「俳句が、極端に字数を少なくして無駄を省いた究極の定型詩であるのに比べ、朝鮮の時調は字句に余裕を持たせた含みのある定型詩である。時調の定型は三章六句。音数率は三四、四四調。字数はおよそ45文字である。およそというのは、その前後であれば許されるということだ。俳句のような、季語、切字といった制約もない。」とある。
時調の定型の中味を見ると、そういうことらしい。面白いのは、俳句が5、7、5に対し、時調は3、4あるいは4、4の調べで続くということ。これは日本語とハングルの構造の違いなんだろうね。面白い、実に。
褌子氏がいつか、金子兜太が漢詩に俳句の源があるといっていると紹介してくれたけど、どういう内容だったかな。
褌子氏の仁句評は、これまでの当欄の「伝統」に一石を投ずるもので、びっくりした。その後の腰砕けが褌子氏らしいが。いろいろありで、これもいいんじゃないの。ついでに言えば、自作も発表してね。
ちょっと時期が遡るけれど、拙作も行ってみよう。その調子で捌いてほしい。
・カルピスを飲む間も噴水砕けをり
・涼しとも秋涼しとも青畳
・天窓は小さし秋の書道展
・江戸絵図を腹這ひで見る夜長かな
・指一本で足りる炊飯九月尽
・剣山の床に転がる寒露かな
・去ぬ燕紺碧一色しか見えず
・穭田や遠き電車の音乾き
・焼芋の声の夜更けて木挽町
・もう降りる駅に来てをり冬茜
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