命より大事なものがある、という思念もわるくはない。確かに。 ただし、それを他人の命までまきこまないでいただきたい。その思念が強固な信念となり、盲信となってはためいわくになるまでは、そんなに距離がないように見える。
観測問題はもういいや。おいらは、イメージの説明につかっただけのつもりだったが。
保守主義者が社会悪に鈍感とはいっていないぜ。そうではなく、たまたま社会悪に鈍感なやつが保守主義者なんだろう。 保守主義者で社会悪に敏感な尊敬すべき保守主義者もいる。 (まてよ ホントなにいるかな? 最近はそういうのが絶滅危惧種になっているようだが。) 保守主義だから社会悪に鈍感という論理を組み立てたら、それは悪しきラべリングだな。
ちと違う議論をしよう。 前にもいったような記憶があるが、事実と真実は違う。 ドンキホーテが、風車を巨人の群れと認識したのは、彼にとっての真実だが、その袖をチョコッとひっぱって「だんな あれはどうみたって風車ですぜ」とささやいたサンチョパンサのいっているのが事実だ。事実はおそらくひとつだが、真実はそうではない。 だから人の数だけ真実はあり、人はそれぞれの真実を生きているのだろうが、どうにもおかしいというか、哀しいというか、みんな自分の真実だけが事実だと思うことがある。幻想だろう。そして悲劇、または喜劇はそこから始まる。だからもちろん原爆も戦争犯罪だし、南京大虐殺も戦争犯罪であって、それは相対化して、どっちもどっちとはいかない。だから日本が勝って、アメリカが負けていたら、当然戦争犯罪としてさばかれていたろうなあ。 つまりどっちが事実かということはあんまり意味がない。両方とも事実なのだ。トータルとして、たがいに殺しあったという事実だけがのこっているのである。 百田氏が品性がないのは、原爆を大虐殺としたその口で、南京大虐殺の犠牲者の思いに想像力を働かせていないということだ。 特攻を描いたかれの「永遠の0」という作品が、映画化されて、某監督が(誰だか忘れた) 痛烈に批判していたが、要するに自分の真実を人におしつける品のなさを指摘していたのだと思った。 だからさ、安陪が靖国にいったっていいが、真夜中にでもどうぞこっそりひとりでいってほしいのである。
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