朝烏 ふりかえりみれば 茜富士・・・・・ 朝が寒くなって、布団の温かみがなんとも気持ちいい季節になりました。 さて、褌子氏の猫跨ぎ句の批評と、お師匠の後説、読んでいておもわず笑った・・・・ゴメン。 で、古い江戸都都逸を思い出した。 ~ 四国西国島々までも 都都逸ぁ恋路の 橋渡し~なんぞという粋なセリフがあるが、似たようなので~ 露は尾花と寝たという 尾花は露と寝ぬという ~なんぞという、なんとも色っぽいのがある。思い出したのはこのセリフだ。ツバメの句や指一本の炊飯の句のやりとりは、なんともおかしい。これは、たくまずしてにじみだした褌子氏のユーモア性であろう。本人は自覚していないだろうが・・・ 角度を変えていえば、褌子氏に江戸っ子町人のイメージを感じるのである。 いやこれは褒めているんだよ・・・・・
さて、夕べは谷川俊太郎の対談形式の講演会があって聴きにいってきた。なかなか面白かったが、老境にはいっての感想を問われて、言下に「楽です。ものすごく楽ですよ」と断言したのは面白かった。彼のイメージでは、人生は一般にいわれるような山形の曲線ではなくて、同心円の年輪のイメージだというのである。 つまりいくつになってもその一番の中心には幼児のころの自分がいるのを感じるというのだ。詩人というのはそうなんだろうなあ。
で、大変印象的だったのが、最近の自分についてかたった中で、「detachment」という言葉を何回か使ったことである。 これは対象にぴったりくっつくのではなく、ちょっと離れてみるというようなイメージだろう。そのほうが物事は大変よく見えてくるというのだ。彼はマザコンで女性崇拝論者だということを、自分の生い立ちからかたっていたが、その彼がまだ若いころ、朝倉摂といっしょに仕事をしたことがあり、そこで「人間の最小単位は何か」という議論をしたそうだ。 朝倉摂(有名な舞台美術家だが、谷川の言によれば、ちとひだりがかっていたので、)は、「それは個人だ」と主張したのだそうだが、それに対して谷川は「それは夫婦(男女のペア)だ」と答えたという。しかし、老境にはいった谷川としては、「今は朝倉さんの気持ちにちかい」という。このことにかかわって出てきたのが「detachment」である。
そうだろうなあと思う。 「恋は盲目」とか「忘我の境地。我を忘れる」というのは、強い生のエネルギーを感じさせるが、それはdetachmentとは正反対の状態だろう。
それは対象から離れて、高みに向かいながら世界全体に視野を広げることにつながる。 そして同時にそれは強い孤独の精神でもある。 まあそうだろうなあ。人は結局は死ぬときはひとりなんだから。・・・・
detachmentである。うむ、おいらももっとこれでいこう・・・ そう考えてみると、30年以上もいっしょに暮してきた、おいらの横にいるあの女性なんかも、いまだによくわからんし、逆にいえば、そう簡単には踏み込ませないおいらだけの心の小部屋というか離れがあるのも感じる。まあそんなもんだろう。・・・・ン?何の話だっけ・・・??・・・・ ここのところ奥さんには読ませられない・・・・
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