2014年2月28日金曜日

函館通信229・・・寒・・・仁兵衛

猫跨ぎ氏句鑑賞
 首都圏も一月二月と寒かったんだね。寒北斗、寒牡丹、寒九、寒夜、と寒のイメージが続いている。
 印象に残ったのは「チェロケースの赤き内張寒北斗」内張りの赤の上に輝く北斗が宮沢賢治の世界だ。
 逆に侘びしさの強調が頂点に達している「くたくたの竹輪麩残る寒夜かな」だ。竹輪麩の残ったなべ底が尚侘びしい。
 後は「半眼のオランウータン春愁」ここでやっぱり春を感じさせて貰えたな。
 以上三点が特選です。
 残り気になったのが「冬の川己がゆくへを忘じをり 」で下五はどう読むのですか。「ぼうじをり」


2014年2月27日木曜日

九十九里・・・猫跨ぎ

  そうね、九十九里浜へ行くなら、外房線の大網で降りて車で20分くらいかね。茫漠たる風景が果てしなく続く。ただし、何もない。かくいう私も一、二度行ったきり。
但し車がないと駄目だね。外房線をさらに先へ行って、勝浦とか安房小湊あたりで下車、鯛の刺身、金目鯛の煮付けあたりで一献やれば、応えられない、らしい。30年以上前、海水浴に行ったきり。

春をたずねて・・・逸徳

参加します  仁ちゃんが来てくれるのがうれしい  で、お師匠の作品を前にもうしわけないのだが、実はおいら千葉方面あんまりいっていないので今度の会が終わったら、のんびりと春を訪ねて外房線にのり、房総に行ってみようと考えた。 で、よく考えたら九十九里というながい浜があるということくらいかしらん。ホントに知らんのだ。で、みなさんのお知恵拝借。外房だったら見どころ(くいどころ のみどころもええ)どこかね。 教えてくださいな

で、投稿してから気が付いた。 お師匠の「参加しない?」 のコメントは別の意味かも。 おいらは上野の話かと。 勘違いなら失礼。ワスレテクダサイ

二月投句・・・猫跨ぎ

二月ももう月末。まったく加速度がついている。遅れぬよう二月投句。
褌子氏、逸徳氏 参加しない?
ところで、最近は芭蕉の連句集を持って、外出する。30分、一時間はあっという間に経つ。
実に面白い。勿論、何人かで実際にやるのが最高。
そう言う場が、いつか出来ればいいがね。単独で詠むだけでは、本来片手落ちなんだよね。

百万の部品の唸り初飛行
チェロケースの赤き内張寒北斗
人声にすこし離れて寒牡丹
酔ひ醒めの水沁みわたる寒九かな
冬の川己がゆくへを忘じをり
くたくたの竹輪麩残る寒夜かな
餅溶けるごとく一月過ぎにけり
抽斗に一月の闇古神籤
半眼のオランウータン春愁
鳴き声も遺伝のひとつ恋の猫

2014年2月26日水曜日

鄭和・・・猫跨ぎ

  鄭和の艦隊の東南アジア、インド南岸、西アジア、アフリカへの大航海は有名だね。イスラム教徒で碧眼の人だったらしい。目的は明の国威宣揚、官業貿易とある。このころ盛んに行き来していたらしい。中国は何故その後、これを止めたのだろう。西欧の大航海時代に、中国艦隊と遭遇したとはあまり聞かない。
  しかし思うに南シナ海でフィリピン、ベトナムを蹴散らしているのは、この頃の実績を踏まえているのかも知れない。アフリカ進出もその一環か。また尖閣が古来中国のものという鼻息の荒さもこういう時代の記憶に基づく失地回復意識の一環なのだろう。
  日本軍のシンガポール侵攻後、華僑を相当に酷く弾圧、迫害したのは、従来我々はあまり知らされていない。遠藤周作が敗戦後間もなく船でフランスへ留学したとき、この辺に寄港する度に船倉に隠れていたらしい。それ程、対日感情は悪かった。今は、それはなくなったように思える。というか歴史的事実に転移したというべきか。日本の総理大臣の靖国参拝にも格別の反応は無い。 ベトナム、マレーシア、シンガポール、インドネシアとの関係は良好だ。千年怨みは消えぬという韓国の異様な反日が殊更目立つ。

2014年2月23日日曜日

マラッカ・・・   褌子

夕べは酔っていたので真面目に書き直します。
仁ちゃんの投句につづき九州の熊さんや小蔵ひでをさんが投稿jし、また盛り上がってきましたね。
私はマレーシアに来て四日目です。クアラルンプールは30数度で閉口しましたが、きょう車で訪問したマラッカはマラッカ海峡に面しているせいか、それほど暑くありません。
ポルトガル人がマラッカに現れたのは1511年、そのときにポルトガル軍が築いた要塞が残っています。その丘の上から見下ろすと遙かかなたのマラッカ海峡を行き来する巨船が何艘もみえました。鹿児島出身の「やじろう」がマラッカで出会ったフランシスコ・ザビエルに心酔し、ザビエルを連れて日本に帰り島津の殿様に紹介したという祈念碑もカトリック教会の庭にありました。
ポルトガルは新興勢力のオランダに追い払われ、そのオランダもイギリスにマレー半島を奪われ、イギリスの長い植民地支配が続きますが、1941年12月8日にマレー半島を攻略した日本軍にイギリス軍は降伏。1945年8月15日まで日本軍統治時代を迎えるのですが、中国の国民党軍を応援している華僑の逮捕殺戮をはじめます。クアラルンプールでもマラッカでも華僑殉難碑を訪問することができました。
鄭和は明の永楽帝朝の宦官。イスラム教徒。大船隊を率いて1405~33年の間に前後7回南洋・インド洋方面に遠征。通商貿易に貢献。三保太監または三宝太監と称された。(1371~1434頃)
上記の二行は広辞苑からの引用ですが、ポルトガル人がマラッカに現れる百年も前に鄭和が率いる大船隊がマラッカに寄港しています。鄭和のマラッカ寄港690周年の年だそうで大きな商船の模型が飾られています。私も道教式の鄭和廟に詣りました。
コロンブスの新大陸発見よりも早くに中国人の大船隊がアフリカ東岸にまで達していたのです。
マラッカはモンスーン気候で西風が吹くときにヨーロッパからの商船隊が寄港し、東風がふけば商船隊は日本の漆器や中国大陸の陶器、絹織物、さらにインドシナの胡椒やシナモンなどを満載してマラッカに寄港したのです。
眠くなったのでおやすみなさい。

2014年2月22日土曜日

ひでをメロディ・・・猫跨ぎ

  ひでを氏は作曲活動をずっと続けて来たわけね。youtubeを見せてもらいました。ひでをメロディというのが何となく出来てるね。以前の曲を思い出しても、曲想がなんとなく一貫している。しかし歌詞がいささか平板のような気がするが。もっとパンチがあっても良いように思うけれど。なるほどyoutubeは身近にあるんだね。

 浅田真央という子は、何か持って生まれたようだなあ。多分、日本で好感度No1の人物かも知れない。今度の一件で、さらにメダルに相当、それ以上の印象を与えた。
  それに比して、いっそうのヒール役を演じることになったのが森喜朗か。この人物くらい人気の湧かぬ政治家はいない。かわい気がまずない。政治家としてひらめきのない凡庸な人物だった。何かもめ事があると、まあまあと中に割って入り、いつの間にかまとめ役になって、いつの間にか出世していった人物。想像力が貧困で発想が凡庸だから、本人は何かマシな事を言おうとしても、面白くないし、今回のような下品な表現になる。第一、もう過去の人物だろう。これを潮に引っ込むんだね。

2014年2月20日木曜日

またまたお久し振り登場    ひでを

 熊さん、お忙しいようで何よりです。本格的な合唱団ですね。
 女房が入っている女声合唱団は、おばさんばかりですが結構良い線いっています。その合唱団の一部メンバーにお願いして、私の作った曲、題して「ビューティフル ウインドウズ あだち」を吹き込んでもらいました。全くのテスト盤ですが、CDができたら区に寄贈しようと思っています。
 ところで、最新作の曲ができました。私の小学生低学年のころ、夢中になって読み、精神発達に少なからず影響のあった2作品を基に詞を作りました。2作品とは、「少年ケニヤ」と「鉄腕アトム」です。詞のタイトルは「二つの物語(ストーリー)」です。私の場合、作曲といってもメロディだけです。でもそれは万能細胞(?)みたいなもので、オーソドックスなものから、演歌調にまで、なんにでも変化できます。てなわけで、熊さんの合唱団で、息抜き用の軽い曲にいかがかなと思いました。興味があったら連絡ください。歌詞と楽譜を送ります。
 もうひとつ、私の友人が、U-チューブに私が作曲した「お大師様」という曲をアップしました。インターネットで「お大師様 扇」で検索すると曲が聞けます。聞いてみてやってください。
 最後に、”仁”句の一番、錆釘の履歴書ですが、春を告げる小魚の釘煮(錆釘を入れて作った煮物)が春告げ鳥のように毎年この時期に賞味できることを言ったのではと思いました。(もちろん春告げ鳥は賞味しませんが)。

2014年2月17日月曜日

二月度仁句鑑賞・・・猫跨ぎ

  昨日は映画を観た直後で、印象が消えないうちに書き留めておいた。邦画もいろいろ面白いのがかかるようになったね。映画人気復活かな。オリンピックはダイジェスト版を珠には見ているよ。浅田真央がどうなるかだね。数分の演技に何年も賭けるわけだから 数奇な運命の人生だな。

��.錆釘の履歴書通り寒明ける
判りません。
��.海渡る姉の嫉妬や梅便り
個人的なことではないと思うが。韓国が姉で、日本が弟か。嫉妬している?まさかね。
��.春泥や後継者なき装蹄師
競走馬の蹄鉄を打つ人。後継不足は何処も同じ風景か。春の厩舎の風景。
��.秘密ごと明かされぬまま余寒かな
判りません。
��.立春や縁起担ぎの踏切板
ジャンプの踏切板か。高梨沙羅。まあ15歳(?)で世界の頂点を極めたら、これからどうするのか。完全に目標喪失だ。これでよかったんじゃないの。でもこの子、インタビューは見事だね。十代の方がしっかりしている。
��.妖精のキャンドルスピン蕗の薹
キャンドルスピンは女子フィギュアの足を真上に上げてスピンする技。ロシアに伏兵が出て来たらしいね。
��.建国祭パチンとがま口閉じにけり
建国記念の日。この祝祭日くらい、俳句でもみくちゃにされる季語はないね。殆どは、ひと言物申すという感じ。がま口パチンか。何かを拒否しているんだね。
��.春の雪慌てふためく都市鴉
小動物は、こんな時は、すぐ危機に陥る。呑気にしているようで彼等も必死だ。
��.さまし湯を急須にそそぎしずり雪
温和な日常風景か。良いお茶はこういう淹れかた。
10.屋上のヘリポート発つ水の春
屋上にヘリの基地があるのかな。小川が雪解け水を集めて、水音を立てている。豊かな気分になるね。

2014年2月16日日曜日

「永遠の0」鑑賞記・・・猫跨ぎ

  熊さん、久し振りだね。ちょっと仁句鑑賞記は後回しにして、映画の話。観客動員が記録的という「永遠の0(ゼロ)」を見てきた。特攻隊の映画。いま世情を騒がせている百田尚樹原作だ。いやはや。 映画では特攻を別に美化していないし、軍のコチコチ頭や特攻作戦の愚劣さに主人公が懊悩する筋書き。トッコウ、ヤスクニと聞くだけで頭に血がのぼる体質の「文化人」はまあ、ぼろんちょに評しているらしい。私のように特段の思考癖に罹っていない市井の庶民(笑)からすれば、何を騒いでおるのかという感じ。
  ただなあ、最後がねえ。無駄死にするな、生きよと部下にいい、臆病者と評判の主人公が、最後、特攻に志願して、突っ込むことになる。この頃になると、グラマンは零戦の機能を凌駕し、艦船の迎撃も整備されて、零戦はバタバタ打ち落とされに行くようなものだ。名うての操縦技術をもつ主人公は、敵艦に接近、被弾するも、狙い定め敵艦に急降下。彼の顔が大写しになって、突如、フィナーレ。笑みを洩らすんだなあ。ぞっとしたよ。
アメリカ大使館は勿論この映画を観ている。百田という人物を調べているだろう。田母神の一件も知っている。日本の動向を見ている。匕首に見えたんでないか。ぞっとした、かな。

なんとなく書きたくなった   九州のくま

猫爺さんと逸徳氏そしてときどき褌子氏が絡んだやりとりは滑稽だね。大真面目に議論しているようでときどきお互いに茶化して・・。結局何が主要論点で結論は??? 最後は互いに痛み分け・・。 そうか、なんでもいいから議論することに意味があるのかな。途中でどうでもいいのでは、と感じてしまう場面が多い。なんとなく読み取れるのは強い肩入れをもっている2氏と、是は是、非は非、で肩入れに容易には同調しない約一名の他愛のない対決、という図式のような。暦年に引き込まれず若さを保つ秘訣なんでしょうねぇ。間に入って発言しようとするけどテンポが早すぎて機を逸する。残念なり! あ、そうそう、即刻か段階的にかはともかく原発反対の立場だけは表明しておきます。原発ゼロにいたる行程表作成に早急に取り組んでほしい。ほかにいろいろ考えるけどまた別の機会に。

今年8月にまた合唱のイベントが計画されていていまその練習に四苦八苦。3月に入ったらすぐにウィーンへ。少年合唱団と市民合唱団のコラボだ。山歩きも月7~10回になると日程調整だけでこちらも四苦八苦。忙しいとは思わないけど時間には追われている。これが私にとってのアンチエイジング、キープヤングの極意。体調もよく毎日が楽しいばかり。5月くらいまで冬籠りという仁ちゃん、すみませんね。こちらは適当に温暖。有害微粒子も今のところ福岡あたりまででこのあたりは大騒ぎするほどではない。自分に被害が及ばなければだんまりを決め込むノンポリ市民を演じております。いろんな場面で中国の挙動には腹立たしい気分にはなるけど・・。

かみさんが、はよ風呂に入れと言っている。遊んでばかりで発言力が弱いので言われた通りにしないとめしがあたらない。くわばらくわばら・・・。今晩はこれにて。

函館通信228・・・寒冷化?・・・仁兵衛

地球の寒冷化だって!冗談じゃないただ寒いだけじゃよ。
それでも真冬日からだんだん解放されつつあるよ。桜の5月初めまで2カ月以上我慢の子だね。
猫跨ぎさんには悪いけど寒い所に居ると五輪で騒いで寒いのを忘れさせてくれるのも有難いものだよ。
取り敢えず今月の十句やっと作ったので出します。

��.錆釘の履歴書通り寒明ける
��.海渡る姉の嫉妬や梅便り
��.春泥や後継者なき装蹄師
��.秘密ごと明かされぬまま余寒かな
��.立春や縁起担ぎの踏切板
��.妖精のキャンドルスピン蕗の薹
��.建国祭パチンとがま口閉じにけり
��.春の雪慌てふためく都市鴉
��.さまし湯を急須にそそぎしずり雪
10.屋上のヘリポート発つ水の春

2014年2月15日土曜日

温暖化と大雪・・・  褌子

なんと甲府などで140年ぶりの大雪だそうです。
地球温暖化のはずだったが。地球温暖化で北極海を冬期にフタしていた分厚い氷が融けたために、北極の冷水が巨大な寒波をつくって、かつてなく北太平洋を冷え込ませているという。ふーんそうなんだ。
ところで地球は4億年周期で長期の寒冷期を迎えることになっている。銀河系の渦巻きのなかから卍型に伸びている星雲が密集する巨大な腕の中を、太陽系が四億年ごとに通過するため。密集する星雲のなかでは超新星爆発で飛び散る宇宙線が地球にふりそそぐ確率が格段に大きくなる。この宇宙線が地球をとりまく分厚い雲をつくり、数百万年にわたって太陽光が遮蔽されるから地球は寒冷化する。これがいわゆる全球凍結。もっとも密集する星雲のなかといっても星と星の距離は数光年以上。地球がよその星にぶつかる可能性は皆無。それより地球に引き寄せられる隕石のほうがはるかに怖い。去年、ロシアに隕石が降ってきた騒ぎがあったが、もともと地球は45億年もかけて降り注いだ隕石からなり立っているようなもの。

2014年2月13日木曜日

脱脂粉乳・・・ 褌子

樋口先生記憶にあります。「菊と刀」でなく「梅干しと日本刀」でしたか。
とにかく日本人がチビで胴長なのは白米と梅干しのせいだといわれ、コッペパンで米軍放出の脱脂粉乳飲みました。そしたらこんなカモシカみたいな美脚になりました。

梅干博士がいた・・・猫跨ぎ

梅干を馬鹿にしちゃいけません。樋口清之って、國學院の歴史学者がいたなあ。「梅干と日本刀」というベストセラーがあった。「日の丸弁当は超合理的な食品、地震でも城の石垣が崩れない秘密、江戸は世界一美しい都市だった…。日本人が誇る豊かな知恵の数々。真の日本史がここにある」てなふれこみ。懐かしい。この人、そのあと続々と出る、日本再発見の先駆けだったかな。沢庵、梅干、白米の大食という日本の食生活が散々馬鹿にされたあとの、一つの反作用か。和食世界遺産の先駆けだったかも。






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登録情報

梅干しで戦った   褌子

梅干しだからアメリカに負けた。一億総特攻、子供たちもB29に梅干し投げろと命令された。B29が酸っぱい梅干しで腐食がすすむから。

2014年2月12日水曜日

朝食考・・・猫跨ぎ

あのさ、食生活を全部開陳するなら、話は別。サーロインステーキなら一昨日食べたばかり。和牛なんかじゃなくて、アメリカ牛で充分。500円で良いのが買える。フライパンで充分美味しく焼ける。
基本的には、日々、魚、肉を交互に食すこと、あとは野菜を切らさないことだね。白粥に梅干しは、もし粥ならということで、普段は食べないね。ちなみに私の朝食は年中同じ。御飯、味噌汁、納豆(オクラを刻んで混ぜる)、自家製浅漬け(胡瓜、蕪、キャベツ)、ベーコンエッグ、野菜サラダ(レタス、パプリカ、トマト)、牛乳。後片付けは皆さんはどうかな。それを含めるのならOK。

だめだこりゃ・・・・逸徳

褌子さん そういうおやじギャグをいいながら ただかみしめるだけというのは生来の不精、めんどくさがりやだ。 だめだこりゃ。 おいおい死に際に寝込んで、奥方に迷惑をかけんようにな。 お師匠の、白がゆに梅干しというのもいただけない。 その淡白さがアメリカに日本がまけた理由ではないかな。梅干しでは、世の中は変わらんのだ。 血のしたたるようなステーキを食いたまへ。

朝粥考・・・猫跨ぎ

そうね、どう読んでも昨日の仕舞湯を温めて粥を作ると読めてしまう。まあ、好意的に解釈して湯煎に使うとか。奇怪だなと思いつつ、食後の朝風呂だと判って、ようやく安心。
朝粥に色々入れるんだね。私は何も入れない真っ白な粥に、梅干し、塩昆布、卵のそぼろ、刻んだ古漬け、なんかを1、2品あればいいね。そう、小振りの目刺し二本付けてもらうか。高雅な性格そのままに。

あさがゆ・・・・ 褌子

逸徳さん
昨夜の風呂の残り湯を追い炊きして、その湯で朝粥をつくるのですか。
逸徳さんの逸物のダシがいいぐあいにでて美味しそうですが、奥様がめしあがらない訳がわかります。
わたしは齢70さいにして新発見、食事によく噛むことにした。そしたら実においしさが二倍になった。口中調味というのか知らん。

食い物の話・・・逸徳

食べるという行為を軽視してはいけない、あれは一種の文化的儀式ではないかという気がする。 それを軽視すると単なるガソリンの補給、あるいはエサを食べているけものになってしまう。というわけで、レシピをひとつ
 我が家では朝おきるのはおいらが一番はやい。 まず、昨夜の風呂の残り湯を10分くらい追い焚きしておいて、朝のおかゆをつくる。家人はかゆはきらいなので、おいらの分だけである。昔あるところで食べた中華粥がうまかったので、おかゆの「究極のレシピ」を追求してみた。今もさまざまに研究試行錯誤中である。で、現在の到達点。 まずサツマイモ。これはほんのすこしで、1㎝角強ぐらいにしていれてやる。この甘味がなんともいえずうまい。いつも芥川龍之介の「芋粥」を思い出している。さらにしいたけである。これは細かく刻んで、パックにいれて冷凍保存したのをつかう。いい味をだす。これも一握り強。これの二つを平鍋にいれ水は400mlくらいかな。そこに残りごはんをいれるが、茶わんで半分。問題はだしである。いまのところ、いろいろ実験したが、アジノモトの中華味という粉末調味料がいいという結論に達した。これをスプーン小で2はい。で、隠し味としてアジノモトをさっさとふりかける程度。ごはんが十分に煮えたら、最後に溶き卵か、納豆1パックをいれる。これはすきずきだが、いがいと納豆がうまい。味噌汁の実に納豆が使われるというのもむべなるかな。最後に刻み葱(おいらは刻んだやつをタッパーにいれて冷凍してある)をふりかけて、さっとにたてる。 で、その次が問題。 牛乳をいれる。量はお玉杓子に2はい弱。牛乳は、どんなものでも味をマイルドにしてしまう。たとえば、しょっぱすぎたりしたら奇跡的な効果を出す。科学的にも要研究。そういえばラーメンに牛乳をいれるのがあったなあ。不思議な効果で、クリームスープみたいになる。おためしを。このおかゆができたところで朝風呂にはいる。末梢血管がひらいて、まっこと快調。運動とおんなじ効果があるのではないかな。

 最近作って感動的なの。「忍び豆腐」。これがうまい。感動的にうまい。このうまさをぜんこくにひろげる忍び豆腐普及協会をつくりたい。 土鍋をつかう。 一人前用の100均にあるやつでいい。 つゆは市販の濃縮のつゆの元でいい。7倍希釈ぐらいで、うどんのつゆぐらいの薄味。ここにやや大きめにきった豆腐をいれて煮立てる。煮立ったところに片栗粉大匙1を水大匙2にといたものを流し込んでとろみをつける。つまりあんかけ豆腐になる。 そこに、あらかじめすり下ろしてあった山芋(1人前5~7センチもあればいい。) をすりおろし、卵をひとついれてといたものをながしこむ。弱火で火が通るまで煮る。上から刻み葱をふってさっと煮たてたら完成。ネギはたっぷり。 ゆずこしょうがあう。 これ、豆腐の上に山芋をながしてあるので、豆腐のありかがわからないから、忍び豆腐というらしい。 江戸時代からのレシピだという。 酒は熱燗でしょ やっぱり。 だまされたとおもってやってみい。あったまるぜ。
 料理にこるのは、認知症予防にはいいそうである。 うう、午前中というのに飲みたくなってきた。

2014年2月11日火曜日

都知事選私見・・・猫跨ぎ

  結局、何を言いたいの。宇都宮、細川と割れてしまった運動を統合して、反安倍政権へ一本化しようとする試みか。抜け目なく布石を打つね。自共時代の到来か。
  今回の登場人物を改めてみると、大衆の気まぐれの残滓を見るような気がするね。
細川。自民の長期政権の終焉ということで、鳴り物入りで支持率80%を越えた。佐川問題の何とかで政権を放りだした人物だろう。むなしいね。小泉。小泉劇場。郵政解散選挙ではこれも支持率80%を越えた。あの騒ぎは何だったのか。それから独自候補も出せぬ民主党は四分五裂で溶解状態。あの怒濤の勢いは何だったのか。まことに流砂のごとき大衆の気まぐれだ。選挙制度とかの問題じゃない。愚民政治の帰結だ。(おっと、暴言か)

  そして舛添。この人物、油断ならん顔しているね。大衆迎合の出世主義。どうも基本的に品性の劣るところがあると前から思っている。女癖も悪そうだ。こんなのしかいないのか。人物が払底しているね。というか、選挙民相応の政治家しかおらんと言うことか。  そうだ。田母神が60万票もとった。20代の得票数が宇都宮、細川より上だったという。これこそ今回の注目結果じゃないか。何だか変な地殻変動が起きている。中韓のメディアが注視しているらしい。
それから、オリンピックがうるさい。バカ騒ぎはほどほどに。

雨宮処凜さんのファンになりまして・・・褌子

  都知事選がすんだら脱原発で細川を応援した人たちと宇都宮を応援した人たちでノーサイドでいこう、いや舛添みたいなのを都知事にしちゃったんだからノーサイドというわけにはいかんとか論争がネット上を賑わしている。そこで雨宮処凜のブログ発言を読んだら感動したので転載してみる。

   ■■ 都知事選 私の選択、あなたの選択。の巻 ■■
 都知事選が始まった。
 前回書いた通り、それぞれの候補者の政策を比較し、そうして私は、やっぱり決めた。宇都宮さんを応援しようと。
 細川氏がどんなことを掲げるのか、非常に興味があった。また、それ以外の人たちの政策にも期待はあった。が、それぞれの政策を読み、やはり今の「生活者」の実態を、現場の声として最も知っているのが宇都宮さんだと思って、決めた。
 だけど、そのことをこうして公表するにあたって、強調しておきたいことがある。
 それは、当たり前のことだけど、自分と違う選択をした人についてどうこう言う気はさらさらないということだ。同時に、私の選択についても、あれこれ言われたくはない。
 「一本化」を巡るもろもろは、「脱原発」を目指す人の間で分断を産んでしまっている面は否めない。
 だからこそ、今、改めて、書いておきたい。
 今回の都知事選、私自身、今までにないくらいに悩み、たくさんのことを考えた。そして私の周りの人たちも、本当に悩み抜いていたことを知っている。
 誰かが本気で考えた果ての選択を、否定したり批判したりする資格は誰にもない。少なくとも、私は他人の選択を批判できるほど偉くもないし、頭も良くない。「自分と意見の違う誰か」より自分の方が考えているなんて、そんなおこがましいこと、絶対に思いたくない。その上、超能力者でもない限り、この都知事選の結果がどうなるかなんて、誰にもわからないのだ。
 自分と違う選択をした人だけでなく、距離をとって静観することに決めた人たちの心にも、ちゃんと思いを馳せていたいと思う。
 とにかく、どんな結果になろうとも、このことが禍根を残すようなことにだけはなってほしくない。そのためには、それぞれの立場の人たちが、「自分と違う意見の人」を尊重することが重要なのだと思う。というか、「違う意見の人を認める」「考えの違いを受け入れる」って、民主主義の基本中の基本ではないだろうか。
 きっと誰しもが、「民主的な都政」を望んでいるはずだ。
 それなのに、その都知事選で誰を応援するかによって「敵」「味方」に別れてしまったり、誰かの選択が批判されてしまうなんて、まったくもって本末転倒だと思うのだ。
 多様な意見が尊重されること。意見の違いで排除されないこと。
 それこそが、私たちが求めていたものではなかったか。
 311以降、私たちはいろんな壁を乗り越えてきた。これまでだったら考えられないようなたくさんの人たちに運動が広まり、多くの人と連帯する喜びを噛み締めてきた。時には、左右が共闘するような場面だってあった。この3年近く、私たちはさまざまなものを培ってきた。多くの人が、「都知事選候補の選択」という一点によって「誰かを見る目」が変わらないほどの信頼関係を、たくさんの人と築いてきたはずだ。
 だから、基本的には楽観している。
 そしてもし、本当に万が一、私にとって、そして脱原発運動、反貧困運動にとって好ましくない結果になろうとも、それを決して「誰かのせい」にはしたくない。
 これまで8年近く、反貧困運動などにかかわってきて、痛感していることがある。
 それは運動が停滞したりうまくいかない時、人は「犯人探し」をしたくなる誘惑にかられるということだ。
 「こういう問題があるから、うまくいかないのだ」「この人が原因で、いろいろなことが進まないのだ」。 
 だけど、それは大抵の場合、勘違いでいいがかりで責任の丸投げだ。私の場合、いろいろとうまくいかないことを認めるのが苦しくて、「誰かのせい」「何かのせい」にしてきたことが、恥ずかしながら、何度かある。だからこそ、もう2度とそんなことはしたくないと思っている。
 投開票日まで、あと10日ほど。
 今、この国はとてつもなく大きな分岐点にあるのだと思う。
 その中で、自分に何ができるのか。意見の違う人たちとも話し合いながら、模索していこうと思う。

爺さんは味噌買いに・・・猫跨ぎ

 また雪か。たしか昨日の天気予報では晴れたり曇ったりでなかったかな。今は一旦止んではいるが、また降るらしい。高いスパコンを持っているのだろうが、宝の持ち腐れじゃないか。しっかり予報して欲しい。
野生動物は大変だ。向かいの庭の枇杷の花を小鳥が啄んでいる。道路には野良猫の足跡が点々とある。こちらは味噌が切れたので、これから長靴はいてヨーカドーに行かねば。

2014年2月9日日曜日

赤木さん・・・猫跨ぎ

  今朝の雪掻きは本格的だった。それにしても体力が落ちたなあ。適当に切り上げて、上がってきた。皆さんは如何か。
  ところで今日の朝6:30からのNHK俳句番組を見ていたら、何と赤木工房の赤木さんがゲスト出演。今日の選者は小澤實氏で、二人は飲み友達とか。
頭の両側を綺麗に刈り上げたヘアスタイルで丸い眼鏡を掛けて、最初は誰かと思ったが。
今日の兼題は「海苔」。
一席は「現れし礁(いくり)に跳んで海苔を掻く」
小澤氏が海苔の句でさすがと紹介したのが「衰ひや歯に喰ひあてし海苔の砂 芭蕉」
そして、赤木さん作「海苔を喰ひ千年前の人と成る 漆子」。漆子が俳名とか。シツコというらしい。
漆は縄文時代から使われていること、塗り椀は轆轤が出来た平安時代から始まったが、製造工程はそれ以降一切変わっていないことなどを言っていた。

なお、一席の作は、動詞が3個もあって、本来は失敗作とされるが、そこはこの俳句のもつ力ということで、納得。まあ何事もそうだが、機械的な判断はすべきでない。

2014年2月8日土曜日

ちょいと話題を変えて・・・・褌子

   竹中平蔵氏がテレビで「正規雇用という人たちがですね、恵まれすぎているんです」とか「正規雇用という人たちが非正規雇用者を搾取しているわけです」と言ってのけたという。
 小泉内閣のとき「小泉竹中構造改革」で、戦後営々と労働運動が築き上げてきた労働法制を徹底してズタズタにし非正規社員として働くしかないワーキングプアといわれる労働者を山のように作りだした張本人の発言だから破廉恥と言うしかない。その竹中氏がいまや派遣大手パソナ会長に収まっているのだから日本人もここまで堕落できるのだという見本みたいな人物。いままた、東京国家戦略特区構想の座長になって岩盤規制打破などと叫びながら正社員と非正規の対立煽っているとは。
 今回の都知事選で小泉・細川コンビをつい応援してしまった著名人たちも、イラク特措法で自衛隊海外派兵強行や労働規制緩和など小泉改革が敷いたレールの上を安倍政権が暴走していることを忘れてしまったのにちがいない。健忘症は日本人の得意技。
 むかし串田孫一さんが「竹中がテレビにでてくると家中でいちばん汚い便所のスリッパで顔をたたいてやるんだ」と言っていた話がなつかしい。
 ナオミ・クラインが説く『惨事便乗型資本主義』つまり「原発事故ショックドクトリン」という福島原発事故を悪用して極めつきの新自由主義=市場原理主義を日本に持ち込もうとしている第二次小泉劇場が開幕したと私はみている。いまや落ち目の原発利権よりも将来性のあるシェールガス利権がからんでいるという噂もある。ポスト安倍政権の先の先をみている小泉親子と竹中一家。

雪はげし・・・猫跨ぎ

何だかああいえばこうになって来たな。もう止めようや。結局レッテル貼りだ。どんどん粗雑になる。

すこし角度をかえて・・・・逸徳

命より大事なものがある、という思念もわるくはない。確かに。 ただし、それを他人の命までまきこまないでいただきたい。その思念が強固な信念となり、盲信となってはためいわくになるまでは、そんなに距離がないように見える。
 観測問題はもういいや。おいらは、イメージの説明につかっただけのつもりだったが。
保守主義者が社会悪に鈍感とはいっていないぜ。そうではなく、たまたま社会悪に鈍感なやつが保守主義者なんだろう。 保守主義者で社会悪に敏感な尊敬すべき保守主義者もいる。 (まてよ ホントなにいるかな? 最近はそういうのが絶滅危惧種になっているようだが。) 保守主義だから社会悪に鈍感という論理を組み立てたら、それは悪しきラべリングだな。

ちと違う議論をしよう。 前にもいったような記憶があるが、事実と真実は違う。 ドンキホーテが、風車を巨人の群れと認識したのは、彼にとっての真実だが、その袖をチョコッとひっぱって「だんな あれはどうみたって風車ですぜ」とささやいたサンチョパンサのいっているのが事実だ。事実はおそらくひとつだが、真実はそうではない。 だから人の数だけ真実はあり、人はそれぞれの真実を生きているのだろうが、どうにもおかしいというか、哀しいというか、みんな自分の真実だけが事実だと思うことがある。幻想だろう。そして悲劇、または喜劇はそこから始まる。だからもちろん原爆も戦争犯罪だし、南京大虐殺も戦争犯罪であって、それは相対化して、どっちもどっちとはいかない。だから日本が勝って、アメリカが負けていたら、当然戦争犯罪としてさばかれていたろうなあ。 つまりどっちが事実かということはあんまり意味がない。両方とも事実なのだ。トータルとして、たがいに殺しあったという事実だけがのこっているのである。 百田氏が品性がないのは、原爆を大虐殺としたその口で、南京大虐殺の犠牲者の思いに想像力を働かせていないということだ。 特攻を描いたかれの「永遠の0」という作品が、映画化されて、某監督が(誰だか忘れた) 痛烈に批判していたが、要するに自分の真実を人におしつける品のなさを指摘していたのだと思った。 だからさ、安陪が靖国にいったっていいが、真夜中にでもどうぞこっそりひとりでいってほしいのである。

アメリカの常識・・・猫跨ぎ

おやおや、格好の例があったなあ。以下、たった今の東京新聞(ネット)からの引用。
「NHK経営委員を務める小説家の百田尚樹氏が東京都知事選の応援演説で、米軍による東京大空襲や原爆投下を「大虐殺」とした上で、第2次大戦後の東京裁判を批判したことについて、在日米大使館(東京都港区)の報道担当官は8日、取材に対し「非常識だ」と批判した。米政府の公式の統一見解としている。」
百田尚樹がどんな人物かよく知らないが、全くその通り。アメリカの「常識」は、こんなものだ。

言いたいことは・・・猫跨ぎ

  言いたいことは、人間の命を大事にするか否か、と理解した。勿論それを全否定するのは余程のひねくれ者だな。しかしさ、命より大事なものはあるという思念もあるということも言っておこう。何ごとも決めつけは良くない。
それから、どんな意見もその発言者のいる立場に依拠する、は、だから逸徳氏の信念なんだろう。別に量子の世界の現象と観測者の関係を例示する迄も無かろうに。それは量子の世界の話、巨視的世界は違うと言われれば直ちに破綻する喩えじゃないか。
むしろ上位構造、下位構造を根拠に言って貰った方が説得性はあると思うのだがね。何はともあれ、私はそんなことはないと思っているので、ここは物別れだね。
天皇主義者は例示が突飛すぎたね。じゃあ、進歩主義者と保守主義者としよう。この保守主義者は命は勿論大切に思っている。要は、保守の旧弊から明るい進歩へと、世界は進化するというのは幻想だったことを言いたかったわけ。
保守主義者が社会悪に鈍感か?全然別概念じゃないか。怒りも別概念だろう。
いまの自分の立場に頑固に固執しているだけではないのか。違うかい。

どうも平仄があわん・・・・逸徳

こういうことをやっていれるのは、まだ若いということで。、ご同慶のいたり。まあ、元気にやりましょう。
天皇主義者と進歩主義者の対比について。主観的信念の強さが問題ではない。そういうのはこわい。信じ込むことと狂気は紙一重だと思っている。そして比較する基準はある。簡単にいってしまえば、どっちの方が人間の命を大事にするか、人間の命以上の価値をまつりあげて、何かのために死ぬということを合理化する可能性がないかどうか。この一点だろう。それを判断するのが理性ではないか。 こういうところで下手に相対化するのはおいらは願い下げである。 二点目。上部構造と下部構造の比喩は、予想もしなかった。それは全然違う。そうとられたら、こちらの説明不足。 量子力学における観測者問題というのは、観測それ自身が対象に影響を与えるということであって、ことほど左様に、人間社会の諸現象を議論する場合には、傍観者というものはいないのだということをいいたかったのです。 つまりどんな問題でも、ではその問題とあなた自身はどういう関係なのかということが問われるということなのだ。 その問いから逃げて、客観性というなんだかよくわからんもののかげに逃げ込む評論家という人種は、あまり信用できない。特に60過ぎたら、そういう思いが強くなった。傍観者はいない。社会科学的問題については、参加するか(その形態は自由だが) にげるか、それともだまるか。それしかないと思っている。だから「参与観察」という用語はまことにいいえて妙である。
 個人的行為の件について。ここでいう個人的行為は、当事者から見れば、誰かにどう評価されるかということを問題にしていない種類のものをさす。まさにその点において「個人的行為」なのだ。したがって絶対的評価という点からいえば、その行為がどれだけ人間の命の尊厳を守ることにつながっているか、あるいはつながっていると当事者が考えているかだ。したがって、人間の命以外のある何かのために行ったとされる行為、たとえば特攻のようなものはここではおいらは考えてはいない。広瀬中佐の件が、現象としては知っていたが、それが彼にとってどういうものであったかはよくわからん。で、わからんことはコメントできない。
 でおいらのいいたいことは、そういう類のことではなく、「怒り」の感情の喪失の問題なのである。 この世の中に、社会悪や人間的不幸はなくならない中で、ほんとに「怒らなくて」いいのか、ということなのだ。 ものわかりがよく、うんうんあんたのいいぶんもわかるという好々爺は、墓場の一歩手前のような気もするのだが。

2014年2月7日金曜日

だんだん面白くなってきました・・・猫跨ぎ

  だんだん面白くなってきました。私もやさしいことを難しく言うのは嫌いなので、きわめて大雑把に言っている。しかしそこに言いたい真実が隠されている。腹黒いのは必ず逃げ道を用意してるからな。ということで、本音をざっくばらんにいうことは大賛成だ。
ところで、前段の部分は、上部構造(考え方)は下部構造(どこで飯食ってるか)に依拠するという懐かしい理念にまだ囚われているねえ。そうだな、量子力学概念にも近いね。本当にそうか。私は鳥瞰は可能だと思っている。人間の思考の自由度を甘く見ちゃいけませんやな。
  まあ誰が陰謀を抱いたか、は、いささか幼稚過ぎるなとは書きながら思っていた。ただ、そういう素朴な感覚で見直すことは意外に大事だ。仮に進歩主義者を弾圧する「陰謀」を抱いた天皇主義者(皇国史観論者)がいたとしよう。彼はしかし彼なりの強い信念で行動しているわけだ。彼自身、陰謀などとつゆ思っていない。彼もある思念に囚われている。さて両者のどちらが「正しい」のか。言うまでもなく進歩主義者が正しく、天皇主義者が間違っているのかな。ならその根拠はなにか。それは歴史が一方向に進んでいるという理念の下の結論だ。しかしそれは幻想にすぎない。現代史がそれを教えていると思っている。

相対化といえばそうかも知れんが、じゃ絶対化の根拠は?やはり或る座標軸からの判断だろう。悪いことは悪い―そのとおりだ。その座標軸は如何なる根拠か。何度も極東裁判を例に出すがその正当性を余りにナイーブに信じていないか。東条英機の例をだすものいいが、原爆を投下した指導者が何故、戦争犯罪に問われないのかな。
個人的な決死の行為だって、或る見方に立って、評価する側のお眼鏡にかなった人々の行為が誉れ高いのだろう。日露戦争の広瀬中佐の決死行(というのがあったな。詳しくは忘れたが)だって、当時の人々は涙した。これは何ら評価の対象にならないのかな。高遠女史の例をよく引用するが、命を省みず弱者に献身する例は、それこそ数知れずあるのではないか。相対化は気分が悪いのかもしれないが、結局見る人によって違う。そういうことではないか。

ちとちがうなあ・・・・逸徳

国民国家論の是非を論じたつもりはおいらにもあんまりない。太要においてお師匠の論はほぼ賛成であり、理解している(つもりだ。) 陰謀なんてそんな、古典的な話はまったく考えていない。そういうレベルは、おおむかしペリーメーソンとか、ユダヤ人とか、あるいはコミンテルンなんていうことばが飛び交ったおとぎ話の世界ではないかな。もっとも、悪人の陰謀という物語をつくりたがった、そしてそれを悪用したのはほとんど権力者の側だったが。

善悪二元論をかりに全否定したら、(そんなに単純な話ではないが)では、代わりに何が見えてくるか。鳥瞰図的に、すべてを相対化する客観主義、あるいは科学的分析の視点か。だが、そりゃ科学かね。そういう科学的と称する似非科学者は福島以後はいてすてるほど出現した。
 おいらはこう考える。歴史、あるいは人間の社会現象は、科学者が顕微鏡を通して、レンズの向こうに細菌の挙動を客観的に観察するように分析するというのは決して科学的とはいえないということだ。観察される現象も対象も決して観察者それ自身の存在のありようと無関係ではないのである。いいかえれば、我々は同時に、観察している細菌群の間に身をおいているのだ。 観察することそのこと自体が、観察される対象と深いかかわりを持つ。(この辺、後で気が付いたが量子力学の観察問題とよく似ているなあ。) 観察者(というのは我々自身でもあるが)が、ずっと後ろにひいて、舞台の外から観察するというのが「科学的」「客観的」というのであれば、実は人間については、そういうことは不可能だと思う。われわれは、舞台からおりることができないのだから。 客観的評論家というのはいないのであり、いじわるくいえば、すべての評論家は客観的というかくれみのににげこんでいるようにみえるのである。 ちなみにこういうのは心理学では「参与観察」というらしい。観察しながら同時に参加するというのである。

 そういうわけで、国家や歴史という枠組みの中でのみ、議論する前においらとしては、その個人の立ち位置が気になるのである。そんなこといったら何もいえなくなるといったやつがいたが、それなら語らないことだ。「知りえないことは語るなかれ」といったのはだれだっけ。そんなことをいった哲学者がいたなあ。 (ちなみに語らないことは考えていないことではない。 人はだまっていても考えているのである。 黙っている人を石と間違えるやつがいるが、そういうのは傲慢である。だからだまっている人を恐れたほうがいい。)

 歴史にあとからの意味づけは無意味だろうが、それぞれの曲がり角で、どういう行動を選択したかということをあとから考えると、やっぱり悪人はいると思う。 善悪二元論の否定が、容易に物事の相対化につながり、たとえば「ヒットラーだっていいぶんはある」などという地点までいってしまう危険はないか。大東亜戦争肯定論なんてそう見えていたのだが。そういう意味では、おいらはまぎれもなく善悪二元論である。ここは居直る。 悪いことは悪い。 おいらはものわかりが悪いのである。

 それよりももっと気になることがある。 個人という次元から考えてみる。 たとえばだ。スペイン市民戦争に参戦した国際旅団の兵士たち。誰がために鐘はなるの主人公ロバートジョーダン。 戦乱のイラクに飛び込んで戦災孤児のために活動し、バッシングを受けPTSDになった高遠さん。 まだいくらでも例はあるのだろうが、やむにやまれずこういう行動をとった人間の共通心理は何か。おいらの意見だが、ひとつはやむにやまれぬ感情。そしてその根底にあるのは「怒り」ではないか。これは非常に重要だ。 アンチテーゼとしての社会主義の誕生もそうだったと思う。 「こんなバカなことが、人間に対してゆるされるのかという怒り」である。 これが、最近どこかにいってしまったように見える。 みんな怒らなくなった。 人間としての劣化のように思う。 みんなものわかりがよくなったのだ。屁みたいなものわかりのよさ。 それがこわい。 ほんとにこわい。 だからおいらもこころの中では、しばらくは社会主義者でいてもいいかなと思ったりする。

2014年2月5日水曜日

噛み合わんね・・・猫跨ぎ

  何だかちょっと議論の平仄があわんね。国民国家が良いなんてひと言も言っていない。何度も言っているように、国民国家たらんとする巨大な共同幻想に包まれていたんだ。それを浸透させるために逸徳氏の言うように教育制度が完備されたんだろう。それは誰かの陰謀か?誰か特定できるなら言ってみて欲しいね。国民国家の流れは抗いようもなく襲ってきたんだ。それに忠実に対応したのが日本だったのだろう。「大成功」は礼賛して言っていると感じたのならそれは真逆だ。そのルーツを考えることなしに今を議論できないから言っている。そして、それは壊れつつあるとも思っている。
  そして逸徳氏の社会認識は相も変わらず、黒白をわける二元論だ。そういう見方は好きずきだが私はしない。歴史より今だと言いながら、歴史に関する或る固定観念に捕らわれている。そういう見方からは、敵を倒せと言うことになる。倒してメデタシかというと、味方の中にまた敵を発見する。永久革命論か。結局何も生まれないと思うからだ。
歴史、国家もどうでもいい、個人だ、は、開き直りだが、まあそこそこ付き合っていくしか無いんだろう。
 もどすと、コロッケで満足する気分は私も同じだ。3.11のあとの、節電で駅や町がうす暗くなった。不思議と不平は出なかった。制限のない蕩尽にこれでいいのかという気分は我々の中にある。

国民国家論かい・・・・逸徳

明治以降の日本史における教育の問題は、非常に関心があった。師匠の言うとおり、黒船以降、おしよせる列強に対して、今までの単なる藩の共同体のような日本が、近代的国民国家として離陸する上での戦略として、明治政府は天皇制を巧みに利用した。それまでの我が国では、一般民衆からは天皇なんてまったく直接的関係はなかったといっていいのではないか。 しかし、近代的国民国家の精神的バックボーンとして、天皇制はまことに利用しやすかった。要は、民衆の心の中に響くような「天皇」という幻想、あるいは物語を組み立てていけばよかったのだ。そのために権力者は教育をフルに利用した。教育の効果を熟知していたのである。自由民権運動がひろがりをみせたとき、それに対して「火付け、強盗、自由党」といっしょくたにして運動を敵視した権力者たちのイメージは、石破自民党幹事長の「デモとテロ」をいっしょくたにした発言と見事にオーバーラップする。そして、自由民権運動の高まりに手をやいた、福島県令某の「かくなるうえは教育でしまつをつけなくてはなりませぬ」という発言(これは高校日本史の教科書にも載っている)は、教育を民衆操作の手段として考えている、権力者の精神構造をよくあらわしている。そして、それは今も変わっていないし「しまつをつける教育」は、なお明らかに現在進行形であることは、教育現場にいたおいらにはよくわかる。
 とにかく、明治政府がどれほど教育を重視したか。その一例を紹介しよう。明治時代、各地に高等師範学校がつくられた。ここに入ると、防衛大のように給料(学費)が支給され、そして卒業すると30代で各地の義務制学校の校長になれる。その頂点が東京高等師範学校、今の筑波大学である。ちなみにおいらの祖父は静岡高等師範学校の1期生である。祖父は30代で校長になるのだが、調べてみておどろいた。30代はじめの給料で4間つづきの住宅が借りられて、女中が一人雇えた。生徒指導特別費という別給料があり、生徒が集まる広間にはこもかぶりがいつもあったのである。とにかくむゃくちゃに優遇したのだ。そして各学校には、ご真影と奉安殿、教育勅語という舞台装置が用意されて、教師たちはひたすら「天皇の赤子、天皇のために死ねる若者」を育てることに奔走した。 そして、結果として沢山の若者が死んだ。 このような政治の道具になった教育というのは、本当に効果があったのだろう。だから未だに「しまつをつける教育」のDNAはずぶとく、亡霊のように立ち上がってくる。 そしてこの背景に、蜃気楼のようにたちあらわれるのが「国民国家」なのだろう。

歴史にあとから意味づけをしてもしょうがない。この道は必然か否かという議論も関心がない。経済が貧乏になるかならんかも興味がない。今、日本の社会は明らかに収縮期にむかっているようだが、ではどうしたらいいかというと、そんなモデルは今までの歴史の中にはないだろう。 けれどもあせることはない。もしも経済が収縮し、エネルギー消費が今の1/2になっても、それはちょうど「三丁目の夕日」の時代なのである。コロッケ1個がごちそうで、町内にやっとテレビが1台はいり、スクーターにのるのがカッコウよかった時代だ。 いいではないか。あれで十分である。

つまりだ。国家というものにあんまり意味を感じないし、明治以降の幻想としての国民国家論とは、絶縁したい。とにかくもう人がたくさん死ぬのはやめよう。 国家という概念がそういう事態につながるなら、そういう国家はすぐすてたい。 非国民で十分である。そしてこれからの日本人は、軽やかに国境を越えてほしいと思う。つまりあくまで問題なのは個人なのだ。現在という時間の中を流れながら、自分が今どんな立ち位置にいるのかということだけが気にかかるのである。

2014年2月3日月曜日

奴隷根性論・・・猫跨ぎ

  奴隷根性論というのは戦後の早い時期、インテリ層に強くあった。そう言う意味では、伊丹万作氏の論は珍しくないと思う。一億総懺悔論の一つ。
まあ、丸山真男がそうだったし、言いにくいが中川先生もそういう考えを持っていた。その是非は措こう。
林房雄の大東亜戦争肯定論は出された当時、気違いの超右翼的見解とされた。最近はそうでもない。冷静に論議されているようだ。逆に言えば無意識の極東裁判的桎梏からようやく自由になりつつあるといってもいい。
  国民国家の論点から明治以降の日本を見てみることも大事だと最近思っている。
この島国にいる人々がまず自分を日本人と思うのはそんなに昔でない。明治維新からだ。それまでは、薩摩の人間であり、加賀の人間であり、会津の人間だった。薩英戦争で薩摩は英国と闘ったが、薩摩以外の人々には他人事だった。明治維新で天皇を戴き、大日本帝国が生まれ、急速に国民国家となった。この変貌は奇跡に近い。それは誤解を恐れずに言えば大成功だった。西欧列強の侵略の意図に対する恐怖が何と言っても根底にある。黒船はトラウマだったと思う。そして近代化をなし遂げ富国強兵、殖産興業・・・。
国のために命を捧げるのが当たり前になるまでの、この「共同幻想」のすごさを感じる。中国は一周遅れで日本の大成功の後を追った。ずっと前から、中国という国があったような錯覚を起こすが、辛亥革命以降だろう。
この国民国家が今転回点を迎えていると思う。ソ連の崩壊が良い例だ。中国もその矛盾を迎えつつあると考えている。
中国がその辺を敏感に察知し、日本は戦後秩序を壊しに掛かっているという。そう、連合国は勝った国民国家連合だった。この秩序を維持したい。それが彼等の存立の基盤だからだ。靖国参拝批判は、「正しい歴史」のためでなく、彼等の核心的利益だからだ。