2011年4月24日日曜日

どうしていくか・・・・逸徳

先日9条の会の事務局会議で、浜岡原発について議論になった。静岡でも多くの市民団体が反対運動をおこしているし、中電も今のところは低姿勢だ。もちろん原発の危険性についてはみんな感じていることであり、そこから今回の状況を踏まえて即時停止を要求することは当然であろう。だが、なにか変な感じというか、違和感を感じる。剣道でいうと相手はすきを見せているのだが、どこかうちこむところがちがい、たとえば絶対たたかれても平気な面に向かって「おめーんおめーんっ」と打ち込んでいるような感じだ。これは実はホントは相手にそんなに打撃を与えていない。 むだなところにパワーを集中している感じがする。

今までの戦後史を見ると、市民運動がかぎになって本質的な変化を果たした例は実はすくないと思う。おいらの意見では、60年安保と30年代にあった沼津三島の石油化学コンビナート反対闘争ぐらいではないか。もちろん他の運動を否定するつもりでいっているのではなく、その他のケースでは市民運動は広範な変化の一局面を担ったにすぎないのではないか。したがって、デモをくりかえし、署名簿の山を積み上げても電力会社はあまり痛くはないのではないか。電気事業法によればかれらは絶対赤字にならない会社なのだから。そこでこういうことがおこる。
  ・・・・危険だから停止しろ・・・いや想定される事故には何重もの対策をとった・・・・その想定が今回否定されたのではないか・・・・だからより厳しい想定に対応する対策に改善する・・・絶対大丈夫だ。・・・そのより厳しい想定が正しいのか・・・・それに対しての対応が科学技術として可能なのか・・・・いや可能だ。・・・不可能だろう・・・・ワーワーワー。 
 つまり、危険か安全かということは一種の神学論争に陥ることになりかねない。 そして推進派の専門家に立ち向かうのは基本的に一般市民である。推進派と反対派の専門家の論争に市民がアンパイヤーとして立ち会い、どちらかの意見をとりあげるという政策決定のプロセスはまだ日本ではやられたことがない。そしてたとえこの形が行われたとしても、市民として登場するのは、まず国会だろう。しかし、いうまでもなく国会が地元市民の生存の権利を尊重する機能はない。それは現状でまったく自明のことである。

科学哲学の世界にカールポパーというひとがいる。彼は、ある仮説が「科学」であるためにはそれに対して反証する可能性があるかどうかということを指摘している。この先はよくわからんので、はしょっていうと「ある科学的言説には、それが科学であるというのならば、それに対して反証する可能性があるかどうかだ」ということだろう。たとえば神はいるという言説を反証して神はいないということを示すことは論理的にできない。反証可能性がないのである。したがって神はいるという言説は科学ではない。宗教の世界の話だというのである。ある科学的言説には、それが科学であるかぎり(反証可能性ということから)反対の言説も成り立ちえる。おいらはこのことからすぐに原発の安全論争を連想した。 つまり、原発は安全か危険かという議論ははてしない論争のうずにまきこまれる可能性が本質的に存在するのである。

現在の問題はそこにあるのではない。考えてみるとあらゆる科学技術には危険性が付きまとう。つまりメリットとデメリットがある。たとえば自動車という技術は輸送手段としてのメリットとともに必ず交通事故や環境汚染などのデメリットをともなう。しかしわれわれの社会は、といよりわれわれの現代文明はそのメリットとデメリットを天秤にかけて、デメリットがあることを承知しながら、自動車という技術を社会的に許容したのである。 そしてこのような、ある技術が社会的に許容されるべきかどうかを決定するプロセスというものは、実はすぐれて政治的問題なのであり、専門家と称するやからの独占物であってはならない。
 そしてこのような問題のたてかたをするときに、はじめて原発は「政治問題」になりえて、市民の手にもどされてくるのだろうとおもう。今必要なことは、可能な限り市民が科学で武装すること。もっと勉強しなくてはならない。そして専門家に要求して、デメリットの可能性とその評価のプロセスをはっきりと説明させていくことであろう。そして、これを市民の側がきちんととらえる力がないと、原発推進派の「原発のメリット宣伝」にたやすくながされてしまう危険性がある。そのようなことをとうさないと、「メリットとデメリットを天秤にかけてどっちをとるのか」という問題が市民の参加による政治問題にはならないだろう。このプロセスを専門家の手から市民はとりもどすべきである。われわれは専門家に命をあずけるわけにはいかないのである。

 もうひとつ、デメリットという言い方は注意を要する。それは原発の危険性や放射能の世代を超えた深刻な危険の可能性というだけではない。たとえば代替エネルギーの開発の可能性や省エネ型の社会経済システム構築の可能性にもかかわる。そしてそれらは、その技術を評価する科学者の思想性がからんでくる。たとえば風力発電なんて不安定でつかいものにならんという評価はデメリットになるが、原発に依存しないということでメリットでもある。つまり我々にとってのメリットとかデメリットということはけっこうむつかしいのである。だから、これらの言説にかかわる科学者たちがどういう立ち位置でしゃべっているのかということは厳しく監視していかなくてはならないと思う。





 

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