明治以降の日本史における教育の問題は、非常に関心があった。師匠の言うとおり、黒船以降、おしよせる列強に対して、今までの単なる藩の共同体のような日本が、近代的国民国家として離陸する上での戦略として、明治政府は天皇制を巧みに利用した。それまでの我が国では、一般民衆からは天皇なんてまったく直接的関係はなかったといっていいのではないか。 しかし、近代的国民国家の精神的バックボーンとして、天皇制はまことに利用しやすかった。要は、民衆の心の中に響くような「天皇」という幻想、あるいは物語を組み立てていけばよかったのだ。そのために権力者は教育をフルに利用した。教育の効果を熟知していたのである。自由民権運動がひろがりをみせたとき、それに対して「火付け、強盗、自由党」といっしょくたにして運動を敵視した権力者たちのイメージは、石破自民党幹事長の「デモとテロ」をいっしょくたにした発言と見事にオーバーラップする。そして、自由民権運動の高まりに手をやいた、福島県令某の「かくなるうえは教育でしまつをつけなくてはなりませぬ」という発言(これは高校日本史の教科書にも載っている)は、教育を民衆操作の手段として考えている、権力者の精神構造をよくあらわしている。そして、それは今も変わっていないし「しまつをつける教育」は、なお明らかに現在進行形であることは、教育現場にいたおいらにはよくわかる。
とにかく、明治政府がどれほど教育を重視したか。その一例を紹介しよう。明治時代、各地に高等師範学校がつくられた。ここに入ると、防衛大のように給料(学費)が支給され、そして卒業すると30代で各地の義務制学校の校長になれる。その頂点が東京高等師範学校、今の筑波大学である。ちなみにおいらの祖父は静岡高等師範学校の1期生である。祖父は30代で校長になるのだが、調べてみておどろいた。30代はじめの給料で4間つづきの住宅が借りられて、女中が一人雇えた。生徒指導特別費という別給料があり、生徒が集まる広間にはこもかぶりがいつもあったのである。とにかくむゃくちゃに優遇したのだ。そして各学校には、ご真影と奉安殿、教育勅語という舞台装置が用意されて、教師たちはひたすら「天皇の赤子、天皇のために死ねる若者」を育てることに奔走した。 そして、結果として沢山の若者が死んだ。 このような政治の道具になった教育というのは、本当に効果があったのだろう。だから未だに「しまつをつける教育」のDNAはずぶとく、亡霊のように立ち上がってくる。 そしてこの背景に、蜃気楼のようにたちあらわれるのが「国民国家」なのだろう。
歴史にあとから意味づけをしてもしょうがない。この道は必然か否かという議論も関心がない。経済が貧乏になるかならんかも興味がない。今、日本の社会は明らかに収縮期にむかっているようだが、ではどうしたらいいかというと、そんなモデルは今までの歴史の中にはないだろう。 けれどもあせることはない。もしも経済が収縮し、エネルギー消費が今の1/2になっても、それはちょうど「三丁目の夕日」の時代なのである。コロッケ1個がごちそうで、町内にやっとテレビが1台はいり、スクーターにのるのがカッコウよかった時代だ。 いいではないか。あれで十分である。
つまりだ。国家というものにあんまり意味を感じないし、明治以降の幻想としての国民国家論とは、絶縁したい。とにかくもう人がたくさん死ぬのはやめよう。 国家という概念がそういう事態につながるなら、そういう国家はすぐすてたい。 非国民で十分である。そしてこれからの日本人は、軽やかに国境を越えてほしいと思う。つまりあくまで問題なのは個人なのだ。現在という時間の中を流れながら、自分が今どんな立ち位置にいるのかということだけが気にかかるのである。
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