国民国家論の是非を論じたつもりはおいらにもあんまりない。太要においてお師匠の論はほぼ賛成であり、理解している(つもりだ。) 陰謀なんてそんな、古典的な話はまったく考えていない。そういうレベルは、おおむかしペリーメーソンとか、ユダヤ人とか、あるいはコミンテルンなんていうことばが飛び交ったおとぎ話の世界ではないかな。もっとも、悪人の陰謀という物語をつくりたがった、そしてそれを悪用したのはほとんど権力者の側だったが。
善悪二元論をかりに全否定したら、(そんなに単純な話ではないが)では、代わりに何が見えてくるか。鳥瞰図的に、すべてを相対化する客観主義、あるいは科学的分析の視点か。だが、そりゃ科学かね。そういう科学的と称する似非科学者は福島以後はいてすてるほど出現した。
おいらはこう考える。歴史、あるいは人間の社会現象は、科学者が顕微鏡を通して、レンズの向こうに細菌の挙動を客観的に観察するように分析するというのは決して科学的とはいえないということだ。観察される現象も対象も決して観察者それ自身の存在のありようと無関係ではないのである。いいかえれば、我々は同時に、観察している細菌群の間に身をおいているのだ。 観察することそのこと自体が、観察される対象と深いかかわりを持つ。(この辺、後で気が付いたが量子力学の観察問題とよく似ているなあ。) 観察者(というのは我々自身でもあるが)が、ずっと後ろにひいて、舞台の外から観察するというのが「科学的」「客観的」というのであれば、実は人間については、そういうことは不可能だと思う。われわれは、舞台からおりることができないのだから。 客観的評論家というのはいないのであり、いじわるくいえば、すべての評論家は客観的というかくれみのににげこんでいるようにみえるのである。 ちなみにこういうのは心理学では「参与観察」というらしい。観察しながら同時に参加するというのである。
そういうわけで、国家や歴史という枠組みの中でのみ、議論する前においらとしては、その個人の立ち位置が気になるのである。そんなこといったら何もいえなくなるといったやつがいたが、それなら語らないことだ。「知りえないことは語るなかれ」といったのはだれだっけ。そんなことをいった哲学者がいたなあ。 (ちなみに語らないことは考えていないことではない。 人はだまっていても考えているのである。 黙っている人を石と間違えるやつがいるが、そういうのは傲慢である。だからだまっている人を恐れたほうがいい。)
歴史にあとからの意味づけは無意味だろうが、それぞれの曲がり角で、どういう行動を選択したかということをあとから考えると、やっぱり悪人はいると思う。 善悪二元論の否定が、容易に物事の相対化につながり、たとえば「ヒットラーだっていいぶんはある」などという地点までいってしまう危険はないか。大東亜戦争肯定論なんてそう見えていたのだが。そういう意味では、おいらはまぎれもなく善悪二元論である。ここは居直る。 悪いことは悪い。 おいらはものわかりが悪いのである。
それよりももっと気になることがある。 個人という次元から考えてみる。 たとえばだ。スペイン市民戦争に参戦した国際旅団の兵士たち。誰がために鐘はなるの主人公ロバートジョーダン。 戦乱のイラクに飛び込んで戦災孤児のために活動し、バッシングを受けPTSDになった高遠さん。 まだいくらでも例はあるのだろうが、やむにやまれずこういう行動をとった人間の共通心理は何か。おいらの意見だが、ひとつはやむにやまれぬ感情。そしてその根底にあるのは「怒り」ではないか。これは非常に重要だ。 アンチテーゼとしての社会主義の誕生もそうだったと思う。 「こんなバカなことが、人間に対してゆるされるのかという怒り」である。 これが、最近どこかにいってしまったように見える。 みんな怒らなくなった。 人間としての劣化のように思う。 みんなものわかりがよくなったのだ。屁みたいなものわかりのよさ。 それがこわい。 ほんとにこわい。 だからおいらもこころの中では、しばらくは社会主義者でいてもいいかなと思ったりする。
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