・・・牧中尉の特攻出撃自体が中止されたのである。もし実行されていたら・・・・・中止の原因はよくわからないが、一説には二式戦闘機「しょうき」は防空戦闘機で航続距離は沖縄まで飛べなかったからだというものがある。なんとずさんな話かと思ったのだが、その時第六軍の作戦幕僚であった高級将校たちのなかでパイロットあがりはひとりだけだったという事だから、案外そうなのかもしれない。 歴史に「もしも」を求めてもせんないことであるが、なんともなまなましい話ではないだろうか。これは劇になる・・・・・と思ったがいまだに書いていない。 

2010年11月24日水曜日

碓氷の関所・・・国兼

褌子さんの旅日記に触発されて・・・。鹿児島も良いね!!15年前か20年ほど前に訪れたことがあるが、桜島を散策したり、鶴丸城を見たり、知覧に行ったりしたことを思い出すね・・・。新燃岳の黒々とした噴煙の写真、実に迫力満点ですネ。
 所で先週、恒例の信州へのリンゴ採りにドライブがてら旅をしてきた。昨年は木曽路の方の奈良井宿や木曽福島の関所を訪ねた。本年は褌子さんが云っていた富岡製糸工場や碓氷の関所等々を見学してきた。

 調べて見ると、日本で関所が初めて置かれたのは大化2年(646年)という。中大兄皇子と鎌足が何を恐れてこのような関所を作ろうとしたのか?蘇我系の反抗でも恐れたのかネ。中世には荘園主たちがアチコチに関所を設けたが、織豊時代には完全に撤廃された。それを再び、家康が復活させ、主要な道路に53の関所を設けたらしい。その時代時代の背景や、為政者の考え方が伺える。

 この碓氷の関所も最初は950年ごろに設置されたが、江戸時代には中山道における木曽福島の関所と並ぶ主要な関所であった。先般、このブログに芦ノ湖を背景に復元された箱根の関所の写真を出したが、そこまでは行かなくても何らかの当時を思わせる跡地が保存されているのではと期待したが、門一つがあるのみだった(写真右)。いささかがっかりしたね!!これでは、カーナビで目的地周辺と言われて、探しても中々見つからないはずだ。歴史的な建物や遺跡をもっと大事に保存し、後世に残すべきであろう。
 写真左は関所から直ぐ近くの、かってはJR路線の中でで最も急勾配の碓氷峠を越える横川-軽井沢線の碓氷第3橋梁(長野新幹線が出来て97年廃線、ここの釜飯が有名だったがどうなったやら)、今は横川-軽井沢11kmの散策道路として楽しまれている。私が行ったときも紅葉を求めて大勢の観光客が歩いていた。

 話代わるが北朝鮮も北朝鮮だが、昨日まで「国会答弁は2つ覚えていれば」と言う大臣問題であんなに騒いでいたのに、今日は新聞もテレビも片隅扱いである。日本は平和と言うか、否、平和ボケと云うべきかも知れない。
 

2010年11月23日火曜日

いやあ~独り旅ってホントにいいもんだねえ・・・・褌子

   みなさん、お久しぶりでございます。
  ただいま九州四泊五日のひとり旅から帰ってまいりました。
  帰ってきたら、ドウダンツツジが真っ赤になっており、逸徳さんと同じく道路はいちめん落ち葉だらけでした。
  まず、日中戦争の時に八路軍の将軍と日本人少女が手をつなぐ写真を撮った沙飛の研究会が、宮崎県都城であり、参加するために羽田を飛び立ちました。
  10月の旅行では石見銀山へ行こうと石見空港へ降り立ったところ全く方向ちがいで失敗しましたので、こんどは國兼さんに笑われないようにと地図をみたところ、都城は宮崎県南端で鹿児島に近いところで、しかも九州の熊さんお住まいの延岡は大分県にちかい県北なので熊さんの安眠を妨げないように連絡することなく宮崎空港へ着陸しました。
  やく一時間のバスで都城へ到着し、中国からの研究者一行は例の尖閣のおもわぬ余波で来なくなり、日本側だけで「沙飛研究・日本の会」が発足いたしました。
  夜は都城の高級芋焼酎をごちそうになり、翌日は、すばらしい晴天で同じく沙飛研究仲間の鹿児島県歴史教育協議会の北先生の車ではじめて鹿児島の地をふみました。
  縄文の大遺跡群である上野原遺跡では眼下に錦江湾をのぞみ桜島を遠くに見ることができました。
  しかも桜島を囲む巨大なカルデラをぐるっと遠望し、高千穂峯、韓国岳(からくにだけ)の間には新燃岳(しんもえだけ)が盛んに白い煙をあげておりました。さすがに開聞岳まではみえませんでしたが絶景を堪能しました。錦江湾はちょうど東京湾くらいの広さとのこと。
  大隅の国一の宮の鹿児島神宮に行くと北先生の教え子の可愛い巫女さんが出迎えてくれ、恐れ多いので握手は遠慮しましたが、仲良く並んで写真をとりました。また明治の廃仏毀釈は鹿児島ではとくに激しかったそうですが、神仏習合の名残をのこす変わった灯籠が残っていると鹿児島神宮の若い宮司さんに説明してもらいました。
  神宮前の弥勒院という由緒あるお寺は廃仏毀釈でとりこわされて今は宮内小学校になっており、校庭には見事な栴檀の木だけが残っておりました。
  さらに、北先生の知り合いのK先生が通りかかって、蒲生の大楠をみに行くんだといったら、その前にちかくに鹿児島県二位の幹周りの「イチイカシ」があるから車についてこいというのでみにいきました。二位のイチイだが一位のイチイよりも風格があるぞと小蔵ひでをさんそっくりの上品なK先生は盛んに自慢しておりました。
  いよいよ次は日本一の巨樹とおりがみつきの「蒲生の大楠=カモウノオオクス」です。どうどうたる風格に圧倒され、しばし茫然と見とれてしまいました。【写真かもうのクス】
  錦江湾沿いに時計回りに走って少しだけ煙をはく桜島に渡りました。大正の大爆発の溶岩で陸続きになったのです。島に繁茂する草も木も火山灰に白く汚れています。
  こんな火山の島にも小学校も中学校もあり、黒姫中学校のそばには火山灰のなかから鳥居の頭が少しだけのぞいておりました。
  鹿児島出身の作家林芙美子の等身大の祈念像などと握手などしておりましたら、夕焼けの空にドンと音がして黒い噴煙があがり噴石まではっきりみえて実に迫力満点でした。【いちばん上の写真】
  フェリーでたった30分で対岸の鹿児島港に着くのですが、船上からは桜島に満月がかかり誠に結構な眺めでしたが、逸徳さんのように俳句もついぞ浮かばず残念でなりません。「ひとさまの句評ばっかりせずに、てめえもつくれ」と仁兵衛さん、猫跨ぎさんのご叱正が耳朶をうつようで誠に辛いことでございました。
  フェリーの波止場まえの修学旅行生が泊まる格安ホテルを紹介してもらい北先生と別れました。
  一泊素泊まりで三九〇〇円、しかもこの△△ホテルのおやじさん(河野さんに似ている好々爺であった)が近くの赤提灯にわざわざ案内してくれ、ママさんに「キープしてるオレの焼酎飲ませて飯も食わせてやってくれ!」というのです。
  四元百合子さんというママさんは逸徳さんならイチコロのタイプで、地元『名山堀』の焼酎もただのせいかじつに美味しくキビナゴの刺身、黒豚の鍋などでついつい二千八百円も飲んでしまい、さっきの格安ホテル代はなんだったのかと自問自答しながら、ふらふらとよろけながらホテルにたどり着き、風呂にも入らず寝てしまいました。なお余談ですが四元ママには次の日からのコースなどを懇切に教えていただきこのご恩は一生忘れません。
  翌日も素晴らしいお天気で、朝、ホテルから桜島をながめながら携帯でhorohorokaiをのぞいたところ、九州の熊さんが小生のために連絡を待つとお書きになっており、早速、熊さんに電話しました。が、鹿児島から延岡は特急でも三時間くらいとおききしクマ邸ご訪問を泣く泣く断念いたしました。
  それにしても桜島は鹿児島市の目の前の洋上にそびえており、ヴェスヴィオ火山のそばのナポリと姉妹都市だということです。先夜の四元ママの話では、今年の夏はあんなに暑かったのにずっと桜島の灰がふりそそぎ窓が開けられずエアコン代がかかって大変だったそうです。【桜島/鹿児島港を行き交うフェリー】
   コンビニで朝食をすませてママに教えられたとおり鹿児島市役所ちかくの老舗の山形屋百貨店からバスに乗り知覧へ向かいました。南九州らしいのんびりしたおだやかな光景がつづきました。植生もどこか千葉の南部と似ているなと思いました。が、知覧特攻基地では実にいろいろ思うところがありました。逸徳さんも下にお書きになっており、またのきかいに発言したいと存じます。
  さらに知覧からバスにたったひとりだけ乗ってゆるゆると指宿(どうしてイブスキと呼ぶのかなあ)に向かいました。
  駅はすでに暗く、有名な温泉の割にはさびれており、駅前に立っている柳生さんに似た二枚目の警官に、◎◎ホテルはどこですかときいたところ、きょう開聞岳で遭難があったんだと忙しそうでしたが交番で地図を書いてくれました。
  じつは今朝、鹿児島で『名山堀』をただで飲ませてくれた安ホテルのおやじさんに「指宿で一番安いところ紹介してくれ」と頼んだところ、手帳をぱらぱらとめくってすぐ◎◎ホテルに電話をかけて小生の目の前で「あんまりカネのないお客さんなんだが朝食付で五千円で泊めてやってくれや」と予約しておいてくれたのです。
  もう暗いので◎◎ホテルはタクシーで行きなさいと警官がいうので、海辺までタクシーに乗りホテルに着いたのですが、なんと五階建ての大きなホテルなのに真っ暗なのです。
  朝、電話にでたのに夕方にはつぶれちゃったのかなあ、と不安になりタクシーを待たせておいて玄関をギギぃ-と押して入り、小さな電灯の下のフロントに「御用の方はボタンを押してください」とあるので何度か押したところ、奧からお婆さんがころげるように走り出してきて「今朝お電話のあった五千円のお客様ですね。当館は百名定員なんですが今日ばっかりはお客様たったお一人でございます」というのです。
  晩飯はもうご用意できないというので、待たせておいたタクシーで駅近くまでもどり、つい赤々と電気がついている割烹料理屋に入ってしまいました。ここで「ばってら」という鯖の押し寿司を何となく注文し、焼酎のお湯割りを頼みました。四元ママさんとは対照的なおじいさんの板前さんばかりで、奥の方の宴会で超多忙だったらしく、しまったと思ったが後の祭り。
  特に名前は秘しますが前日の『名山堀』に比べて焼酎がまずかったこと、さらに「ばってら」というのが、先年、八田さんのご案内で湖北の木之本町の老舗さば寿司屋で食べた実に美味であった鯖寿司を想像していたのですが、この「ばってら」はさっき釣ったばかりみたいな妙に生々しい新鮮すぎる鯖が飯にのっており、どうも気持ちが悪く、赤だし(ぬるかった)を注文してやっとノドに押し込みました。さらに鉄火巻きを頼んで口直しをしましたが、代金は四八〇〇円で一体何のために五千円のホテルにしたのかと後悔しながら月明かりをたよりにとぼとぼと歩いてホテルに向かいました。(翌日、鹿児島に帰りまた△△ホテルに泊まり、この話を四元ママにしたところ、鹿児島のバッテラはそんなものなんですよと大笑いされた…)【桜島の林芙美子像と握手】
  ところがホテルではお婆さんが、豊富な温泉が流れている大浴場となりの特上の部屋をあっためて待っていてくれました。もちろん全館真っ暗のホテルでたった一人で月をみながら大浴場で泳いだりしているのは極上の喜びでした。
  薩摩半島南端の指宿は錦江湾の入り口にあたり、風呂からながめるとちょうど満月がのぼり、キラキラと海面がかがやき対岸の大隅半島もうっすらとみえ、さらに漁り火も明滅。実にすばらしい眺めを独占いたしました。(漱石の『草枕』みたいだな)
  夜半に女房から電話が入り「何やってるの」というので「いぶすき」といったら、そこは宮崎県のどこら辺?というので笑ってしまいました。【鹿児島県二位のイチイの巨木】
  朝、一風呂浴びて七時から大広間でお婆さんのお給仕でひとりで悠然と、あわてずさわがず朝食をいただきました。
  ゆうべ代金五千円を払うのをわすれていたのでチップもあわせて、おばあさんご苦労様と六千円払いました。
  ところが「お客様 親切なおこころづかいありがとうございます」と頭をさげて六千円をうわっぱりのポケットにおさめた、この小柄な地味な白髪のお婆さんこそ何をかくそうホテルの女将さんだったのです。ライオンズ・クラブの会長さんなども務めたことのある地元では有名人だったのです。雨もざあざあ降ってきたので、このあとえんえん三時間も女将さんの一代記をきくことになったのです。
  (・・・・つづく)

よくはれました。雑記少々・・・・逸徳

よく晴れた 昨夜の激しい雨はうそみたい 雲一つない・・・・かとおもったら、まだ名残の雲が少々。 そこで一句・・・ 秋晴や すこしいこじを 反省す・・・・ 公園の落葉樹が色づいて、いろとりどりの枯葉が美しい。街路樹は銀杏なので、道路がすっかり黄色のベルトになっている。 風情があっていいと思うのだが、来週の日曜には町内会で掃除することになった。なんだかつまらんなあ。そこでまた一句・・・・ 燃え残す 思いもありて 紅葉散る・・・・なんちゃって。いや・・・置いてきた 思いもありて 紅葉燃え・・・のほうがいいかなあ。 しかしよく晴れた。名も知れぬとりが一羽、一直線に飛んでいく。 遅刻した渡り鳥ではあるまいか・・・そこでまた一句 ・・・・ とり一羽 宇宙の底を駆け抜けて・・・・いやこれはつまらん。ありきたりだ、と考えていたら、あれこれは「ハヤブサ」を詠んだ句でも通るかなと思った。今度の金曜にJAXAの講演会が静岡であるので、聴きに行ってみるつもりだ。


褌子氏はどこまでいったやら。秋は旅の季節だ。いいなあ。人恋しい。旅に出ようか・・・・でも誰にあいにいくんだ? まあせいぜい誰かにあいにいこう。・・・褌子氏は知覧までいくといったなあ。数年前にいってその時のことをここに書いたような気もするが、べつのところだったかもしれない。 残っていたので再掲する。

知覧である。知る人ぞしる、特攻基地の知覧である。石原慎太郎が「おれはきみのために死ににいく」という映画をつくったり、高倉健主演で「ホタル」という映画ができたり、小泉さんが知覧の特攻の遺品記念館にいって感動して泣いたり、いろんなことがあってどうも特攻が美化されすぎて、疑問を感じていた。
 現地にはいっていろいろ調べていくうちに、特攻のイメージとは全然違ういくつかのエピソードを知った。そのひとつを報告する。 Aというパイロットがいた。特攻隊の一員である。もちろんそれは「必ず死ぬ」という意味になる。だがその奥さんは違った。基地の近くの宿舎で特攻をやめるように必死で何日も夫を説得する。ところが夫はいう事を聞かない。とうとう奥さんは夫のピストルを奪い、夫の目の前で自殺しようとする。「あなたが特攻をやめないならここで死ぬ」というのだ。夫は奥さんが気が狂ったと思ったらしく、奥さんを軍刀で切ろうとするが結局まわりから奥さんも夫も止められるのである。だがその後がすごい。ついに出撃の日に、彼女は離陸寸前の夫の特攻機の前に飛び出し、体を張って離陸を阻止するのである。結果として夫は出撃できず、このトラブルが他の兵士に与える影響を心配した軍部は夫を軍の施設に隔離し、彼女は気が狂ったと思われ精神病院にいれられる。そして終戦。その後、この夫婦は平和に普通の夫婦として戦後を生きたらしい。・・・・・ いのちをかけて夫の戦闘機の前にたちはだかった妻。夫婦愛のものすごさ。こういうのは今の風潮では映画にはならないだろうなあ。ほかにもおどろくようなエピソードを知ったが、また紹介しよう・・・・・・。

2010年11月20日土曜日

ふんどしさんへ   九州の熊

あれっ!名前がちがっていたっけ・・?ゴメンナサイ。
都城におでましですって?ちょっと足を延ばせば延岡じゃぁ~!時間がとれるようでしたら是非我が家においでください。
日本国の年金を頼りの生活なのであまり贅沢な思いはしてあげられませんが寝る部屋とふろ、トイレくらいはなんとか・・。
といってもこちらも毎年年末は合唱ざんまいで結構スケジュールが混んではいるのですが。事前にご連絡いただければ
都合のつく範囲でねんごろなるご接待をいたします。ご連絡をおまちします。

2010年11月19日金曜日

函館通信121・・・いってらしゃい・・・仁兵衛

 褌子さんゆっくり旅を楽しんで来て下さい。
 「穭田や遠き電車の音乾き」の句の鑑賞でご一緒した感性を持って旅の中から新しい句を作ってください。

 「神の皆地底に降りて神無月」は南米の鉱山事故で全員が助けられた事を神無月になった日本からエールを送った訳。
 「川音の冬へ急げと背中押す」は近くの川の流れる音に冬が近いから早く準備しろと言われました。
 まああまり深く考え過ぎない様に気楽に感じて下さい。

2010年11月18日木曜日

日本の詩歌・・・猫跨ぎ

  日本の短詩型は万葉集が何と言ってもルーツだろうね。短歌、長歌、旋頭歌などいろいろあるが、5,7と7,7で繋げてゆく基本構造は同じ。これはその前の、弥生、さらには縄文、あるいはもっと前か、遡るのだろう。他の民族にあるように、この構造での歌謡があったに違いない。しかし文字として残っていないので、考古学が進歩しても立ち入れない世界だろう。
  議論が出来るのは、漢字を用いた万葉仮名で表現される世界、つまり万葉集以降の話になる。遣隋使、遣唐使が多くの書物を持ち帰り、当時の貴族は競って読んだようだ。万葉の歌人は漢籍の知識は詳しかったらしい。その表現法、美意識もどんどん取り入れている。朝鮮半島の古謠との関係はどうなんだろうね。それで、時調が3,4や4,4が基本構造ということで、へーと思った。

逸徳さんへ
  自分が中心にいて、家族が周りにいる。その外に町があり、その外に国家があり、その外に世界、地球そして太陽系、銀河系、大宇宙、まあその外は色々人によって違うが。
そんな年輪構造が常識人の世界認識なんだろうが、谷川修太郎のような詩人になると、自分の立ち位置から一挙に宇宙に飛んでしまうんだね。detachmentところじゃないのではないか、実のところ。
  タモリの「笑っていいとも」を諸兄は見ているかどうか知らぬか、このまえ傑作だった。夫から妻を見て漢字一字で表すとどうかのアンケート結果。
��0代は、愛、慰、飯などの、まあ妥当な答のあと、無、謎、などが続く。笑ってしまった。まあ、頑張って下さい。

次期ブログの中味については、コメント出来る知識を持ち合わせていないので、お任せするしかないですね。よろしく。

漢俳・時調・俳諧に思いをはせながらの旅・・・・褌子

仁兵衛さんと同じく、
猫跨ぎ氏の句で
 ・穭田や遠き電車の音乾き
を私もずばり特選句といたしました。大兄と小生とは同じ豊かな感性も持ち主だということが今回きせずして証明されましたこと誠に欣快に堪えません。 
 ・指一本で足りる炊飯九月尽
これは本当に難解、難渋というか深淵かつ高踏的というか作者の真意は奈辺にあるのか??七転八倒し理解に苦しみました。俳句は決して理解するものではない、くだくだしい説明は不要、ただずばり感ずればよいのだとかいっても、指一本でご飯を炊けるのか???何故だ何故と何か企んでいるのではないかとつい理科畑の私は・・・
 ところがなあ~んだ。種をあかせば電気釜のスイッチを指一本で押せば飯が炊けるということかあ。まったく人騒がせな!!!で一件落着。今晩から安眠できます猫跨ぎさんフントにありがとう。
仁兵衛句の
・神の皆地底に降りて神無月

・ 川音の冬へ急げと背中押す
はやはり詠み人の作意というかひとことがほしいです


  明日の晩は都城、そのあと知覧、集成館、桜島なぞカルピスウオーター片手に四日間回って参ります。



函館通信120・・・句評・・・仁兵衛

 漢字(漢詩)、ハングル(時調)、日本語(和歌・短歌、俳句)三者の歴史と民族的絡み合いは今後とも興味深く気に止めておきたい。同時に漢字が日本に入ってきた古墳時代?とそれ以前の日本の言語的情況を再学習したくなった。其れは弥生、縄文と遡っていければ更に面白そうだ。何かいいアドバイスがあったら是非頼みたいものだ。

 さて、猫跨ぎさんの句と同時に褌子さんの句評面白く読ませていただきました。今回の私の特選は
  ・穭田や遠き電車の音乾き
 です。上五と中七・下五との取り合わせが旨いなと思いましたが其れと共に「穭田」に個人的に思い入れが強かった事が決め手になってしまいました。今年の猛暑で「穭田」はどこでも非常に長くなったようです。そう思って函館の句会でこの季語を使ったところ仲間の半数以上が知らないか見たことは無いと言われてしまいがっかりしました。いわきでの回想が強すぎたのだと思っています。残りの気になった句は以下の二句です。 
 ・指一本で足りる炊飯九月尽
 ・剣山の床に転がる寒露かな

 褌子さんの鑑賞力には何時もながら鋭さがありますが句評の後に詠み人から若干の解説を加えた方がいいだろうか。ご意見を下さい。まあ同時にご本人の句をデビューさせて下さいな。

バックアップについて・・・・褌子

可愛い姪のだんなさんからメールがきましたので、転載いたします。
理学博士の國兼さんのご見解を賜りたいと存じます。
■□■□■□
ブログのバックアップを調べたところ、
1週間に1回自動でバックアップしてくれる無料サービスを見つけました。
FC2バックアップ:http://backup.fc2.com/
FC2にもブログのサービスはありますが、
このバックアップサービスは、どこのブログサービスでも利用可能です。
写真などのファイルも含め、
登録したブログアドレスの配下にあるファイルを全て保存してくれます。
1週間に1回ですが、無料なので利用する価値はあるかと思います。
ただ、単純にHTML形式(ブラウザの表示)のファイルを保存しているため、
このバックアップファイルから実際に復元するとなると大変です。
サブ的なバックアップとして利用するのが良いです。
また、FC2のブログサービスにも、記事のバックアップができる機能がありますが、
FC2自体の評判は、あまり良くないです。
参考になれば幸いです。

detachment・・・・逸徳

朝烏 ふりかえりみれば  茜富士・・・・・  朝が寒くなって、布団の温かみがなんとも気持ちいい季節になりました。 さて、褌子氏の猫跨ぎ句の批評と、お師匠の後説、読んでいておもわず笑った・・・・ゴメン。 で、古い江戸都都逸を思い出した。 ~ 四国西国島々までも 都都逸ぁ恋路の 橋渡し~なんぞという粋なセリフがあるが、似たようなので~ 露は尾花と寝たという 尾花は露と寝ぬという ~なんぞという、なんとも色っぽいのがある。思い出したのはこのセリフだ。ツバメの句や指一本の炊飯の句のやりとりは、なんともおかしい。これは、たくまずしてにじみだした褌子氏のユーモア性であろう。本人は自覚していないだろうが・・・ 角度を変えていえば、褌子氏に江戸っ子町人のイメージを感じるのである。 いやこれは褒めているんだよ・・・・・

さて、夕べは谷川俊太郎の対談形式の講演会があって聴きにいってきた。なかなか面白かったが、老境にはいっての感想を問われて、言下に「楽です。ものすごく楽ですよ」と断言したのは面白かった。彼のイメージでは、人生は一般にいわれるような山形の曲線ではなくて、同心円の年輪のイメージだというのである。 つまりいくつになってもその一番の中心には幼児のころの自分がいるのを感じるというのだ。詩人というのはそうなんだろうなあ。

で、大変印象的だったのが、最近の自分についてかたった中で、「detachment」という言葉を何回か使ったことである。 これは対象にぴったりくっつくのではなく、ちょっと離れてみるというようなイメージだろう。そのほうが物事は大変よく見えてくるというのだ。彼はマザコンで女性崇拝論者だということを、自分の生い立ちからかたっていたが、その彼がまだ若いころ、朝倉摂といっしょに仕事をしたことがあり、そこで「人間の最小単位は何か」という議論をしたそうだ。 朝倉摂(有名な舞台美術家だが、谷川の言によれば、ちとひだりがかっていたので、)は、「それは個人だ」と主張したのだそうだが、それに対して谷川は「それは夫婦(男女のペア)だ」と答えたという。しかし、老境にはいった谷川としては、「今は朝倉さんの気持ちにちかい」という。このことにかかわって出てきたのが「detachment」である。 

 そうだろうなあと思う。 「恋は盲目」とか「忘我の境地。我を忘れる」というのは、強い生のエネルギーを感じさせるが、それはdetachmentとは正反対の状態だろう。
それは対象から離れて、高みに向かいながら世界全体に視野を広げることにつながる。 そして同時にそれは強い孤独の精神でもある。 まあそうだろうなあ。人は結局は死ぬときはひとりなんだから。・・・・

  detachmentである。うむ、おいらももっとこれでいこう・・・ そう考えてみると、30年以上もいっしょに暮してきた、おいらの横にいるあの女性なんかも、いまだによくわからんし、逆にいえば、そう簡単には踏み込ませないおいらだけの心の小部屋というか離れがあるのも感じる。まあそんなもんだろう。・・・・ン?何の話だっけ・・・??・・・・ ここのところ奥さんには読ませられない・・・・

ちょっと後説・・・猫跨ぎ

・カルピスが初恋の味という手垢のついたキャッチコピーはもう忘れなさい。
・指一本で炊飯器のスイッチをいれた景だけどね。指一本では猫の餌でも無理だね。
・去ぬ燕について。まあ誤解を招くが、蒼天と碧海の間、まっしぐら南に向かう燕が主人公なんだけれど。

2010年11月17日水曜日

猫句を鑑賞す・・・・褌子

 ・カルピスを飲む間も噴水砕けをり
カルピスはなぜあんなに美味しいかというと初恋の味だからである。
いまも小生がカルピスで胸がきゅんとなるのは、ポプラ並木でふたりで飲んだあの日をおもいだすからであろう。
そのてん浅田飴では胸きゅんはないのは仕方がない。
掲句は作者が、講義をさぼって札幌大通公園で初恋のひとと密会している場面だと思われるが、胸がきゅんとなるようなときめき感がないのがおしまれる。
 ・涼しとも秋涼しとも青畳
新しく青々とした畳こそ初夏にふさわしいが、今年は秋がきても猛暑に悩まされたから、畳替えをした喜びが伝わってくる。
 ・天窓は小さし秋の書道展
上をみたり下をみたり、作者はよくものを見ている証左。
小さき天窓からおりてくるほのかな光に浮かび上がり筆墨のかすかな香りまでしてくる。
 ・江戸絵図を腹這ひで見る夜長かな
池波正太郎でも読みながら江戸絵図をみているのか。
青畳に江戸絵図は、にあうね。
 ・指一本で足りる炊飯九月尽
むむむ… 愛猫のごはんでもつくっているのかね。
指三本では駄目ですか
 ・剣山の床に転がる寒露かな
奥方さまは華道にいそしんでいたんですね。
寒露にさみしさがでております。
剣山の針でぶすりと足をやられないように、床の間にしまっていただきたい。
 ・去ぬ燕紺碧一色しか見えず
虫一匹飛んでない澄み切った秋冷の空をこんなふうに表現するんだねえ
一色しか見えず、でなく肯定的な表現のほうがよろしいが
 ・穭田や遠き電車の音乾き
澄み切った秋冷の空をこんなふうに表現するんだねえ
しんとした時間の経過を感じさせる。特選
 ・焼芋の声の夜更けて木挽町
これは池波正太郎の世界そのもの
木挽町が一句を見事にしめた
 ・もう降りる駅に来てをり冬茜
冬茜がいいね。裸の木々のシルエットを浮き立たせる冬の陽。
初老期らしいアンニュイも少し。
  ・・・・・
  明日から三日間、都城での沙飛研究会に出席し、知覧を見学してくる。

時調・・・猫跨ぎ

「俳句が、極端に字数を少なくして無駄を省いた究極の定型詩であるのに比べ、朝鮮の時調は字句に余裕を持たせた含みのある定型詩である。時調の定型は三章六句。音数率は三四、四四調。字数はおよそ45文字である。およそというのは、その前後であれば許されるということだ。俳句のような、季語、切字といった制約もない。」とある。

  時調の定型の中味を見ると、そういうことらしい。面白いのは、俳句が5、7、5に対し、時調は3、4あるいは4、4の調べで続くということ。これは日本語とハングルの構造の違いなんだろうね。面白い、実に。
褌子氏がいつか、金子兜太が漢詩に俳句の源があるといっていると紹介してくれたけど、どういう内容だったかな。
  褌子氏の仁句評は、これまでの当欄の「伝統」に一石を投ずるもので、びっくりした。その後の腰砕けが褌子氏らしいが。いろいろありで、これもいいんじゃないの。ついでに言えば、自作も発表してね。
ちょっと時期が遡るけれど、拙作も行ってみよう。その調子で捌いてほしい。

・カルピスを飲む間も噴水砕けをり
・涼しとも秋涼しとも青畳
・天窓は小さし秋の書道展
・江戸絵図を腹這ひで見る夜長かな
・指一本で足りる炊飯九月尽
・剣山の床に転がる寒露かな
・去ぬ燕紺碧一色しか見えず
・穭田や遠き電車の音乾き
・焼芋の声の夜更けて木挽町
・もう降りる駅に来てをり冬茜

時調について・・・褌子

仁兵衛さんのおかげで時調ということばをはじめて知りました。
インターネットの百科事典から下に引用すると
■□■□■□
  時調は14世紀ごろ、高麗末期に成立したとみられ、李氏朝鮮時代に流行した。時調という名称は李朝第21代王英祖の頃から用いられた。それ以前は「短歌」「長短歌」「新調」などとも呼ばれたが、現在は使われていない。時調は「時節歌調」の略称で、いわゆる「流行歌」の意味であり、歌人、李世春が「時調」という言葉を作ったと言われている。
  時調の起源については諸説があり、巫女の歌から来たという説、郷歌から発展したという説、『満殿春別詞』などに見られる高麗の歌謡が起源という説などがある。時調は、まず、両班たちによって作られた。内容は儒教の精神を歌ったものから、やがて自然美を歌った牧歌的、叙情的なものに変わり、妓生が時調を作るようになると、より人間の具体的な感情を歌うようになる。


函館通信119・・・そうなのか・・・仁兵衛

褌子さんへ
 そうなのかこのアドレスを開くと韓国語が出るのか。グーグルで時調を選択して「朝鮮歴史民族の旅」(時調1・2)を見直してください。
 辛口の句評有難う御座います。しかし詠み人と評価者との間にいくら深い溝があって当然と思っているのでどんどん辛くして下さい。詠み人があまり解説し過ぎると面白みも半減するものです。どこかで二者が接近することがきっとあるでしょう。

2010年11月16日火曜日

仁ちゃんへ・・・・褌子

早速、紹介のhttp://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2004/06/0406j0605-00001.htmにアクセスしたら、韓国語でチンプンカンプンですが、北海道新聞の記事は関心があるので、本欄に転載してください。
白鵬はいい顔していますね。人柄も非常によさそう。我々と同じモンゴロイドだなあと痛感します。
「漢字文化圏の短詩の世界についてもう少し眺めてみたくなった」と書いていますが、小生は石川忠久の漢詩DVDを購入し、深夜プロジェクタでカーテンに映して、中国の大地、山川草木の動画と漢詩の傑作選を楽しんでいます。
ところで先日、仁句を鑑賞し↓にすこし辛口の評を書きましたので、ぜひ読んでください。

函館通信118・・・俳句と時調・・・仁兵衛

 昨日の相撲は本当に面白かった。横綱が外国人であろうとなかろうと問題ではない。相撲内容が良ければそれでよかったと単純に感じている。
 
 さて、最近道新に「俳句と時調」と言うコラムがあった。駐札幌韓国総領事の朱さんが書いている。
 時調というのは私にとっては初めての言葉だったので興味を惹かれネットで一寸だけ調べてみた。なかなか面白かったのでご紹介する。
 http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2004/06/0406j0605-00001.htm 
 http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2004/06/0406j0612-00001.htm

 韓国は近くて遠い国だと感じているが日本の俳句、短歌に対してこの時調の占める位置はお互いの国民性を強く打ち出しているのではなかろうか。更に漢詩を含め我々漢字文化圏の短詩の世界についてもう少し眺めてみたくなった。何方かこの辺りのことを書いた物を推奨戴けたら幸いです。

木鶏たりえず・・・猫跨ぎ   

  昨日たまたま白鵬-稀勢の里の一番を見ていた。後出しジャンケンで何だが、控えの稀勢の里を見ていて、いつもと違うなと思った。大一番の前は、顔面真っ赤に紅潮する力士なのに、一見気の無さそうな沈んだ顔をしていた。変だなあ、何かあるぞ。
そしてあの一番だ。矢継ぎ早の速攻で白鵬を土俵下へ転落させた。ふと、匕首を呑んで相手を待つ刺客を連想した。大久保利通の馬車を待っている刺客は多分こんな感じではなかったか。
  「われいまだ木鶏たりえず」か。稀勢の里24歳、白鵬25歳、双葉山26歳。この年齢が、肉体の最高潮なんだな。それにしても、双葉山の写真を見るとあれが26歳か。

2010年11月14日日曜日

要するに・・・猫跨ぎ

自分の記事だけを編集、削除できるのは勿論bestだが、すると各自が個別のパスワードを持つということかな。ちょっと高級でお高いブログになるような気がするけれど。
まあ、いずれにしても、編集、削除はできてバックアップを常時自動的にやってくれるのが望ましい。

2010年11月13日土曜日

削除について・・・褌子

   今日、四年前に本ブログをつくってくれた姪のだんなKちゃんから電話がかかってきた。
   すでに四年分の過去ログ消失後のわれわれの発言を全部よんでいて、バックアップ機能がないのでtoshio方式でも上書きされてしまっているので「復元はまったく無理です」とのご託宣であった。ここは男らしくあきらめるしかありません。
   いまKちゃんに自動バックアップ機能がある使いやすいブログについて調べてもらっています。
   國兼発言のヤフーのグループウエァのように、自分の書いた記事のみを本人だけがいつでも編集、削除できる、というのは合理的だね。さらに毎晩、一定の時間になるとその日の差分だけを追加してバックアップできる機能があれば心配ないわけである。全員のパソコンが全部毎晩バックアップしなくても、親機だけが外部HDDなどに自動バックアップしておけばいいわけだ。

削除について・・・国兼

 「削除」必要について、若干誤解があるので一言。私が参加しているScienceの翻訳活動ではヤフーのグループウエァを利用しているが、そこでは自分の書いた記事のみを書いた本人がいつでも編集、削除できる。だが他の人の書いた記事は編集、削除できない仕組みである。年とともにケアレスミスも増えるし、バックアップ方式でもかまわないが(その分だけメモリー容量が必要となるのでは・・?)、安全性は高めておいた方が良いのではと思うが・・。

 写真は2週間前ほどに撮ったコスモスの写真。この花をcosmos(宇宙の秩序)なんて、オーバーな名前をつけたものだ。私にとっては島倉千代子の「人生いろいろ」で歌われた・・・バラもコスモスたちも枯れておしまいネ・・・の方がフィトとするね。

2010年11月12日金曜日

仁句を晩秋に鑑賞す・・・褌子

・ 神の皆地底に降りて秋の夜
秋、神の皆といえば神無月を連想するが、意味深な句ではある。
神々が地底で酒飲む夜長かな  とか平易にしてはだめかい
 ・ 柳葉魚の目大志抱いてをりにけり
あのしなびたシシャモの目に大志をみるとは、何とも不思議な感受性の持ち主ではないか
柳葉魚の目大志抱けど喰われけり  とか
 ・ 文化の日ラーメン啜る音のして
文化の日とラーメンとは何となく相性がいいが「啜る音のして」が何となく凡だなあ
文化の日志那そば啜りて大くさめ  とか
 ・ 四つ切のカメラ目線や七五三
「四つ切のカメラ目線」がひと工夫ほしいな
レンズよりあたいを見てね 七五三(笑い)
 ・ 稲荷鮨裏返されて神無月
新感覚派の面白い句だといいたいが、季語とのあいだに二物衝撃がおきてないのが残念    稲荷鮨裏返されても稲荷鮨(笑い)
 ・ 朝からの携帯メール石路の花
「朝からの・・・」でなく瞬間をきりとりたい。
朝霧の日の朝一のケータイメール  とか
・ 切り株に腰掛けてをり冬隣
かさかさと落ち葉の音が聞こえる。情景がくっきりと目に浮かぶ。特選
 ・ 川音の冬へ急げと背中押す
よくわからん。道ならぬ恋の男女が心中に逡巡しているのか
たとえば  川音に耳すます背に霰かな  とかだったらわかるんだけど…
・ 虎落笛合掌土偶の目に泪
俳味ある好題材なのに「合掌」が余計。テンコモリで余韻がないようにおもえる。
虎落笛木偶のまなこに泪かな とか
・ 初雪や法事帰りの引出物
寒くなると法事がふえるなあ。どちらかというと「引き出物」は祝い事ではないかとおもうが。
初雪や香典返しを冷やで飲む  とか

2010年11月11日木曜日

削除機能は必要だね・・・猫跨ぎ

  過剰に便利な商品は人間を衰弱させるね。売らんかなの商品開発の結果、変なものがたくさんある。商品開発の方向性が、人間の快を満足させるということが最大の指導原理だからこんなことになる。時には意地悪な商品があってもいい・・・・岡本太郎がそんなことを言っていたな。

ブログの削除機能は必要だね。投稿して「あれ、しまった」ということがよくある。褌子氏のいうような自動バックアップ機能つきが最も有難い。

自動バックアップ機能があるブログ・・・  褌子

  國兼発言の「そのうち便器の前に立つと、ジッパーもベルトも褌も自動的に下ろすようになるのかもしれない」で、自動的にフンドシを下ろしてくれるなら自動的にフンドシを締めてくれるのか…なんて下らんことを想像して笑ってしまった。
   日本式水洗トイレにはじめから慣れた子どもは外国にいって呆然とするそうです。
   「そのうちパソコンの前に立つと、自動的にHorohorokaiがたちあがり、思ったことが自動的に文章化され映像化されて発信され、自動的にバックアップされるかも知れない」
   さて小生の@niftyの試作品では「このブログを削除」をクリックすると「削除してよろしいですか?あなたの書いた発言がすべて消失して、二度と元に戻すことはできません。本当によろしいですか?」ときいてくる。それでもだんだん目がかすんできて酔眼もうろうとして「削除」をクリックしてしまうばあいだってあるね。管理人しか削除してはいけないと仮に決めても管理人って誰だっけ俺だっけと勘違いするひともあろう。とすると結局ひんぱんにエクスポートしてバックアップをとるしかないのか。誰がバックアップをとるのかという問題があり、面倒くさいね。
  そこで自動バックアップ機能があるブログがあるのか調べてみると…
ありますね  ⇒例えば「はてなダイアリーなど」

セキュリティを・・・国兼

 明智小五郎も歳をとって・・、そうか単純なミスか!!!確かに、このホロホロ会のブログはこのブログに入ることの出来た人物は誰でも「編集と削除」をクリックし、「総てにチェックを入れる」をクリックして「削除」をクリックすると総てが消滅する仕組みである。今回無事だった写真の方も同じ手口で削除される。分かっていながら、何故ボーッとしていたのだろうかと反省してしまう。バックアップもさることながら、ひでをさんが書いているように、「削除」の権限を本ブログの管理者に限定するとか何らかの手を講じた方が良いのではと思う。

 話代わるが、この日曜日から地域のボランテァ仲間12名と東富士にある標高800mのTOTOの保養所で一泊旅行をしてきた。流石TOTOの保養所らしく、トイレに行くと便器の蓋が自動的に開き、用が終わるとこれまた自動的に水が流れ、蓋が閉まる。最新式らしいが、ここまでやるのかいと・・・。そのうち便器の前に立つと、ジッパーもベルトも褌も自動的に下ろすようになるのかもしれない。
 保養所に行く途中、おばさん連中の希望で御殿場のアウトレットなる所に寄った。アウトレットとは?も知らずについて行ったが、すごい人出と、車の行列に驚いてしまった。コーチやバーバリ等の有名ブランド品の流行おくれの物が3割、5割引きで買えるらしい。おばさん連中も何人か買っていたが、日本人の舶来品好きは国民性なのかね?
写真左は保養所からの一枚(紅葉もきれいで後ろに見えるは富士山)、右は芦ノ湖と手前は平成16年復元された箱根の関所。

2010年11月10日水曜日

新ブログのとりあえずの試作品ですが・・・褌子

    試作品のアドレスはhttp://nishi777.tea-nifty.com/horohorokai/
で、@nifty提供のブログ「ココログ」です。こんどはちゃんとデータを保存・復元できるか(エクスポート)など試しているところです。
   自動バックアップ機能というのはないらしく、簡単に保存・復元できるのかもふくめて現在お試し中です。【写真は三瓶山縄文杉埋没林の秋山学芸員と】
   私はプロバイダーが@niftyなので、かなりの大容量でも無料です。しかも発言掲載場面には広告もありません。しかし、発言投稿画面にはこのBroach管理ツールと違ってうるさい広告があるのが残念ですが、慣れてしまえば気にならないかもしれません。
  当面は本欄でどんどん書いていただき、新ブログのほうにそっくりインポートいたします。ご意見をお聞かせください。
  おおかたの同人のみなさんがまあ、これでいいよ、というのであればログインするアカウントとパスワードをメールで送ります。
  旧西沢式ブログの復元はかなり難しそうですが、小倉式ホームページの過去ログは私も全文をもっておりますので、新西沢式ブログにリンクするようにします。(写真は全部消えてないので、これも新ブログに貼り付けたいがどうやるのかなあ)
  小倉さんのホームページの掲示板は2004年1月16日から飛鳥旅行から帰ってきた直後の2006年11月30日まで1415回続いております。ちなみに最終回1415の発言は以下のような猫跨ぎさんの感動的な発言で見事にしめくくられております。
小倉さんので3年ちかく続いて、さらに4年も続いたのですね。この調子であと33年続くと白寿を迎えるなあ。いやあおめでたい
―――――
1415  お世話になりました 猫跨ぎ 2006/11/30 21:36
あと数時間で本掲示板も終了。何か感慨深いものがありますね。ひと時代を画したような気がします。お世話になりました。小倉さん、ご苦労様でした。どうも有り難う。

数えてみれば・・・猫跨ぎ

  horohoro用に小生が投稿した本数を数えたら、2005年からで950本あった。本当かなとびっくり。塵も積もれば、だね。それなりの歴史を形成しつつ続いていたわけだ。
別段総括する必要もないが、それなりに各自、真摯に向き合って真面目に議論してきたなあと感慨深い。これからも、分野、領域にとらわれず、闊達な意見の場であり続けたいものだ。まあ、過去は消えてしまったのは残念だが、これからはこの欄の歴史がその定点観測になるのではないか。

どうもどうも・・・・褌子

 どうも、このブログは、バックアップ機能がないブログだったみたいで申し訳ありません。
  四年前の10月4日に、たまたまわが家に遊びにきた姪のだんなさんが、一番簡単な(年寄り向きのとはいわなかったが)ブログはないかなあとインターネットで調べて、たった10分くらいでつくってくれたのをそのまま始めたものです。小倉式ホームページから西沢式ブログにきりかわって、はや四年たったんだねえ。あのころはみんな若かったなあ。
  いま、バックアップ機能があってしかも無料で広告のない素敵なブログを準備中です。アカウントとパスワードは近日中に全員にメールします。
  四年分の発言集の回復・復元は・・・・・当会技術陣が悪戦苦闘中ですので、いましばしお時間を頂戴したいと存じます。
  とにかく閉鎖するまでやけくそで何でも書いてくれー!

おやおや・・・・・逸徳

おいらも途中で過去の記事がでているので、何か操作を間違えたかと思い、一度降りたのですがそういうことでしたか。 だめもとで褌子さんからプロバイダーに一度聞いてみたら??

寒くなりました。おいらも前回の短歌を再登録と思ったら、手元にとってなかった。したがって本人もよく思い出せない幻の名歌となった。実に傑作であったが、これで日本短歌大賞にノミネートされるのは辞退する理由ができた。・・・・まあいいや。

最近、仲のいい後輩たちと飲んだ。彼らもちょうど今次々にリタイア中である。 で、おおきな話題になったのがセカンドライフの目標である。前期高齢者のうちはまだ余勢でいける。ほんとにむつかしいのは、後期高齢者になってからだ。一日がながくなる。しかし脳の相当部分は活発である。ここでどういう変化がおこるのだろうと、老化現象の定点観測をしてみようと考えてみた。いわゆる当事者研究といわれるやつである。だが、そのための観察記録メモノートをどこかにおきわすれる。 だめだこりゃ・・・・・


  

2010年11月9日火曜日

toshioさんからのメールです・・・褌子

  八王子方面のtoshioさんから次のようなメールがきました。感謝します。
  わたしもtoshioさんのアドバイスどおりにやってみましたが、わたしのパソコンでは上書きされたあとだったみたいで復元できません。
  転載しますので誰か復元に挑戦してみて下さい。(toshiさんによるとどうもバックアップできないブログらしい。自動バックアップ機能をもつblogサイトへの移行もこの際検討する必要があるかも…)
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ほろほろ会の皆様
管理人 西沢さん
お久しぶりです。
八田氏のメールを読んで、ほろほろ会ブログを見にいった方は、上書きされてだめですが、消去以前に見に行って、まだ 消去後にアクセスしていない方はぜひ Temporary Internet files から データを 取ってください。
方法
��.Internet Explorerを立ち上げる。
��.ファイル(F)をクリックし、オフライン作業にクリックを入れる(必須、これを
しておかないと今あるblogに上書きされます)。
��.ツール(O) → インターネットオプション →閲覧の履歴 → 設定 → 
ファイルの表示
 → インターネットアドレス、或いは 最終アクセス日等をクリックして、一覧表をソートさせて、目的のファイルが有るネットアドレス(http://pub.ne.jp/horohorokai/)を探す。 見つけたら、クリックしてファイルを保存する。いくつかあると思います。 ??.mhtがメインのファイルです。(但し、windowsXPは見えましたが、私のPCのwindows7では必要なファイルは見え
ませんでした。)
追記
ここのBroach Blogを開けてみましたが、エクスポートやバックアップが見当たりませんでしたので、それができないシステムのBlogのようです。ネットで“Blog 無料 バックアップ”で検索すると、いくつかBlogサイトが有りました。この際、バックアップ可能なBLOGサイトへ移行するのも検討してみる価値はあると思います。
又は、このBlogのメイン メニュー(http://pub.ne.jp/horohorokai/)を開いて、ファイル(F)で左クリックし、保存するで、名前はhorohorokai.hmlでしょうか、これを時々実施する。(再登録するには、ホームページビルダー等で、このファイルを開いて、テキスト文と画像に分けて、1個づつ再投稿する。投稿の日付けは編集可能ですよね。)
皆さん、年を経てきているので、また同じようなことが起こると思います。
Blogは、WWWのhtml文で記述されており、通常のwwwを見るのと同じです。見た内容が自分のPCのtemporary filesに
保存されるだけです。私のPCは、終了時 履歴消去に自動設定しているので、回復はだめでした。

これがあるんだよね・・・猫跨ぎ

  電子情報はこれがあるんだよね。
むかしワープロが出始めた頃、何日か書き続けた文書が、ひとつの操作で一瞬のうちに消えてしまったことを思い出した。それがトラウマになってバックアップが習慣になっていたが。この欄に投稿したものは全部記録してある。勿論自分だけのものだが。
何か大きな喪失感があるね。ちょっとぼんやりしてしまった。
  ブログの仕組みを実はよく知らない。実際どんな操作がなされて完全消去になってしまったのか。この辺は八田さんは後ほど公開してほしい。こういうことを想定して何らかの保護の仕組みが組み込まれていないのだろうか(いないから、復元できないのだろうが)。繰り返さないための留意点は何か。 ブログの定期的なバックアップの方法は?
詳しい人は対策をまとめて教えてほしい。
八田さん、人間は間違えるものだ。後悔はそこそこに。これを機に、投稿にどんどん参加して欲しいね。

そうですそうです心機一転がよろしい・・・・褌子

   北大初のノーベル賞鈴木先生もいっさい特許をとらず、鈴木カップリングは全世界で活用されて人類に貢献しているではありませんか。
   ほろほろ会のみなさんのガクジツテキに高尚な議論があっというまに昇天してしまった結果、今頃あの世などできっと役立っているのではないかと推察いたします。なにも我々だけで独占しておくにはあまりにもったいない投稿の数々でした。
   生前のご厚誼に深甚の感謝を申し上げて再出発しませう。
   歌人として活躍をはじめられた小蔵ひでをさん。関西の八田さん、河野さんもどんどんご投稿をお待ちしております。
 

再出発を!     小蔵 ひでを

一瞬の静寂?誰も何を語ってよいかわからず茫然としている図。私も、国兼さんの推理に、何か答えなければ・・・、だけど、わがホームページはちっぽけな地元のケーブルテレビのプロバイダー、褌子さんのブログは超大企業NTTのそれだし、絶対に結び付かないはず。などと思案している時に八田さんのメールが入りました。メールを読んでびっくりです。一瞬に膨大な資料が消え去ってしまうような操作が簡単に出来てしまうことに驚愕しました。セイフティシステムは本当にないのか?それにしても、この事件の遠因は私がホームページの削除の了解をとり、削除したことにあります。その結果、馴れないブログに入って、八田さんが操作を誤ってしまったという事ですね。
 しかし、出来てしまった事は仕方ないと、残念だけれど、今から心機一転ブログを始めるつもりで始めませんか?褌子さんには、再生は本当に不可能なのか?プロバイダーに相談して頂きたいのですが。
 それにしても、ITの世界は何が起こっても不思議がないのですね?旧ホームページでは、掲示板荒しに手を焼きました。世の中、情報の流出も日常茶飯事です。覚悟の上で、楽しくやろうではありませんか。

2010年11月7日日曜日

写真は生きている・・・猫跨ぎ

アップロードした写真は皆健在だね。勝手ながら、下の仁ちゃんの記事に、北大の構内風景を貼り付けてみた。してみると、本文もどこかに隠れているのではないか。

2010年11月6日土曜日

函館通信117・・・とりあえず・・・仁兵衛

 過去のデータがどうなったかの原因解明には時間が掛かるであろう。とりあえず31日に出した十句を再掲載いたしますので宜しく。 

 ・ 神の皆地底に降りて秋の夜
 ・ 柳葉魚の目大志抱いてをりにけり
 ・ 文化の日ラーメン啜る音のして
 ・ 四つ切のカメラ目線や七五三
 ・ 稲荷鮨裏返されて神無月
 ・ 朝からの携帯メール石路の花
 ・ 切り株に腰掛けてをり冬隣
 ・ 川音の冬へ急げと背中押す
 ・ 虎落笛合掌土偶の目に泪
 ・ 初雪や法事帰りの引出物


一つの推理・・・国兼

 昨日は終日Scienceの翻訳に没頭していたため、この異常な出来事に気づかなかった。いずれにしても、今後このようなことが起きないよう原因追求が急務である。
 私が気にしているのは、小倉さんから11/4にホームページ終了のメールをもらったが、この小倉式ホームページと西沢式ホームページの間の関係である。仁兵衛さんのコメントによると4日の17時までは正常で猫跨ぎさん投稿の記事も読めたと言う。しかし猫跨ぎさんによると5日の11時ごろ4日以前のの投稿分が総て消去という異常発生に気づいている。
 小倉式ホームページの消去、或いは消滅、或いは閉鎖が関係しているのではと明智小五郎は推理しているのだが・・・?小倉さんは何時閉鎖の手続きを、そして実際にプロバイダーの方は何日の何時ごろ閉鎖の処理を行ったのだろうか・・・?

2010年11月5日金曜日

ほろほろ会のデータ流出??・・・褌子

  警視庁の極秘テロ情報が流出したり、日本政府しかもってない尖閣諸島でのビデオがいつのまにやら流出してしまう時代だ。
  ほろほろ会の学術的文化的に貴重な発言記録も何者かによって全世界に頭脳流出してしまったのであろう。

函館通信116・・・???・・・仁兵衛

 心配だねー!昨日17時過ぎに一回開けたけど何ともなかったよ。猫跨ぎさんの句評が載っていたと思う。取り急ぎ。

問い合わせてみましょう・・・褌子

  投稿された短歌と俳句の評を書こうと思ったら、全部消えていたね。
  来週あたりに、本ブログの管理会社に過去ログを復帰できるか問い合わせてみます。
  当面はいままで通り、活発な投稿をよろしくお願い申しあげます。

午前からおかしい・・・猫跨ぎ

午前11時ころ、ブログを開くと2007年の近江旅行の時の記事の場面になっている。変だなと思いながらその後何度か開くと、記事がどんどん遡っており、さっきは全くの白紙画面。
誰か削除の操作をしたか。回復は可能ですか。↑文字化けしているね。変だな。

不思議・・・褌子

あらら、不思議、過去の文章が全部消えちゃった。
だれかこころあたりありますか