だんだん面白くなってきました。私もやさしいことを難しく言うのは嫌いなので、きわめて大雑把に言っている。しかしそこに言いたい真実が隠されている。腹黒いのは必ず逃げ道を用意してるからな。ということで、本音をざっくばらんにいうことは大賛成だ。
ところで、前段の部分は、上部構造(考え方)は下部構造(どこで飯食ってるか)に依拠するという懐かしい理念にまだ囚われているねえ。そうだな、量子力学概念にも近いね。本当にそうか。私は鳥瞰は可能だと思っている。人間の思考の自由度を甘く見ちゃいけませんやな。
まあ誰が陰謀を抱いたか、は、いささか幼稚過ぎるなとは書きながら思っていた。ただ、そういう素朴な感覚で見直すことは意外に大事だ。仮に進歩主義者を弾圧する「陰謀」を抱いた天皇主義者(皇国史観論者)がいたとしよう。彼はしかし彼なりの強い信念で行動しているわけだ。彼自身、陰謀などとつゆ思っていない。彼もある思念に囚われている。さて両者のどちらが「正しい」のか。言うまでもなく進歩主義者が正しく、天皇主義者が間違っているのかな。ならその根拠はなにか。それは歴史が一方向に進んでいるという理念の下の結論だ。しかしそれは幻想にすぎない。現代史がそれを教えていると思っている。
相対化といえばそうかも知れんが、じゃ絶対化の根拠は?やはり或る座標軸からの判断だろう。悪いことは悪い―そのとおりだ。その座標軸は如何なる根拠か。何度も極東裁判を例に出すがその正当性を余りにナイーブに信じていないか。東条英機の例をだすものいいが、原爆を投下した指導者が何故、戦争犯罪に問われないのかな。
個人的な決死の行為だって、或る見方に立って、評価する側のお眼鏡にかなった人々の行為が誉れ高いのだろう。日露戦争の広瀬中佐の決死行(というのがあったな。詳しくは忘れたが)だって、当時の人々は涙した。これは何ら評価の対象にならないのかな。高遠女史の例をよく引用するが、命を省みず弱者に献身する例は、それこそ数知れずあるのではないか。相対化は気分が悪いのかもしれないが、結局見る人によって違う。そういうことではないか。
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