2010年11月25日木曜日

で、もうひとつ面白い話を・・・・逸徳

巨樹に興味を持ったり、歴史に興味を持ったり・・・・ひとによって違うものだなあ。面白い。で、鹿児島について前回知覧の話を紹介したが、もうひとつ紹介したい。つまりおいらが興味をもっているのは「人間」というこのなんとも手を焼かせる動物なのである。

 知覧にいったのは、特攻隊のことを調べたいという気があったからであるのは前にのべた。実は、特攻隊の隊員たちを出撃まで世話をした知覧高等女学校の生徒たちが残した手記があるのだが、コレを朗読劇にしたらいいという、ある人からのアドバイスがあり、とりあえず現地にたってみようと・・・・と考えたわけ。
 知覧からの出撃は、439人、知覧司令部からの命令で他の基地から出撃した機もいれると1036人、特攻全体では3461機が参加している。ところが戦争末期だから、飛行機がおんぼろで途中で不時着した機がけっこう多い。整備兵たちは「こんなおんぼろで死なせなくてはならないなんて・・・・」と泣きながら整備したという。その不時着パイロットは、たとえば喜界島では一時30人を越える。そこで軍は貴重なパイロットをつれかえろうと三回にわたって喜界島に輸送機を派遣したのだが、最初の二回は九州に到着する前に撃墜され、結局最後の約10人が、かろうじて基地に帰りつく。もちろん再度出撃、つまりもう一度死ににいくためにである。

 ところが、ここから悲劇がはじまる。軍神として死んでいったはずのパイロットが生きて帰るという事をどうも軍はきちんと予想していなかったらしい。彼らは、幕僚の高級将校たちに「なんで死ななかった」「日本軍人の恥」「いきておめおめと帰ってきて・・」と罵倒されつづけるのである。そして、当時の特攻の総司令部は第六航空軍(ちと正式な名前がわかりません)として福岡にあったが、その横にあった福岡女学院の寄宿舎を接収し、そこに彼らを隔離して外界とのコンタクトを断つのである。そういう人間がいては戦意に影響すると思ったのだろう。その建物は「振武寮」とよばれていた。一時は50人を越える生還特攻兵が収容されていたようである。そして連日のようにいじめに近い扱いを受けて、うつうつとした精神状態ですごしていたという。ところがこの中に牧少尉という人がいた。かれは満州から転属してきたのだが、二式戦闘機という機種を操縦できたのは、その時振武寮のなかでは、たまたま彼だけだったらしい。そしてまた偶然にも雁の巣飛行場に二式戦闘機が一機だけ残っていた。そこで司令部は、牧少尉に単機特攻を命じるのである、その直前、振武寮にいっしょに収容されていたI少尉が彼に次のような計画を持ちかける。それは出撃したら目標は沖縄ではなく、この第6軍司令部にしてくれ。おれが何とか幕僚たちを一箇所に集めておくからそこにつっこんでほしいというのである。理不尽な扱いをつづけた高級将校たちへの復讐だったのだろう。

 しかし何という心情であろうか。I少尉のその時の思いを考えるととりはだがたつような気になる。そして牧少尉も正直動揺したようだ。だがしかしこの計画は直前で中止になる。・・・牧中尉の特攻出撃自体が中止されたのである。もし実行されていたら・・・・・中止の原因はよくわからないが、一説には二式戦闘機「しょうき」は防空戦闘機で航続距離は沖縄まで飛べなかったからだというものがある。なんとずさんな話かと思ったのだが、その時第六軍の作戦幕僚であった高級将校たちのなかでパイロットあがりはひとりだけだったという事だから、案外そうなのかもしれない。 歴史に「もしも」を求めてもせんないことであるが、なんともなまなましい話ではないだろうか。これは劇になる・・・・・と思ったがいまだに書いていない。 

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