アメリカ医薬品食品局FDAにフランシスケルシーという女性の審査官がいた。彼女はアメリカでのサリドマイドの販売について催奇性に疑問を持ち、医薬品業界の猛烈な圧力に抵抗して許可をださなかったために、アメリカでは被害はほとんど出なかった。全世界の被害者は6000人におよんだのにである。のちに彼女の行動はケネディ大統領が表彰する。これは有名な事件である。一方で日本の話。京大の原子炉実験所実験所の小出氏は優秀な研究者として国家公務員として原子炉の研究にたずさわりながらずっと原発反対の運動にたずさわってきたので、そのために冷遇されてとうとう退職まで助手のままでおわる。あるいは高木仁三郎の原子力資料情報室は有名である。彼は東大の核化学の専門家でありながら、独立した運動を求めて原子力資料情報室をつくり最後まで専門家として脱原発を主張してがんでたおれた。2000年に彼の訃報を聞いたときに、ああこれは戦死だと思ったのを今でもおぼえている。
いささかお師匠の意見に異議をとなえたい。原発推進派が資本の利潤にめがくらんでなどという、そういう単純な話は100年くらい前ならいざしらず、現代であはありえないと思う。そういうことではなくて、科学技術の現場での多様な選択と決定の段階において、資本の利潤原則が技術者の思考過程に微妙で(巧妙でといってもいい)複雑な影響をおよぼし、もっとも適切な判断をゆがめる可能性はないかということなのである。たとえばコストと安全性の維持ということが対立したとき、ある点でコストを優先し、その結果として安全性がなおざりにされてしまったとしたら、これはわかりやすい例だろう。今回の福島原発でも、そういう例が次々に出てきているようにみえる。そういう意味で、資本主義経済は下部構造として技術者の思想を支配していなかったのか。
それにもうひとつ。浜岡原発でも、堤防をつくる話が進んでいる。しかし今回の東北地震の津波では、どこだったか港の入口の数千トンのコンクリートケーソンをならべた堤防が吹っ飛んでいる。堤防なんかまことにあやうい。さらに、最初12メートルといった浜岡原発の堤防は、その後の住民や自治体の顔色をみて15メートルにかさあげされた。ばかばかしくて涙もでない。このプロセスは科学でもなんでもない。そこまでして原発動かしたいのだろうなあ。儲かるんだろうなと考えてしまう。
技術的解がひとつではないとき、安全よりコスト、つまりは利潤優先という行動をとる技術者は決してすくなくない。そしてその結果おきてしまったことはとりかえしがつかない。つまり日本の原発技術はついにひとりのフランシスケルシーをうまなかったのである。 ここまでさかのぼって考えないと日本の科学技術が原子力をとりあつかう資格はないだろうと思う。
中国のことはまだ判断がつかない。あの国は肥溜めみたいで、汚いものはなんでもある。だがその中に時々まれに金の粒がまざっていたりする。そういう感想を上海の経済界で活動している教え子がいっていたのを思い出す。ただ、日本が脱原発で代替えエネルギーの技術開発に全力を投入して、膨大な成果を上げ得たとしたら、中国もだまってみていることはできなくなるのではないかというほのかな感想もある。それは我々が死んだあとのことだろうが。
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