こういうことをやっていれるのは、まだ若いということで。、ご同慶のいたり。まあ、元気にやりましょう。
天皇主義者と進歩主義者の対比について。主観的信念の強さが問題ではない。そういうのはこわい。信じ込むことと狂気は紙一重だと思っている。そして比較する基準はある。簡単にいってしまえば、どっちの方が人間の命を大事にするか、人間の命以上の価値をまつりあげて、何かのために死ぬということを合理化する可能性がないかどうか。この一点だろう。それを判断するのが理性ではないか。 こういうところで下手に相対化するのはおいらは願い下げである。 二点目。上部構造と下部構造の比喩は、予想もしなかった。それは全然違う。そうとられたら、こちらの説明不足。 量子力学における観測者問題というのは、観測それ自身が対象に影響を与えるということであって、ことほど左様に、人間社会の諸現象を議論する場合には、傍観者というものはいないのだということをいいたかったのです。 つまりどんな問題でも、ではその問題とあなた自身はどういう関係なのかということが問われるということなのだ。 その問いから逃げて、客観性というなんだかよくわからんもののかげに逃げ込む評論家という人種は、あまり信用できない。特に60過ぎたら、そういう思いが強くなった。傍観者はいない。社会科学的問題については、参加するか(その形態は自由だが) にげるか、それともだまるか。それしかないと思っている。だから「参与観察」という用語はまことにいいえて妙である。
個人的行為の件について。ここでいう個人的行為は、当事者から見れば、誰かにどう評価されるかということを問題にしていない種類のものをさす。まさにその点において「個人的行為」なのだ。したがって絶対的評価という点からいえば、その行為がどれだけ人間の命の尊厳を守ることにつながっているか、あるいはつながっていると当事者が考えているかだ。したがって、人間の命以外のある何かのために行ったとされる行為、たとえば特攻のようなものはここではおいらは考えてはいない。広瀬中佐の件が、現象としては知っていたが、それが彼にとってどういうものであったかはよくわからん。で、わからんことはコメントできない。
でおいらのいいたいことは、そういう類のことではなく、「怒り」の感情の喪失の問題なのである。 この世の中に、社会悪や人間的不幸はなくならない中で、ほんとに「怒らなくて」いいのか、ということなのだ。 ものわかりがよく、うんうんあんたのいいぶんもわかるという好々爺は、墓場の一歩手前のような気もするのだが。
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