市民とは何か。市民にも原発反対派もいれば容認派もいる。昨日まで容認派だったのが、今日、おっかないのはいやだ、取りあえず反対派に宗旨変えだというのが多い。原発推進論者を悪魔の手先のようにいう向きがあるが、資本主義的利潤に目がくらんでいるという理屈に私は説得されない。彼等にも彼等の信念がある。
「週刊金曜日」に佐高信がこれまで原発容認の有名人を実名入りでそら見たことかと叩きまくっていた。新手の人民裁判だ。こういう白黒に識別し、丸叩きは大嫌いだ。多くは中間色なんだ。
福島第一原発の北の石巻近くに女川原発があって、ここは安定停止を実現した。福島第一と何が違ったのか。等しく震度6強の激震に襲われたのにである。色々細かな議論はあろうが、結論を大雑把に言えば、防波堤のてっぺんまでの高さが女川は14mあり、福島は10mしかなかった。この差につきるのではないか。ならば、「たしかに想定は間違っておりました。今後原発は20mの防波堤に致します。如何でしょうか」という提案にはどうか。原発はとにかく駄目なんだ、想定の対象じゃないんだという駄々をこねるのも今は通用するが、時が経てばどうか。まあしゃあないなという意見も出て来るのではないか。
日本国内は、原発はやめたとしよう。しかしこの問題は地球規模で考えねばならない。中国は今後必ず大規模な原発推進に打ってでる。彼等にとってエネルギー問題が喫緊の課題だからだ。独裁国家は反対論を許さない。必ず隣りに原発は林立する。日本は止めましたではすまない。
私は原発はやめるという立場だ。その論拠はこの前述べた。そこまで遡らないと、私の中では拠り所がない。
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