税金は払わないで済むなら払う人は誰も居ない。原発も動かさないで済むならそうしたいものだ。人も集まればいいというものでもない。北朝鮮のマスゲームはもっとすごいぞ。安保以来といってもなあ。あの潮流はどこへいったのだ。
小沢新党は消費税反対、原発反対が二枚看板らしい。要はこの看板で無党派層を一気に掻き集めたいらしい。彼の頭はひとえに選挙。勝てばこっちのものだ。また山が動くか?
2012年6月30日土曜日
夏の日の逸徳句・・・褌子
きのうは首相官邸と国会周辺に大飯原発再稼働するなと20万人集まったそうだ。(警察発表は2万人)
ツイッターなどで子連れの主婦や若者にどんどん広がって一昨日は5万人と連日、60年安保以来の集まりになっているそうだ。ところが、今朝は赤旗と東京新聞は一面トップで報道したが朝日などははじめて小さく載せただけ。
新聞もいろいろ個性があったほうが選択の幅があっていい。夕刊ゲンダイなど年中かみつき亀がヒステリー●●●になったみたいに、おかみにカミついていて誠に面白い。大手紙が系列テレビもふくめて消費税、原発、TPP、沖縄米軍基地、大阪維新橋下もちあげ、と横並び一色足並みをそろえているというのはまことに気持ち悪い。とくにNHKの政治ニュースが大本営発表的だと思っているが「梅ちゃん先生」とか「ゲゲゲの女房」とかが面白いし、BSのコズミックフロントも楽しみだし痛しかゆし…。
3・11から一年四ヶ月フクシマは何も解決していないのに、原発ムラ一家の巻き返しはすごい。原発被災者の気持ちに連帯して7月16日のさようなら原発10万人集会(12;30代々木公園)には家族そろって参加したい。
―――――海にいく 意志もありけり 濁り川
なるほどね。面白い。季語は濁川?
幼子の 赤いカッパや 若葉梅雨
平凡だが景がよくみえる。わたしはこういう俳句が好きだね。
立ち枯れる ゴーヤのありて 沖縄忌
これは特選。何も説明することなし。沖縄戦も遠くなったが相変わらず本土に見捨てられたまま。
こんどは年中墜落しているオスプレイの配備を強行しようとしている。
薄曇り 顔をみせてよ おふじさん
そうですね。そのとおりですね。富士山の頭にはまだ雪のシャッポをかぶっているのかな
ほととぎす なきわすれたり 若葉蒼空
なきわすれたりが解せない。ホトトギスにそんな確固たる意志はないのでは。頭でこしらえた句ではないか。
ツイッターなどで子連れの主婦や若者にどんどん広がって一昨日は5万人と連日、60年安保以来の集まりになっているそうだ。ところが、今朝は赤旗と東京新聞は一面トップで報道したが朝日などははじめて小さく載せただけ。
新聞もいろいろ個性があったほうが選択の幅があっていい。夕刊ゲンダイなど年中かみつき亀がヒステリー●●●になったみたいに、おかみにカミついていて誠に面白い。大手紙が系列テレビもふくめて消費税、原発、TPP、沖縄米軍基地、大阪維新橋下もちあげ、と横並び一色足並みをそろえているというのはまことに気持ち悪い。とくにNHKの政治ニュースが大本営発表的だと思っているが「梅ちゃん先生」とか「ゲゲゲの女房」とかが面白いし、BSのコズミックフロントも楽しみだし痛しかゆし…。
3・11から一年四ヶ月フクシマは何も解決していないのに、原発ムラ一家の巻き返しはすごい。原発被災者の気持ちに連帯して7月16日のさようなら原発10万人集会(12;30代々木公園)には家族そろって参加したい。
―――――海にいく 意志もありけり 濁り川
なるほどね。面白い。季語は濁川?
幼子の 赤いカッパや 若葉梅雨
平凡だが景がよくみえる。わたしはこういう俳句が好きだね。
立ち枯れる ゴーヤのありて 沖縄忌
これは特選。何も説明することなし。沖縄戦も遠くなったが相変わらず本土に見捨てられたまま。
こんどは年中墜落しているオスプレイの配備を強行しようとしている。
薄曇り 顔をみせてよ おふじさん
そうですね。そのとおりですね。富士山の頭にはまだ雪のシャッポをかぶっているのかな
ほととぎす なきわすれたり 若葉蒼空
なきわすれたりが解せない。ホトトギスにそんな確固たる意志はないのでは。頭でこしらえた句ではないか。
2012年6月29日金曜日
アジは鰺がいい・・・猫跨ぎ
東京新聞にはいささか辟易している。反原発が主張の新聞とは判るが、常軌を逸したアジペーパーだ。これは変じゃないかと思ったのは、関西電力の大飯原発の再稼働の問題だ。15%の節電が不可避という調査結果に、これでは域内の諸活動が回らなくなるという判断で各知事がやむなく許容の決断をしたときに、15%の数字は信用ならんの一点張りだ。ヒステリー女に似ている。議論も何もない。
国論が割れているときに、冷静に両論併記してもらいたい。判断はこちらに任せてほしい。
岡井隆のコラムが楽しみで我慢していたが、もう駄目だね。
国論が割れているときに、冷静に両論併記してもらいたい。判断はこちらに任せてほしい。
岡井隆のコラムが楽しみで我慢していたが、もう駄目だね。
2012年6月27日水曜日
逸徳句鑑賞・・・猫跨ぎ
・海にいく 意志もありけり 濁り川
濁り川を見ながら、漠然と行く末を思っている。冴えない気分がよく出ているね。
・幼子の 赤いカッパや 若葉梅雨
小さい赤いカッパが、梅雨空に沁みる。色彩の対比の妙を意識したとは思うがいいね。
・立ち枯れる ゴーヤのありて 沖縄忌
この句はいいですね。時事俳句であるが、声高に言うのではなく沈潜して、幾許かの俳 諧味もある。
以上三句はみな良いと思いました。
・薄曇り 顔をみせてよ おふじさん
まあいつもの調子で。
・ほととぎす なきわすれたり 若葉蒼空
若葉蒼空は「わかばそら」とでもいうのかな。啼き忘れたとはあるべき声が聞こえない ということか。当地ではいま夜中によく聞く。仁句にもあった。
濁り川を見ながら、漠然と行く末を思っている。冴えない気分がよく出ているね。
・幼子の 赤いカッパや 若葉梅雨
小さい赤いカッパが、梅雨空に沁みる。色彩の対比の妙を意識したとは思うがいいね。
・立ち枯れる ゴーヤのありて 沖縄忌
この句はいいですね。時事俳句であるが、声高に言うのではなく沈潜して、幾許かの俳 諧味もある。
以上三句はみな良いと思いました。
・薄曇り 顔をみせてよ おふじさん
まあいつもの調子で。
・ほととぎす なきわすれたり 若葉蒼空
若葉蒼空は「わかばそら」とでもいうのかな。啼き忘れたとはあるべき声が聞こえない ということか。当地ではいま夜中によく聞く。仁句にもあった。
2012年6月26日火曜日
竹内浩三のこと・・・・逸徳
あるところに、詩人竹内浩三の紹介文を書いた。1921年伊勢市生まれ。45年バギオにて戦死。 享年24歳。彼の「骨のうたう」という詩をご存じの方も多いだろう。
「戦死やあわれ 兵隊の死ぬるやあわれ とほい他国で ひょんと死ぬるや ふるさとの風や こいびとの眼や ひょんと消ゆるや 国のため 大君のため 死んでしまうや その心や・・・・」と続く。 だがじつは紹介したいのはこの作品ではない。 彼のハガキにかかれた文である。 応召の日、詩人は自室に閉じこもり、膝をだくようにしてチャイコフスキーの「悲愴」を聞いていたそうである。 そしてそのころだされた彼のハガキから。・・・・「うたうたいは うたうたえと きみ言えど 口おもく うたうたえず。うたうたいが うたうたわざれば 死つるよりほか すべならんや。 魚のごと あぼあぼと 生きることこそ悲しけれ・・・。」 生きる悲しみ。深い井戸の底をのぞくような思いにとらわれる。 ・・・・・ 彼の墓は伊勢市の金剛証寺にある。しかし、そこには彼の骨はない。終戦10年後の命日に、最愛の姉松崎こうは次のようにうたう。・・・「一片のみ骨も還らずおくつきに 手ずれし学帽 深く埋めぬ」 ・・・・・まだ涙は乾いてはいないのだ。ああ。
「戦死やあわれ 兵隊の死ぬるやあわれ とほい他国で ひょんと死ぬるや ふるさとの風や こいびとの眼や ひょんと消ゆるや 国のため 大君のため 死んでしまうや その心や・・・・」と続く。 だがじつは紹介したいのはこの作品ではない。 彼のハガキにかかれた文である。 応召の日、詩人は自室に閉じこもり、膝をだくようにしてチャイコフスキーの「悲愴」を聞いていたそうである。 そしてそのころだされた彼のハガキから。・・・・「うたうたいは うたうたえと きみ言えど 口おもく うたうたえず。うたうたいが うたうたわざれば 死つるよりほか すべならんや。 魚のごと あぼあぼと 生きることこそ悲しけれ・・・。」 生きる悲しみ。深い井戸の底をのぞくような思いにとらわれる。 ・・・・・ 彼の墓は伊勢市の金剛証寺にある。しかし、そこには彼の骨はない。終戦10年後の命日に、最愛の姉松崎こうは次のようにうたう。・・・「一片のみ骨も還らずおくつきに 手ずれし学帽 深く埋めぬ」 ・・・・・まだ涙は乾いてはいないのだ。ああ。
ひさしぶり・・・・・・・逸徳
いそがしく、いろんな一文の得にもならんことにかかわって、わが身を見失いかけておる。 いかんなあ。 眠りが浅いのである。 しっかり飲まんとうつ病になりかねんといったら、知人がおいらの顔をみて大笑いしおった。 ああ、誤解されておるなあ。こんなに神経が細いのに・・・・というわけで、今朝ははやく目がさめてひさしぶりに散歩にでた、一時間強あるいて約5キロ。 で、俳句いくつか。 うつの精神状態での作
大雨の名残で 散歩コースの川は濁って、濁流となっていた・・・・ 海にいく 意志もありけり 濁り川
昨日も雨だった・・・・・ 幼子の 赤いカッパや 若葉梅雨
台風で潮風がこんな内陸まできて・・・・・・ 立ち枯れる ゴーヤのありて 沖縄忌
今日も曇りだ・・・・・ 薄曇り 顔をみせてよ おふじさん
こちらのほととぎすはのんき・・・・・ ほととぎす なきわすれたり 若葉蒼空
・・・・・ なんかむつかしい・・・・
大雨の名残で 散歩コースの川は濁って、濁流となっていた・・・・ 海にいく 意志もありけり 濁り川
昨日も雨だった・・・・・ 幼子の 赤いカッパや 若葉梅雨
台風で潮風がこんな内陸まできて・・・・・・ 立ち枯れる ゴーヤのありて 沖縄忌
今日も曇りだ・・・・・ 薄曇り 顔をみせてよ おふじさん
こちらのほととぎすはのんき・・・・・ ほととぎす なきわすれたり 若葉蒼空
・・・・・ なんかむつかしい・・・・
2012年6月22日金曜日
寒々しい荒廃 ・・・猫跨ぎ
小沢一郎という政治家が舞台を去ろうとしている。新党構想など一芝居打つかに見えるが事実上もう終わりだろう。蝟集した支持者は当選一回目の頼りにならない連中ばかり。我が身大事のベテランはもう逃げ出す構えだろう。
そこへ妻からとんでもない暴露手記が公になった。捏造という説もあるが、本人がピンピンしているのだから一言否定すればすむはなし。沈黙が何よりの証明だ。一見いま、政界では静観のように見えるが、徐々に足元を崩しつつある、間違いなく。
つくづく政治の世界の人間は庶民とはかけ離れた精神構造を持っていると寒心する。仮にも情を交わした相手から自分の政治生命を断つような、あざとい言葉を投げつけられる。これは単純に憎しみ以外の何ものでもない。風雲児ともてはやされた人物の荒廃した夫婦関係、精神風景を見る。
そこへ妻からとんでもない暴露手記が公になった。捏造という説もあるが、本人がピンピンしているのだから一言否定すればすむはなし。沈黙が何よりの証明だ。一見いま、政界では静観のように見えるが、徐々に足元を崩しつつある、間違いなく。
つくづく政治の世界の人間は庶民とはかけ離れた精神構造を持っていると寒心する。仮にも情を交わした相手から自分の政治生命を断つような、あざとい言葉を投げつけられる。これは単純に憎しみ以外の何ものでもない。風雲児ともてはやされた人物の荒廃した夫婦関係、精神風景を見る。
過ぎる と 過る ・・・猫跨ぎ
・杜鵑斜めに考え過ぎてをり
そうか。考えすぎるではなく考えがよぎるということね。すぎるとよぎるは送り仮名で区別するらしい。すぎるは「過ぎる」。よぎるは「過る」。必ずしも一般的に統一されていないけれど、一応、そういう説に従っておこうと思う。というのもわが句会でも時折、問題になるのね。そこで
・杜鵑斜めに考え過りをり
としたら、句意がはっきりした。如何でしょうか。
そうか。考えすぎるではなく考えがよぎるということね。すぎるとよぎるは送り仮名で区別するらしい。すぎるは「過ぎる」。よぎるは「過る」。必ずしも一般的に統一されていないけれど、一応、そういう説に従っておこうと思う。というのもわが句会でも時折、問題になるのね。そこで
・杜鵑斜めに考え過りをり
としたら、句意がはっきりした。如何でしょうか。
2012年6月20日水曜日
函館通信181・・・たまには自句自解・・・仁兵衛
猫跨ぎさん、褌子さん早速の句評有難うございます。たまには自分の句を反省の気持ちを含めて自解してみようと思いました。
・杜鵑斜めに考え過ぎてをり・・・杜鵑は鳥類図鑑では道南には生息しているとはありますが未だ見ても聞いてもいません。北海道に飛来してくる杜鵑は托卵の習性は持ち合わせていない様だとの事。さて、杜鵑は今までに木に止まって鳴いているのを私は見たことが無い。いつもあのへんてこりんの声が頭の上を横切る様に聞いてきた気がする。その事の中に自分の歪曲部分を重ねて見た。
・朴の花天辺で停まる観覧車・・・これは5月に孫と乗った函館公園の観覧車での景からとった。函館公園は日本初の公園であり観覧車も古いのだが同時にやたらちゃっちい。二人掛けのベンチが12個付いているだけ。天辺に停まった時海と桜の散るのが綺麗であった。座っている孫を朴の花に置き換えて作ってみた。
・二人目の逆子体操花水木・・・猫跨ぎさんに指摘されたとおり娘が身ごもって8か月で逆子と診断された。実際は3人目の妊娠なのだが逆子は始めて。一生懸命に医師に言われた逆子体操をしている所に出くわした。何日か経って聞いてみたらもう下の方で赤ん坊がげっぷをしているから大丈夫と思うよと言う。全く男には解らない世界がそこに拡がっていた。
・筋肉の固まりだして七変化・・・函館では紫陽花は未だこれからだ。今日も台風の影響で風雨が強く最高気温も15℃ぐらいと低い。自然と体の動きも悪いし気持ちも晴れてこない。
・半夏生右手届かぬ高望み・・・これも上記の句同様に老化現象による身体の動きの悪さに苛立っている自分を忌み嫌っている。もっとのんびりと考えられないもんかね。
・白牡丹手入れ尽して鬚男・・・九州の熊さんの様な鬚をたくわえた逞しい男が牡丹の手入れを終えてぬっと現れた景である。牡丹は北海道では極めて少ない。ここははじめ白バラであったが牡丹の貴重さに惹かれてしまった。
・杜鵑斜めに考え過ぎてをり・・・杜鵑は鳥類図鑑では道南には生息しているとはありますが未だ見ても聞いてもいません。北海道に飛来してくる杜鵑は托卵の習性は持ち合わせていない様だとの事。さて、杜鵑は今までに木に止まって鳴いているのを私は見たことが無い。いつもあのへんてこりんの声が頭の上を横切る様に聞いてきた気がする。その事の中に自分の歪曲部分を重ねて見た。
・朴の花天辺で停まる観覧車・・・これは5月に孫と乗った函館公園の観覧車での景からとった。函館公園は日本初の公園であり観覧車も古いのだが同時にやたらちゃっちい。二人掛けのベンチが12個付いているだけ。天辺に停まった時海と桜の散るのが綺麗であった。座っている孫を朴の花に置き換えて作ってみた。
・二人目の逆子体操花水木・・・猫跨ぎさんに指摘されたとおり娘が身ごもって8か月で逆子と診断された。実際は3人目の妊娠なのだが逆子は始めて。一生懸命に医師に言われた逆子体操をしている所に出くわした。何日か経って聞いてみたらもう下の方で赤ん坊がげっぷをしているから大丈夫と思うよと言う。全く男には解らない世界がそこに拡がっていた。
・筋肉の固まりだして七変化・・・函館では紫陽花は未だこれからだ。今日も台風の影響で風雨が強く最高気温も15℃ぐらいと低い。自然と体の動きも悪いし気持ちも晴れてこない。
・半夏生右手届かぬ高望み・・・これも上記の句同様に老化現象による身体の動きの悪さに苛立っている自分を忌み嫌っている。もっとのんびりと考えられないもんかね。
・白牡丹手入れ尽して鬚男・・・九州の熊さんの様な鬚をたくわえた逞しい男が牡丹の手入れを終えてぬっと現れた景である。牡丹は北海道では極めて少ない。ここははじめ白バラであったが牡丹の貴重さに惹かれてしまった。
嵐あけて仁句を鑑賞す・・・褌子
ゆんべの嵐はすごかったな。こんな時期にこんな台風がくるなんて。
・杜鵑斜めに考え過ぎてをり
杜鵑がホトトギスとよめず、杜若=カキツバタだと思ってしまった。
アオサギなどは田んぼのまんなかでひとりぽつねんと斜めに首をかしげて哲学者風に考えにふけっているが。託卵の悪癖があり夜中でもうるさく鳴くホトトギスは沈思黙考とはおよそ縁遠い。季語との配合に難点があるのではなかろうか。しかし、ホトトギスのあのキョキョッという鳴き声は万葉の時代から日本人の心につよい印象をあたえてきたようだ。
字引をひいてみたら霍公鳥・郭公・時鳥・子規・杜宇・不如帰・沓手鳥・蜀魂とあるわあるわ。喀血に悩む子規が、鳴いて血を吐くほととぎすから、自虐的に子規と名のったときいたことがある。
・朴の花天辺で停まる観覧車
準特選。
うごいているんだか、とまってんだかはっきりしないような大きな観覧車は風情があります。小生も観覧車にのってGさんとふたりっきりで下界をみおろしたかったなあ。夏山の高木の朴の木を渡る風もなかなか風情がありますね。
朴の花はタイザンボクみたいな白い大きな花だね。朴とトチの葉は有柄長楕円形で実に似ているがトチの柄のほうが複葉長柄で対生なんだ(しったかぶり)
・二人目の逆子体操花水木
逆子体操というのは? デンマーク体操ならきいたことあるが。
・あふりかの天道虫や砂の色
アフリカといわず、あふりかと洒落たのが面白いが、いい線いってるが、何だろうもうひとつ余韻がない。あふりかといえばサハラ砂漠だが砂漠にもテントウムシがいるんだねえ。辞典には天道虫・瓢虫・紅娘・店頭虫いろいろあるが紅娘なんて愛嬌だなあ。いちおう特選。
・今朝のこと少しは薄れ夏暖簾
夏暖簾いいねえ。
今朝のことなんて婉曲話法でなくずばりいきたい。夏暖簾夫婦喧嘩も疲れるな 江戸川柳だと新婚さん 今朝のことちょっと疲れる夏暖簾 てな調子。うちは喧嘩するときには、仲直りのタイミングが難しいのでほどほどにしている。
・ときめきをそっと拾ひて落し文
ときめきと落し文が近すぎ。二物衝撃がおきないのが残念無念。一葉忌密かに拾ふ落し文(?)なら小生の場合ときめくなあ。落し文、なんとも味のある季語だな。
・筋肉の固まりだして七変化
面白い句材だが「固まりだして」がすっきりしない。
七変化が紫陽花の異称だから日本語は粋。
筋肉の固まる齢(よわい)七変化(?)
・すくすくと顕微鏡下やカビ胞子
カビが夏の季語だと知った。カビは陰性だから「すくすく」が似合わないのではないか。
徐(おもむ)ろに黴がはびこるけはひあり 松本たかしのパロディで、秘めやかにカビがはびこる縁の下(笑)
・半夏生右手届かぬ高望み
半夏生はいい季語だが、なんかもどっかしいね。右手届かぬと高望みとが同義語めいているせいか。
・白牡丹手入れ尽して鬚男
特選かもしれない。
手入れ尽くして…とか固まりだして…とか…でなく瞬間を切り取る潔さがほしい。
白牡丹手入れをつくすひげ男 とか単純明快ではだめですか
・杜鵑斜めに考え過ぎてをり
杜鵑がホトトギスとよめず、杜若=カキツバタだと思ってしまった。
アオサギなどは田んぼのまんなかでひとりぽつねんと斜めに首をかしげて哲学者風に考えにふけっているが。託卵の悪癖があり夜中でもうるさく鳴くホトトギスは沈思黙考とはおよそ縁遠い。季語との配合に難点があるのではなかろうか。しかし、ホトトギスのあのキョキョッという鳴き声は万葉の時代から日本人の心につよい印象をあたえてきたようだ。
字引をひいてみたら霍公鳥・郭公・時鳥・子規・杜宇・不如帰・沓手鳥・蜀魂とあるわあるわ。喀血に悩む子規が、鳴いて血を吐くほととぎすから、自虐的に子規と名のったときいたことがある。
・朴の花天辺で停まる観覧車
準特選。
うごいているんだか、とまってんだかはっきりしないような大きな観覧車は風情があります。小生も観覧車にのってGさんとふたりっきりで下界をみおろしたかったなあ。夏山の高木の朴の木を渡る風もなかなか風情がありますね。
朴の花はタイザンボクみたいな白い大きな花だね。朴とトチの葉は有柄長楕円形で実に似ているがトチの柄のほうが複葉長柄で対生なんだ(しったかぶり)
・二人目の逆子体操花水木
逆子体操というのは? デンマーク体操ならきいたことあるが。
・あふりかの天道虫や砂の色
アフリカといわず、あふりかと洒落たのが面白いが、いい線いってるが、何だろうもうひとつ余韻がない。あふりかといえばサハラ砂漠だが砂漠にもテントウムシがいるんだねえ。辞典には天道虫・瓢虫・紅娘・店頭虫いろいろあるが紅娘なんて愛嬌だなあ。いちおう特選。
・今朝のこと少しは薄れ夏暖簾
夏暖簾いいねえ。
今朝のことなんて婉曲話法でなくずばりいきたい。夏暖簾夫婦喧嘩も疲れるな 江戸川柳だと新婚さん 今朝のことちょっと疲れる夏暖簾 てな調子。うちは喧嘩するときには、仲直りのタイミングが難しいのでほどほどにしている。
・ときめきをそっと拾ひて落し文
ときめきと落し文が近すぎ。二物衝撃がおきないのが残念無念。一葉忌密かに拾ふ落し文(?)なら小生の場合ときめくなあ。落し文、なんとも味のある季語だな。
・筋肉の固まりだして七変化
面白い句材だが「固まりだして」がすっきりしない。
七変化が紫陽花の異称だから日本語は粋。
筋肉の固まる齢(よわい)七変化(?)
・すくすくと顕微鏡下やカビ胞子
カビが夏の季語だと知った。カビは陰性だから「すくすく」が似合わないのではないか。
徐(おもむ)ろに黴がはびこるけはひあり 松本たかしのパロディで、秘めやかにカビがはびこる縁の下(笑)
・半夏生右手届かぬ高望み
半夏生はいい季語だが、なんかもどっかしいね。右手届かぬと高望みとが同義語めいているせいか。
・白牡丹手入れ尽して鬚男
特選かもしれない。
手入れ尽くして…とか固まりだして…とか…でなく瞬間を切り取る潔さがほしい。
白牡丹手入れをつくすひげ男 とか単純明快ではだめですか
2012年6月19日火曜日
六月仁句鑑賞・・・猫跨ぎ
率直な印象をいえば、今回はストレートに伝わるものがすくない。第一句の「斜めに考え過ぎてをり」が全面に覆っているように思えた。
・杜鵑斜めに考え過ぎてをり
いきなり難解句。考えすぎているのが、杜鵑なのか、作者なのか。しかも斜めに考えるとあるので、ちょっとこれ以上は。くぐもった鳴き声からの連想とは思うが。
・朴の花天辺で停まる観覧車
朴の花と天辺で停まった観覧車の取り合わせ。朴の花にどんな想念が湧くかは各自に任されてはいるが、さて。
・二人目の逆子体操花水木
例えば娘さんが二度目の逆子を身籠もっているとか。逆子を正常位置に戻す体操と思われる。余談だが、一年前出産した娘が逆子だった。ついに直らず、それ専門の産院で逆子のまま通常分娩で無事 乗り切った。翌日見舞いに行くと娘はけろりとしている。女の身体は男には永遠に判らない。
・あふりかの天道虫や砂の色
博物館で見たのかな。あふりかといえば、象牙海岸、奴隷海岸、黄金海岸という地名があったころを不思議と考える。これも余談。
・今朝のこと少しは薄れ夏暖簾
夫婦喧嘩などありましたか。
・ときめきをそっと拾ひて落し文
落し文って不思議な季語。無造作に転がっているのだけれど。
・筋肉の固まりだして七変化
紫陽花の開花に筋肉の固まりを見たのかな。
・すくすくと顕微鏡下やカビ胞子
「顕微鏡下の」としないところに、思い入れがあるのか。上のあふりかの句もそうだけれど、「や」で切ると、ふつうは視点が別のことに転ずるのだが、この辺はどうなのだろう。
・半夏生右手届かぬ高望み
む?変な想像をするが、まあ思い過ごしか。ちょっと心象的なものと理解しておこう。
・白牡丹手入れ尽して鬚男
紺屋の白袴的な地合かな。本意がいまいち判らなかった。
・杜鵑斜めに考え過ぎてをり
いきなり難解句。考えすぎているのが、杜鵑なのか、作者なのか。しかも斜めに考えるとあるので、ちょっとこれ以上は。くぐもった鳴き声からの連想とは思うが。
・朴の花天辺で停まる観覧車
朴の花と天辺で停まった観覧車の取り合わせ。朴の花にどんな想念が湧くかは各自に任されてはいるが、さて。
・二人目の逆子体操花水木
例えば娘さんが二度目の逆子を身籠もっているとか。逆子を正常位置に戻す体操と思われる。余談だが、一年前出産した娘が逆子だった。ついに直らず、それ専門の産院で逆子のまま通常分娩で無事 乗り切った。翌日見舞いに行くと娘はけろりとしている。女の身体は男には永遠に判らない。
・あふりかの天道虫や砂の色
博物館で見たのかな。あふりかといえば、象牙海岸、奴隷海岸、黄金海岸という地名があったころを不思議と考える。これも余談。
・今朝のこと少しは薄れ夏暖簾
夫婦喧嘩などありましたか。
・ときめきをそっと拾ひて落し文
落し文って不思議な季語。無造作に転がっているのだけれど。
・筋肉の固まりだして七変化
紫陽花の開花に筋肉の固まりを見たのかな。
・すくすくと顕微鏡下やカビ胞子
「顕微鏡下の」としないところに、思い入れがあるのか。上のあふりかの句もそうだけれど、「や」で切ると、ふつうは視点が別のことに転ずるのだが、この辺はどうなのだろう。
・半夏生右手届かぬ高望み
む?変な想像をするが、まあ思い過ごしか。ちょっと心象的なものと理解しておこう。
・白牡丹手入れ尽して鬚男
紺屋の白袴的な地合かな。本意がいまいち判らなかった。
2012年6月18日月曜日
函館通信180・・・読書から俳句・・・仁兵衛
読書家の褌子さんにとっては漱石全集は最高ではないのかい。読書は筋・内容を理解楽しむ読み方がある一方作者の言葉表現から新しい言葉の意味を深く理解する楽しみ方があると思っている。まさに作句材料の宝庫とも言ってよいと思うんだがどうだろう。褌子さんの高い読書力からこれから素晴らしい句が生み出されてくるのを大いに期待してますよ。
当方はどちらかと言うと読むのが遅い上に少ないので句作も本当に四苦八苦しています。遅れましたが今月分のお支払いです。お受け取り下さい。
・杜鵑斜めに考え過ぎてをり
・朴の花天辺で停まる観覧車
・二人目の逆子体操花水木
・あふりかの天道虫や砂の色
・今朝のこと少しは薄れ夏暖簾
・ときめきをそっと拾ひて落し文
・筋肉の固まりだして七変化
・すくすくと顕微鏡下やカビ胞子
・半夏生右手届かぬ高望み
・白牡丹手入れ尽して鬚男
当方はどちらかと言うと読むのが遅い上に少ないので句作も本当に四苦八苦しています。遅れましたが今月分のお支払いです。お受け取り下さい。
・杜鵑斜めに考え過ぎてをり
・朴の花天辺で停まる観覧車
・二人目の逆子体操花水木
・あふりかの天道虫や砂の色
・今朝のこと少しは薄れ夏暖簾
・ときめきをそっと拾ひて落し文
・筋肉の固まりだして七変化
・すくすくと顕微鏡下やカビ胞子
・半夏生右手届かぬ高望み
・白牡丹手入れ尽して鬚男
2012年6月17日日曜日
名著複刻漱石文学館・・・褌子
九六歳になる知り合いのおじさんが「老人ホームに入るので本もらってくれ」と電話をかけてきた。
日本近代文学館昭和50年発行の『漱石文学館』二三点二五冊をそっくりいただいた。
明治三〇年代から、橋口五葉、津田楓風、漱石自身の装丁による絢爛豪華な漱石本の原形をとどめている初版本をすべて集めてつぶれた活字も当時そのまま複刻したもの。天金のかすれようもそのままという凝りよう。(昭和40年発行の岩波の漱石全集をもらうよりもはるかにうれしい)
『木屑録』という二二歳の高等中学時代に房総に旅行したときの記録も毛筆のまま複刻和装されている。 『木屑録』は漱石が他人に見せることを目的に書いた最初のものらしい。正岡子規に読んでもらうことを目的として書かれ、子規から刺激され書いたものであることが巻尾の「明治二十二年十月獺祭漁夫常規謹んで識す」の批評でわかる。獺祭は子規のペンネーム。若き漱石の漢詩や俳句三句を同じく明治維新の前年生まれの漱石と同年の子規が朱書で直しているのも面白い。
日本近代文学館昭和50年発行の『漱石文学館』二三点二五冊をそっくりいただいた。
明治三〇年代から、橋口五葉、津田楓風、漱石自身の装丁による絢爛豪華な漱石本の原形をとどめている初版本をすべて集めてつぶれた活字も当時そのまま複刻したもの。天金のかすれようもそのままという凝りよう。(昭和40年発行の岩波の漱石全集をもらうよりもはるかにうれしい)
『木屑録』という二二歳の高等中学時代に房総に旅行したときの記録も毛筆のまま複刻和装されている。 『木屑録』は漱石が他人に見せることを目的に書いた最初のものらしい。正岡子規に読んでもらうことを目的として書かれ、子規から刺激され書いたものであることが巻尾の「明治二十二年十月獺祭漁夫常規謹んで識す」の批評でわかる。獺祭は子規のペンネーム。若き漱石の漢詩や俳句三句を同じく明治維新の前年生まれの漱石と同年の子規が朱書で直しているのも面白い。
2012年6月16日土曜日
南仏から帰る・・・・褌子
猫跨ぎさん遠いところからレスポンスありがとう。夕べ帰ってきたところ。
「宗教改革」の本場ドイツにもカトリックを信奉する地域が残っているとは知りませんでした。 外国で生牡蠣など二度と食べません。野外レストランで、つんと高い鼻にサングラスのフランス女性がアムール貝をテンコモリにしてしゃぶっているもんで、つい生牡蠣を頼んでしまった。
気をつけよう フランス美人 生の牡蠣
今回できた俳句はこれだけです。牡蠣は冬の季語だなあ。
―――――
パリのまちは行ったことないが、経由したパリ空港の職員は4割ちかく黒人かもしれないという感じ。マルセイユはいつも青空で半袖でも暑かったがパリ空港は雨で寒い。【写真:田舎の道にローマ橋】
地中海の向こうのサハラ砂漠以北を全部植民地にしてさんざん搾り取ってきた過去をもつから、大量移民流入をおおかたのフランス人は許容しているのかも知れない。が、仕事がない青年たちは反感をもっているにちがいない。これがフランス右翼台頭の背景。(ドイツではネオナチがトルコ系の移民を襲撃したというニュースもいぜんあった。ヒットラーも一次大戦敗北後の不況で苦しむ民衆の支持で合法的に政権をとった。日本では格差社会で閉塞感をもつ青年たちが大阪の橋下市長を熱狂的に支持している)
先日のマルセイユからの発信でトラックが走ってないなどと書いたが、あれは日曜のせいだった。月曜日に、マルセイユ駅まで歩いてみたが、トラックがけっこう走っていた。店舗の改装現場を通ったがのんびりくわえタバコで仕事をしていた。子どもが多い(日本と比べてだが)。どこでも乳母車を父親がおしている光景がほほえましい。静かなカトリックのまちも保育所や学校からはにぎやかな子どもの声が盛んに聞こえてくる。肌の色に関係なく仲良く庶民の子供たちが街中でにぎやかに遊んでいる。 朝のマルセイユ駅はまさに人種のるつぼ。白人警官がイスラム系の男を身体検査しているのを目撃したし、ベレー帽迷彩服の兵士も小銃もって巡回している。自警団なのかセキュリテイと書いた赤シャツの黒人が二人組で歩いている。
マルセイユ港からはアルジェやモロッコ、チュニジア、コルシカ島などへの直行船便がでている。
こんなことを書いている黄色人種の私がいつのまにやら白人の目でアフリカ系移民を眺めていることに気づいた。ネルソン・マンデラ自伝『自由への長い道』ではアフリカ人の立場でアパルトヘイト打破に苦悩するマンデラを応援しつつ読み進んでいるところというのに。
電車に乗って小さな港町LesstacとPortDeBoucで降りた。銚子や勝浦みたいに港に漁船がみあたらない。魚の匂いも磯の香りもしない。ヨットが所狭しと係留され澄んだ水に浮かんでいる。バケーションで二ヶ月も夏休みになるとパリを空っぽにして南仏海岸へ舟遊びにくるということはこういうことなんだろうなと思った。
夕方7時頃、八百屋さんでサクランボ買おうと10ユーロ紙幣をだしているのに、もう閉店ですよとあっさり断られた。こんなに明るいのにと思ったが、24時間、電灯つけている日本式コンビニのほうが異常なのだ。
三日目、マルセイユからバスで一時間、昔、プロヴァンスの首都でもあったエクス・アン・プロヴァンスというセザンヌや小説家ゾラゆかりの町に向かう。美術館と聖堂そばの古いホテルに泊まったがドアは壊れているしお湯もすぐ停まるし蚊にも刺されたが素泊まり四千円。聖堂の鐘で目を醒まし、カトリックの国にきたことを実感する。かたいフランスパンをかじりながら窓からトチの木(マロニエ)やプラタナスの巨木をみる。
リュブロンという田園をジャンボタクシーで乗り合わせてまわった。ゴッホの絵にあるような麦畑、葡萄畑、ラベンダー畑にフランスは今も農業国なんだと実感する。ローマ時代の石の橋とエニシダの黄色。(食料自給率170%。日本は39%。TPPに加盟したら13%になる)【写真:農道わきにもマリア様】
運転手のクリス君は札幌日本語学院に留学していて、ススキノでバイトしました。道産子ラーメンは素晴らしいなんていう日本通。「フランスの核兵器所有に反対ですが、電力は75%が原発なのでもうやめられません…」とクリス君。日本みたいに地震がないからなあと私が知ったかぶりをしたら「いや百年くらい前に大地震がありました」という。
パリからきたおばあさんとクリス君の通訳で話をした。日本人だと知って、あんな遠い遠いところから来てたった四日間の観光で本当に帰ってしまうの!と目をまるくしていた。
四日目はセザンヌがイーゼルをかついで毎日小山にのぼり、プロバンスの名峰サント・ヴィクトアール山を何百枚も描いたという「セザンヌの道」を訪ねた。トロネという駅まで一時間、バスに百円くらいで乗る。途中でへたばって山道の真ん中で座り込んで汗をふいていたら、ハイキングにきた短パン姿の女性たちが「もうちょっとよ、がんばってね」と声をかけて降りてゆく。フランス語はぜんぜんわからないのだが目があうと必ずニッコリするので何を言ってるのかはわかるのである。【写真:サントヴィクトワール山】
サント・ヴィクトアール山が松林のむこうにみえてきた。セザンヌ、ゴッホ、ルノアールなど近代絵画の創始者たちもピカソやマティスなど現代画の巨人達もこよなく愛した南仏プロバンスの風と光。
―――――
カトリックの国がプロテスタントの国民より怠け者なのか享楽的なのかは、正味たった四日間の滞在ではさっぱりわからない。しかし最近の日本人のほうがはるかにこき使われており、こせこせとせわしく生きざるを得なくなっていることだけは実感できた短い南仏の旅だった。
「宗教改革」の本場ドイツにもカトリックを信奉する地域が残っているとは知りませんでした。 外国で生牡蠣など二度と食べません。野外レストランで、つんと高い鼻にサングラスのフランス女性がアムール貝をテンコモリにしてしゃぶっているもんで、つい生牡蠣を頼んでしまった。
気をつけよう フランス美人 生の牡蠣
今回できた俳句はこれだけです。牡蠣は冬の季語だなあ。
―――――
パリのまちは行ったことないが、経由したパリ空港の職員は4割ちかく黒人かもしれないという感じ。マルセイユはいつも青空で半袖でも暑かったがパリ空港は雨で寒い。【写真:田舎の道にローマ橋】
地中海の向こうのサハラ砂漠以北を全部植民地にしてさんざん搾り取ってきた過去をもつから、大量移民流入をおおかたのフランス人は許容しているのかも知れない。が、仕事がない青年たちは反感をもっているにちがいない。これがフランス右翼台頭の背景。(ドイツではネオナチがトルコ系の移民を襲撃したというニュースもいぜんあった。ヒットラーも一次大戦敗北後の不況で苦しむ民衆の支持で合法的に政権をとった。日本では格差社会で閉塞感をもつ青年たちが大阪の橋下市長を熱狂的に支持している)
先日のマルセイユからの発信でトラックが走ってないなどと書いたが、あれは日曜のせいだった。月曜日に、マルセイユ駅まで歩いてみたが、トラックがけっこう走っていた。店舗の改装現場を通ったがのんびりくわえタバコで仕事をしていた。子どもが多い(日本と比べてだが)。どこでも乳母車を父親がおしている光景がほほえましい。静かなカトリックのまちも保育所や学校からはにぎやかな子どもの声が盛んに聞こえてくる。肌の色に関係なく仲良く庶民の子供たちが街中でにぎやかに遊んでいる。 朝のマルセイユ駅はまさに人種のるつぼ。白人警官がイスラム系の男を身体検査しているのを目撃したし、ベレー帽迷彩服の兵士も小銃もって巡回している。自警団なのかセキュリテイと書いた赤シャツの黒人が二人組で歩いている。
マルセイユ港からはアルジェやモロッコ、チュニジア、コルシカ島などへの直行船便がでている。
こんなことを書いている黄色人種の私がいつのまにやら白人の目でアフリカ系移民を眺めていることに気づいた。ネルソン・マンデラ自伝『自由への長い道』ではアフリカ人の立場でアパルトヘイト打破に苦悩するマンデラを応援しつつ読み進んでいるところというのに。
電車に乗って小さな港町LesstacとPortDeBoucで降りた。銚子や勝浦みたいに港に漁船がみあたらない。魚の匂いも磯の香りもしない。ヨットが所狭しと係留され澄んだ水に浮かんでいる。バケーションで二ヶ月も夏休みになるとパリを空っぽにして南仏海岸へ舟遊びにくるということはこういうことなんだろうなと思った。
夕方7時頃、八百屋さんでサクランボ買おうと10ユーロ紙幣をだしているのに、もう閉店ですよとあっさり断られた。こんなに明るいのにと思ったが、24時間、電灯つけている日本式コンビニのほうが異常なのだ。
三日目、マルセイユからバスで一時間、昔、プロヴァンスの首都でもあったエクス・アン・プロヴァンスというセザンヌや小説家ゾラゆかりの町に向かう。美術館と聖堂そばの古いホテルに泊まったがドアは壊れているしお湯もすぐ停まるし蚊にも刺されたが素泊まり四千円。聖堂の鐘で目を醒まし、カトリックの国にきたことを実感する。かたいフランスパンをかじりながら窓からトチの木(マロニエ)やプラタナスの巨木をみる。
リュブロンという田園をジャンボタクシーで乗り合わせてまわった。ゴッホの絵にあるような麦畑、葡萄畑、ラベンダー畑にフランスは今も農業国なんだと実感する。ローマ時代の石の橋とエニシダの黄色。(食料自給率170%。日本は39%。TPPに加盟したら13%になる)【写真:農道わきにもマリア様】
運転手のクリス君は札幌日本語学院に留学していて、ススキノでバイトしました。道産子ラーメンは素晴らしいなんていう日本通。「フランスの核兵器所有に反対ですが、電力は75%が原発なのでもうやめられません…」とクリス君。日本みたいに地震がないからなあと私が知ったかぶりをしたら「いや百年くらい前に大地震がありました」という。
パリからきたおばあさんとクリス君の通訳で話をした。日本人だと知って、あんな遠い遠いところから来てたった四日間の観光で本当に帰ってしまうの!と目をまるくしていた。
四日目はセザンヌがイーゼルをかついで毎日小山にのぼり、プロバンスの名峰サント・ヴィクトアール山を何百枚も描いたという「セザンヌの道」を訪ねた。トロネという駅まで一時間、バスに百円くらいで乗る。途中でへたばって山道の真ん中で座り込んで汗をふいていたら、ハイキングにきた短パン姿の女性たちが「もうちょっとよ、がんばってね」と声をかけて降りてゆく。フランス語はぜんぜんわからないのだが目があうと必ずニッコリするので何を言ってるのかはわかるのである。【写真:サントヴィクトワール山】
サント・ヴィクトアール山が松林のむこうにみえてきた。セザンヌ、ゴッホ、ルノアールなど近代絵画の創始者たちもピカソやマティスなど現代画の巨人達もこよなく愛した南仏プロバンスの風と光。
―――――
カトリックの国がプロテスタントの国民より怠け者なのか享楽的なのかは、正味たった四日間の滞在ではさっぱりわからない。しかし最近の日本人のほうがはるかにこき使われており、こせこせとせわしく生きざるを得なくなっていることだけは実感できた短い南仏の旅だった。
2012年6月11日月曜日
実に結構・・・猫跨ぎ
いや実に結構ですな。しかし好事魔多し。アムール貝に当たらぬようにね。大昔、ツアーの同行者が、パリで洒落て生牡蠣をレモンを垂らしてたらふく食ったはいいが当たって散々な目に遭っていた。外地では生ものは気を付けねばね。
ドイツしか知らないが、ドイツ全部がプロテスタントではない。バイエルン(ドイツ南部)はカトリックの色が濃い。滞在していたRain am Lechの街の中央には或る武将の銅像が建っていた。彼は宗教戦争時にこの地方の新教側を打ち破った旧教側の英雄。ツイリーという名で、彼の名を冠した料理がいまもある。大きなカトリックの教会が町の中心にあってあたりを睥睨している。プロテスタント寺院と言えば、町の郊外にひっそりとあった。
北ドイツと南ドイツの気質の差はよくは知らない。しかしドイツ人の堅実な生活振りは随所に見せてもらった。それより、アルプスが隔てる南北の人種的、地政学的違いが圧倒的なんだろうね。
この辺の大都会アウグスブルグには、カトリック/プロテスタント共同運営の教会があって、実に興味深い。融和の象徴とか言っていた。
当時ユーロはまだなかったから、比較は出来ないが、円は相当に高くなっているはず。2年ほど前はたしか160~170円/ユーロだった。今は100円切っているからね。使い出があるね。羨ましい。
ドイツしか知らないが、ドイツ全部がプロテスタントではない。バイエルン(ドイツ南部)はカトリックの色が濃い。滞在していたRain am Lechの街の中央には或る武将の銅像が建っていた。彼は宗教戦争時にこの地方の新教側を打ち破った旧教側の英雄。ツイリーという名で、彼の名を冠した料理がいまもある。大きなカトリックの教会が町の中心にあってあたりを睥睨している。プロテスタント寺院と言えば、町の郊外にひっそりとあった。
北ドイツと南ドイツの気質の差はよくは知らない。しかしドイツ人の堅実な生活振りは随所に見せてもらった。それより、アルプスが隔てる南北の人種的、地政学的違いが圧倒的なんだろうね。
この辺の大都会アウグスブルグには、カトリック/プロテスタント共同運営の教会があって、実に興味深い。融和の象徴とか言っていた。
当時ユーロはまだなかったから、比較は出来ないが、円は相当に高くなっているはず。2年ほど前はたしか160~170円/ユーロだった。今は100円切っているからね。使い出があるね。羨ましい。
マルセイユから・・・褌子
フランス第二の都市といっても人口80万。古代ギリシア、ローマ時代からの港町でたくさんの彫像が街中に建っている。しかし町全体がゴミっぽく汚れている。何となく、道行く人も仕事をしてない印象。都心に住んでいるのは低所得層とアフリカ系などの移民が大部分で、ほかのフランス人は郊外に住んでいるらしい。車がたくさん道に路上駐車している。ルノーなどフランス車のほかにドイツ車も多い。日本車は少ない。どれもホコリをかぶっているが日本のようにぴかぴかにして乗っているのは日本だけの現象かもしれない。トラックがほとんど走ってないということは仕事がないということではないか。道路が白っぽい。周辺の山も全部、石灰岩。大理石が豊富なわけだ。雨がめったに降らないところらしい。
きょう、バスに40分乗ってCASSISという観光地に行ったら地中海のきれいな水にヨットがたくさん繋留されていてゴミも落ちてなくイタリア人などの観光客で賑わっていました。警官とかゴミ収集車が黒人だった。アムール貝をたくさん食べてワインを飲む。生牡蠣はやせていてまずかった。こちらも大食いだが隣のマドモアゼルがアムール貝を小山にしてしゃぶりついているのにはあきれた。眼と目があってボンジュールと無意味なほほえみを交わした。この10年くらいで円高ユーロ安で日本円の価値が二倍になったそうだ。今秋のhorohorokaiの旅行はギリシアへ行けば豪勢に飲んだり喰ったりできて希臘財政再建に貢献できそう(笑い)
カトリック系の国にきたのははじめてだが、プロテスタントの国に比べて時間がゆっくり過ぎている感じ。すべては神の思し召しのまま、のんびり働いて飲んで遊んで死ねばマリア様がまっててくれる。イタリアが極端だがフランスも北と南では雰囲気が違うのではないか。猫跨ぎさんのいうごとくドイツや北欧系の勤勉ぶりとは明らかにちがう。日本人の清潔好き、仕事好きはたしかにドイツ型だね。ヨーロッパは宗教と気候が関係があるだろう。古代ローマ帝国からみればいわゆる蛮族の住む辺境の地が今ではヨーロッパ文化発祥のギリシア、ローマを圧倒しているのが面白い。
日本人と日本文化のほうは、東アジア全体のなかでどうみればいいのか。そんなことも興味があって加藤周一『序説日本文学史』を時差惚けした頭で夜半読み出した。
【写真:紺碧の地中海の入り江に遊びに熱心なヨットが数え切れないほど。白い石灰岩のせいか海の色は日本近海とちがう】
安宿だが無線ランなので発信できた。明日から漁村を歩いて何もないもっと安いところに泊まるかも。
2012年6月9日土曜日
re:或る分類・・・・褌子
↓の猫跨ぎ説をさっそく検証するべく、謹厳実直なプロテスタント諸国に比べてカトリック諸国がどんな具合に享楽的なのか、イタリアとの国境ちかい南フランスを今日から一週間、旅してくることにした。この打てば響く軽快な反応が誠にこころよい。旅の途中でワイン飲みながら感想を発信したい。 HAIKU? 無論つくりたいね。
夏きたるワインはやっぱりプロヴァンス
夏きたるワインはやっぱりプロヴァンス
2012年6月8日金曜日
或る分類・・・猫跨ぎ
ヨーロッパで経済危機に陥っている国(ギリシア、イタリア、スペイン、ポルトガル、フランスもあやしい)の宗教がカトリックで、まあ大丈夫なのが(ドイツ、イギリス、オランダ、デンマーク、北欧)、プロテスタントという色分けがされるというのは偶然ではないらしい。これは注目に値する。
プロテスタントは自己責任の意識が強い。刻苦勉励して財をなすことは神の教えに叶うとする。そう、マックスウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はこの辺の分析だろう。一方、カトリックは蓄財をやや悪と見なす気分がある。その分、現世の享楽に流れる処がある。日本人の行動様式はあきらかにプロテスタント的なのだろう。
注)ギリシアはギリシア正教だが、カトリックに近い。
プロテスタントは自己責任の意識が強い。刻苦勉励して財をなすことは神の教えに叶うとする。そう、マックスウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はこの辺の分析だろう。一方、カトリックは蓄財をやや悪と見なす気分がある。その分、現世の享楽に流れる処がある。日本人の行動様式はあきらかにプロテスタント的なのだろう。
注)ギリシアはギリシア正教だが、カトリックに近い。
平凡に生きる・・・・褌子
新左翼とオウムは奥深いところで通底しているのに違いない、というのは全くその通りだ。オウム真理教は革マル派や中核派ができなかったことをやってみせるといっていたから。極左と極右とはきわめて近い。かれらのマインドコントロール技術については関心があるので書きたいが、すこし、話をもどす。
先週、佐渡の小中学の同級会にいったときのこと、宴席でノリちゃんという女性が隣に座った。全く目立たないおとなしい女の子だった。小学2、3年ころにいっしょに学校から帰った記憶がかすかにあるだけで、いわば60年ぶりに話したことになる。近所の農家に嫁にいって、いまは10人も孫がいますとぽつんと話してくれた。地味と無口さは昔のまんまだが幸せな老後を迎えていることは雰囲気ですぐわかる。
中学卒業のとき、女の先生が「平凡に生きることのなかに幸福がある」と黒板に書いてくれたことを思い出した。先年、ほろほろ会で鶴岡の藤沢周平記念館を訪ねたときにも、「幸せというものは庶民の平凡な日々の営みのなかにある」と父はいつも家族に話していたと娘が述懐している文章が展示されていたことも思い出した。
昭和33年、村の中学では150人が一緒に卒業した。8割が島外へ。古希記念で久しぶりに佐渡でやった同級会には47人集まったが12人の死亡が発表された。家族の介護や自分の病気、家業不振など家庭の事情で出席できなかった同級生もたくさんいたにちがいない。
先週、佐渡の小中学の同級会にいったときのこと、宴席でノリちゃんという女性が隣に座った。全く目立たないおとなしい女の子だった。小学2、3年ころにいっしょに学校から帰った記憶がかすかにあるだけで、いわば60年ぶりに話したことになる。近所の農家に嫁にいって、いまは10人も孫がいますとぽつんと話してくれた。地味と無口さは昔のまんまだが幸せな老後を迎えていることは雰囲気ですぐわかる。
中学卒業のとき、女の先生が「平凡に生きることのなかに幸福がある」と黒板に書いてくれたことを思い出した。先年、ほろほろ会で鶴岡の藤沢周平記念館を訪ねたときにも、「幸せというものは庶民の平凡な日々の営みのなかにある」と父はいつも家族に話していたと娘が述懐している文章が展示されていたことも思い出した。
昭和33年、村の中学では150人が一緒に卒業した。8割が島外へ。古希記念で久しぶりに佐渡でやった同級会には47人集まったが12人の死亡が発表された。家族の介護や自分の病気、家業不振など家庭の事情で出席できなかった同級生もたくさんいたにちがいない。
2012年6月6日水曜日
オウム真理教・・・猫跨ぎ
オウム真理教の指名手配犯の最後の一人が捜査の網に落ちるのも間近か。菊池直子という女性の捕まるまでの日常がワイドショーの格好の材料になっている。これまで報道された関係者は、みな共通して真面目でちょっと求道的な気質の面々だ。こういう若者だからこそカルトに落ち込んでいったのだろう。オウムに遭遇していなければ、社会の各々の分野で信頼されむしろ指導的な役割をはたしていたに違いない。菊池直子なんかは、サリンなどよく知らず使い走りをさせられただけらしい。生真面目そうな顔をみていると、このままそっとしておいてやりたかった気分だね。とにかく可哀相としかいえない。
麻原に国家権力奪取という妄想がとりついたのが事の発端とも。新左翼が極端な反社会的な行動に走ったのと同じころだ。両者が奥深いところで通底しているのに違いない。あの頃何があったのだろう。それは今でも続いているのろうか。
麻原に国家権力奪取という妄想がとりついたのが事の発端とも。新左翼が極端な反社会的な行動に走ったのと同じころだ。両者が奥深いところで通底しているのに違いない。あの頃何があったのだろう。それは今でも続いているのろうか。
そうだ、大地震も考えると・・・ 褌子
“経済成長を前提にした社会モデルに固執するのはやめて次の社会モデルを準備した方がいい”という熊さんの問題提起に共感している。田舎の減反の田んぼに太陽光パネル並べるとか地熱発電所と露天風呂をたくさんつくるとかやって水も空気も野菜もおいしい田舎でみんな質素に自給自足で暮らそう。そうすると仕事ができてきて子供たちもだんだん東京から帰ってくるかもしれん。そんな時代が案外早くくるかもしれん。
最近の東京の地下鉄は地下百㍍より深いとこ走っているときいた。地震で停電真っ暗になるから生還するには津波で水没する前に地上へ脱出できるかどうかだそうだ。さっそくペンシル型の電灯、携帯の電池スペア、ペットボトルを鞄にいれて今後は東京へ行くことにしよう。川沿い、沿岸部は液状化を何度もくりかえしどんどんひどくなるという。東京湾沿いの石油タンクはタップリング現象で震度9にはとても耐えられないという。東京湾は火の海。
元禄地震では九十九里浜全体が大津波におそわれ、小林さんお住まいの茂原市の藻原寺までやられたという。
やっぱり佐渡島の広い空き家でいい空気すって野菜作って魚釣って暮らそう。コメならうちの田んぼをただで貸す。年貢はとらない。作ってくれるだけでありがたいと兄貴がいっていた。病院も歯医者もちゃんとあるよ。酒はどぶろく、床屋は年二回くらい。洗濯、風呂、トイレも川でやれば年金が20万以下でも暮らせそう。葬式は30万あれば十分だ。
逸徳さん東南海大地震で廃炉中の浜岡原発が崩壊する前に佐渡移住はいかが。
猫跨ぎさんいわく「まっとうに働いて、質素でいいが堅実な生活をする。これは日本人の美質な筈だし、消えてはいないと思うが」。そうですその通りです。斉藤貴男「みんなで一緒に貧しくなろう」(かもがわ出版)もそんなこといってる本だね。
最近の東京の地下鉄は地下百㍍より深いとこ走っているときいた。地震で停電真っ暗になるから生還するには津波で水没する前に地上へ脱出できるかどうかだそうだ。さっそくペンシル型の電灯、携帯の電池スペア、ペットボトルを鞄にいれて今後は東京へ行くことにしよう。川沿い、沿岸部は液状化を何度もくりかえしどんどんひどくなるという。東京湾沿いの石油タンクはタップリング現象で震度9にはとても耐えられないという。東京湾は火の海。
元禄地震では九十九里浜全体が大津波におそわれ、小林さんお住まいの茂原市の藻原寺までやられたという。
やっぱり佐渡島の広い空き家でいい空気すって野菜作って魚釣って暮らそう。コメならうちの田んぼをただで貸す。年貢はとらない。作ってくれるだけでありがたいと兄貴がいっていた。病院も歯医者もちゃんとあるよ。酒はどぶろく、床屋は年二回くらい。洗濯、風呂、トイレも川でやれば年金が20万以下でも暮らせそう。葬式は30万あれば十分だ。
逸徳さん東南海大地震で廃炉中の浜岡原発が崩壊する前に佐渡移住はいかが。
猫跨ぎさんいわく「まっとうに働いて、質素でいいが堅実な生活をする。これは日本人の美質な筈だし、消えてはいないと思うが」。そうですその通りです。斉藤貴男「みんなで一緒に貧しくなろう」(かもがわ出版)もそんなこといってる本だね。
えーと、何だっかな・・・猫跨ぎ
議論が拡がっているがそれだけ問題の内容が多岐に亘っているからだろう。もともとは国債発行残高が千兆円を超えてしまってこのままでどうなるのか、今の我々の生活態度まで含めての問題提起だったように思う。
外国から原料を買って付加価値を高めて輸出して稼ぐという国家経営のモデルを官民挙げて実施した。それが大成功して、骨がらみそれに相応しい体質の国になってしまった。
景気が悪くなると税収が追いつかず国債を大量発行するという財政出動パターンが常態化した。景気がさっぱり上向かない事がつづいて発行残高はついに千兆か。
加えて急速な高齢化社会化。バブルのころに立ち上げた社会保障や年金の制度が立ちあがり、出費は鰻登りだ。韓国や中国が日本のスタイルを真似てこれも急速に経済成長し、強力な競争相手となっている、というか、同時にお互いに利害が入り組んだ状態を呈している。
国は何で食べていくのか。これを無視して議論はできない。
ソニーやパナソニックの失速も円高が主因だろう。実力以上の円高が企業体力を失わせている。韓国のウオンや中国の元は事実上ドルに連動しているからね。この円高の対策がどうなっているのかさっぱり判らない。日銀が紙幣をどんどん刷ればいいという説もあるがそんな単純な話ではあるまい。国債残高千兆は危機的だが、これは大半が国内の金融機関が買っている。その原資は国民の預貯金だ。要するに国民が一体となって買い支えている。この構造が国際的に国債の信頼性を支えている印象を与え、つまり円高の遠因になっているのか。つまり皮肉にも、円高というのはその国への信頼度なんだ、結局。
国債がそっくり償還されたことは、古今東西、皆無と聞いたことがある。じゃどうなるのか。戦争?ハイパーインフレ?いずれもクライシスだが、まともな対処法を聞いたことがない。生活保護費の不正受給が問題になっている。こういう弱い部分をつつく前に、国全体に拡がっている何というかおねだり体質の常態化が問題だろうな。これも戦後の国家経営がもたらした負の側面だろう。まっとうに働いて、質素でいいが堅実な生活をする。これは日本人の美質な筈だし、消えてはいないと思うが。
外国から原料を買って付加価値を高めて輸出して稼ぐという国家経営のモデルを官民挙げて実施した。それが大成功して、骨がらみそれに相応しい体質の国になってしまった。
景気が悪くなると税収が追いつかず国債を大量発行するという財政出動パターンが常態化した。景気がさっぱり上向かない事がつづいて発行残高はついに千兆か。
加えて急速な高齢化社会化。バブルのころに立ち上げた社会保障や年金の制度が立ちあがり、出費は鰻登りだ。韓国や中国が日本のスタイルを真似てこれも急速に経済成長し、強力な競争相手となっている、というか、同時にお互いに利害が入り組んだ状態を呈している。
国は何で食べていくのか。これを無視して議論はできない。
ソニーやパナソニックの失速も円高が主因だろう。実力以上の円高が企業体力を失わせている。韓国のウオンや中国の元は事実上ドルに連動しているからね。この円高の対策がどうなっているのかさっぱり判らない。日銀が紙幣をどんどん刷ればいいという説もあるがそんな単純な話ではあるまい。国債残高千兆は危機的だが、これは大半が国内の金融機関が買っている。その原資は国民の預貯金だ。要するに国民が一体となって買い支えている。この構造が国際的に国債の信頼性を支えている印象を与え、つまり円高の遠因になっているのか。つまり皮肉にも、円高というのはその国への信頼度なんだ、結局。
国債がそっくり償還されたことは、古今東西、皆無と聞いたことがある。じゃどうなるのか。戦争?ハイパーインフレ?いずれもクライシスだが、まともな対処法を聞いたことがない。生活保護費の不正受給が問題になっている。こういう弱い部分をつつく前に、国全体に拡がっている何というかおねだり体質の常態化が問題だろうな。これも戦後の国家経営がもたらした負の側面だろう。まっとうに働いて、質素でいいが堅実な生活をする。これは日本人の美質な筈だし、消えてはいないと思うが。
2012年6月5日火曜日
RE:ひとつ私も… 褌子
小中学時代の同級会があって三日ばかり郷里の佐渡に帰ってきた。
限界集落というほどではないのだが、実家のある部落は86戸で全く無人の家が16軒、年寄りの独り暮らしが20軒こえたと年老いた兄夫婦がいっていた。田んぼも減反強要で三分の一が荒れ放題。世界的な食糧不足だというのに。山も外材輸入で全く間伐しないので荒れるにまかせている。
夕べは北信州の木島平という山村の民宿に泊まったが、日中も村は眠ったようjに静まりかえっている。年寄りばっかり。子供がいない。全国の農山村は同じようなことになっているのだろう。飯山市中心街はシャッター通り。郊外はイトーヨーカドーとジャスコ。日本中まったく同じ景色。車が東京に近づくとものすごい渋滞と排気ガス。エネルギーの無駄遣い極まれり。
余談だが年金20万円あれば田舎暮らしもよさそうだ。家賃ただ畑もただのいい空き家がいっぱいある。佐渡の山の中の空き家に東京で喘息になった人たちがけっこう移り住んでるそうだ。山も海も朱鷺もいる。
限界集落というほどではないのだが、実家のある部落は86戸で全く無人の家が16軒、年寄りの独り暮らしが20軒こえたと年老いた兄夫婦がいっていた。田んぼも減反強要で三分の一が荒れ放題。世界的な食糧不足だというのに。山も外材輸入で全く間伐しないので荒れるにまかせている。
夕べは北信州の木島平という山村の民宿に泊まったが、日中も村は眠ったようjに静まりかえっている。年寄りばっかり。子供がいない。全国の農山村は同じようなことになっているのだろう。飯山市中心街はシャッター通り。郊外はイトーヨーカドーとジャスコ。日本中まったく同じ景色。車が東京に近づくとものすごい渋滞と排気ガス。エネルギーの無駄遣い極まれり。
余談だが年金20万円あれば田舎暮らしもよさそうだ。家賃ただ畑もただのいい空き家がいっぱいある。佐渡の山の中の空き家に東京で喘息になった人たちがけっこう移り住んでるそうだ。山も海も朱鷺もいる。
ひとつ私も・・・・逸徳
おもしろい話なので参戦したくなった。 いや、熊さん、バブル景気を謳歌した我々の世代が痛切な反省としていうからこそ、説得力があると思うよ。無駄なんてことはない。おおいに語ってください。
角度をかえた話題を。社会生物学という学問分野がある(そうだ)。詳しいことはよく知らないが、その世界から出てきた話題で、ちと考えさせられた話があった。詳細は正確性を欠くが、うろ覚えで紹介する。この自然界には、集団を形成する生物種はいくつも知られているのだが、その生物種の平均的な集団の規模と、その生物の脳の大きさに相関性があるというのである。 たしか相関係数も求められていたと思う。で、それにしたがうと、人間の脳の大きさから推定される適正な人間集団の規模は数百人に過ぎないというのである。これはおもしろい。確かにある種の納得させるものを持っている。つまり集団が大きくなりすぎると、もうそれだけでいろんなゆがみや問題が出てくるというのである。 つまり人間の社会は大きくなりすぎ、あつまりすぎたのである。東京のラッシュの人の流れにのみこまなれて、自分がパイプのなかをながれる水流のひとつの水分子になったような錯覚におちいると、それをことさら感じてしまう。
平林泰子という作家がいた。いやなおばさんで、好きになれなかったが、ひとつだけ印象にのこったことばがある。・・・・「とかく メダカは 群れたがる」というのである。 生き物が集まり集団が大規模化すると、それだけでいろんな問題がおこってくる。スケールメリットなんて、誰のメリットなのかよくわからなくなっている。
話題その2. 今、全国的にひとつの面白い動きが出てきている。自分がやや関係しているので紹介してみよう。昔から、住民の自然発生的な自治組織として、町内会とか自治会というのがあった。ここでは、地域ボスがいばってみたり、選挙がからんだりして、特に保守層には落語のネタになりそうなことがいっぱいおこっていた。 ところが、社会の変化の中で、このようなやりかたでは、住民の生活上の諸問題には対応できなくなってきたので、自治会と、行政の間に相当する規模の住民組織が全国的にうまれはじめているのである。規模はだいたい中学校区ぐらいの地域規模である。つまりギリギリお互いに顔の見える最大規模といっていいだろう。一般的には「コミュニティ協議会」とよばれ、行政も、これに予算をつけたりして、この動きを支援するようになってきた。 対応する問題は、自治会のような小規模組織では対処できないような問題であり、運営はボランティアが主体になる。活動内容は千差万別で、あらゆる問題に対応する。学校の経営を考えているようなところや、それこそコミュニテイビジネスといって金儲けしているのまである。(鹿児島県ではこれで焼酎作って売って、各家庭にボーナス出したところもある。いいなあ。) コミュニティ協議会には、だいたい住民の意見を吸い上げる協議機関が併設される。 もうおわかりと思うが、これは一種の小型の「自治政府」なのである。 別の言葉でいうと「地方分権」ということなのだろう。これは一種の生活集団の規模縮小でないか。
一方で、地方自治体の合併によって、自治体の数は半減した。いや半分以下だろう。しかし、それでどんなことが起こったかというと、大規模自治体の出現と、その中心に無数のミニ東京の出現である。たとえば、おいらのそばにある浜松市は周辺の小規模自治体をほとんど吸収合併して、政令指定都市になったのだが、その結果として周辺の住民福祉サービスは逆に、腹が立つほど低下してしまっている。 そして、新幹線の止まる浜松市周辺だけがミニ東京になってしまった。じゃあどうする?と聞かれたら、適度にできる範囲でいいから田舎に住むことだと答えることにしている。無理はしないで。
大きいことはいいことだというが決してそうとはいえないと思う。 原発がとまったりして、経済が停滞するという人がいるが、あまり怖くない。たとえばエネルギー消費が今の半分になったって、それはせいぜい映画「三丁目の夕日」のレベルである。
だから、おいらたちの世代の役割は、愚痴をいうだけでなく「だいじょうぶだよ。何とかなる」と、若い人にいってやることだろうなあ。 とにかく年寄の愚痴が多くなりすぎ、希望を語れる年寄がへったような気がする。そっちのほうが身につまされて心配である。
角度をかえた話題を。社会生物学という学問分野がある(そうだ)。詳しいことはよく知らないが、その世界から出てきた話題で、ちと考えさせられた話があった。詳細は正確性を欠くが、うろ覚えで紹介する。この自然界には、集団を形成する生物種はいくつも知られているのだが、その生物種の平均的な集団の規模と、その生物の脳の大きさに相関性があるというのである。 たしか相関係数も求められていたと思う。で、それにしたがうと、人間の脳の大きさから推定される適正な人間集団の規模は数百人に過ぎないというのである。これはおもしろい。確かにある種の納得させるものを持っている。つまり集団が大きくなりすぎると、もうそれだけでいろんなゆがみや問題が出てくるというのである。 つまり人間の社会は大きくなりすぎ、あつまりすぎたのである。東京のラッシュの人の流れにのみこまなれて、自分がパイプのなかをながれる水流のひとつの水分子になったような錯覚におちいると、それをことさら感じてしまう。
平林泰子という作家がいた。いやなおばさんで、好きになれなかったが、ひとつだけ印象にのこったことばがある。・・・・「とかく メダカは 群れたがる」というのである。 生き物が集まり集団が大規模化すると、それだけでいろんな問題がおこってくる。スケールメリットなんて、誰のメリットなのかよくわからなくなっている。
話題その2. 今、全国的にひとつの面白い動きが出てきている。自分がやや関係しているので紹介してみよう。昔から、住民の自然発生的な自治組織として、町内会とか自治会というのがあった。ここでは、地域ボスがいばってみたり、選挙がからんだりして、特に保守層には落語のネタになりそうなことがいっぱいおこっていた。 ところが、社会の変化の中で、このようなやりかたでは、住民の生活上の諸問題には対応できなくなってきたので、自治会と、行政の間に相当する規模の住民組織が全国的にうまれはじめているのである。規模はだいたい中学校区ぐらいの地域規模である。つまりギリギリお互いに顔の見える最大規模といっていいだろう。一般的には「コミュニティ協議会」とよばれ、行政も、これに予算をつけたりして、この動きを支援するようになってきた。 対応する問題は、自治会のような小規模組織では対処できないような問題であり、運営はボランティアが主体になる。活動内容は千差万別で、あらゆる問題に対応する。学校の経営を考えているようなところや、それこそコミュニテイビジネスといって金儲けしているのまである。(鹿児島県ではこれで焼酎作って売って、各家庭にボーナス出したところもある。いいなあ。) コミュニティ協議会には、だいたい住民の意見を吸い上げる協議機関が併設される。 もうおわかりと思うが、これは一種の小型の「自治政府」なのである。 別の言葉でいうと「地方分権」ということなのだろう。これは一種の生活集団の規模縮小でないか。
一方で、地方自治体の合併によって、自治体の数は半減した。いや半分以下だろう。しかし、それでどんなことが起こったかというと、大規模自治体の出現と、その中心に無数のミニ東京の出現である。たとえば、おいらのそばにある浜松市は周辺の小規模自治体をほとんど吸収合併して、政令指定都市になったのだが、その結果として周辺の住民福祉サービスは逆に、腹が立つほど低下してしまっている。 そして、新幹線の止まる浜松市周辺だけがミニ東京になってしまった。じゃあどうする?と聞かれたら、適度にできる範囲でいいから田舎に住むことだと答えることにしている。無理はしないで。
大きいことはいいことだというが決してそうとはいえないと思う。 原発がとまったりして、経済が停滞するという人がいるが、あまり怖くない。たとえばエネルギー消費が今の半分になったって、それはせいぜい映画「三丁目の夕日」のレベルである。
だから、おいらたちの世代の役割は、愚痴をいうだけでなく「だいじょうぶだよ。何とかなる」と、若い人にいってやることだろうなあ。 とにかく年寄の愚痴が多くなりすぎ、希望を語れる年寄がへったような気がする。そっちのほうが身につまされて心配である。
2012年6月4日月曜日
ユートピア思想 九州の熊
わたしはとりあえず“経済成長を前提にした社会モデルに固執するのはやめて次の社会モデルを準備した方がいい”という問題提起を紹介したかったのでこの記事を転載した。おまえに紹介してもらわなくたってとっくに知っているよ(知らないのはおまえだけ)といわれそうだけど・・。近年の逼迫した財政事情下で多額の国債を発行し続けることに多くの異論があったが“一時的に借金をしても、それ(国債)によって消費が拡大し。経済が活力をとりもどす、経済が潤えばそれで国民が豊かになる・・”。これって本当なんですかね。経済成長って永久に続けられるんですかね。それが真の豊かさですかね。
今すぐ石徹白のユートピアが実現できるとは当然思えません。だけどそんな将来のすがたを描いてそれを折に触れて情宣し、議論し、世論の支持を拡大していく、そんな地道な豊かさへの取り組みがあってもいいのでは。バブル景気を謳歌したわれわれの年代がいうと説得力がないのでいうだけ無駄かな。
今すぐ石徹白のユートピアが実現できるとは当然思えません。だけどそんな将来のすがたを描いてそれを折に触れて情宣し、議論し、世論の支持を拡大していく、そんな地道な豊かさへの取り組みがあってもいいのでは。バブル景気を謳歌したわれわれの年代がいうと説得力がないのでいうだけ無駄かな。
2012年6月3日日曜日
つまり結局 ・・・猫跨ぎ
結局、幾度となく繰り返されたユートピア思想に括られる論ではないだろうか。
今の文明が持続可能かといえば誰でも否定的だ。100年がいいとこで千年のオーダーは続くまいという見解が大方でないか。その上で言うのだが。
でもこの一文ではよく判らないなあ。お裾分け、甲斐性、助け合いの復活とか精神論は判るが、具体的には地元の杉板を使った水車発電だけか。それが打出の小槌と言うことでもあるまいし。ちょっとイメージが湧かない。
山間僻村の再生のありかたの提案なのだろうが、それにしても都市部から色んな物心両面のエネルギーの注入必須になるのだろう。卑近な話、大雪に閉ざされれば大規模な除雪機の出動が必要になるだろう。江戸時代のじっと耐える生活様式は今更出来まい。少なくとも私は出来ない。
その先に、国の有り様もこの考えで変えていこうとする提案のように思える。
むかし1950年代の中国で、毛沢東の命令で始めた大躍進政策というのがあった。近代的な大規模の製鉄所の代わりに、小規模な土方炉を何万と作った。その他この他、手作り的な試みは、悉くみじめな失敗に終わり、数千万の餓死者を出したというあれ。一つ間違えれば、そういうことの再来になりかねない。
それから専ら消費だけしている大都会の住人はどうしたらいいのだろうか。自然エネルギーと言ったって屋根に載せる太陽光発電の設備くらいしか思いつかない。この設備は近代的大工場で製造されたものだ。
都市の人間は無駄飯食いであると言った、カンボジアのポルポトの極端な都市解体政策とかをつい連想してしまう。
今の文明が持続可能かといえば誰でも否定的だ。100年がいいとこで千年のオーダーは続くまいという見解が大方でないか。その上で言うのだが。
でもこの一文ではよく判らないなあ。お裾分け、甲斐性、助け合いの復活とか精神論は判るが、具体的には地元の杉板を使った水車発電だけか。それが打出の小槌と言うことでもあるまいし。ちょっとイメージが湧かない。
山間僻村の再生のありかたの提案なのだろうが、それにしても都市部から色んな物心両面のエネルギーの注入必須になるのだろう。卑近な話、大雪に閉ざされれば大規模な除雪機の出動が必要になるだろう。江戸時代のじっと耐える生活様式は今更出来まい。少なくとも私は出来ない。
その先に、国の有り様もこの考えで変えていこうとする提案のように思える。
むかし1950年代の中国で、毛沢東の命令で始めた大躍進政策というのがあった。近代的な大規模の製鉄所の代わりに、小規模な土方炉を何万と作った。その他この他、手作り的な試みは、悉くみじめな失敗に終わり、数千万の餓死者を出したというあれ。一つ間違えれば、そういうことの再来になりかねない。
それから専ら消費だけしている大都会の住人はどうしたらいいのだろうか。自然エネルギーと言ったって屋根に載せる太陽光発電の設備くらいしか思いつかない。この設備は近代的大工場で製造されたものだ。
都市の人間は無駄飯食いであると言った、カンボジアのポルポトの極端な都市解体政策とかをつい連想してしまう。
2012年6月1日金曜日
とりあえず投稿 九州の熊
せっかく高尚な音楽談義のさなかですが・・。冷めたスープになるといけないので。
朝日新聞・オピニオン(2012.5.29付 13面) (インタビュー記事)
「自然エネルギーが開く未来」 NPO法人「地域再生機構」副理事長
平野彰秀(75年生れ 東大院修了 外資系コンサル会社を経てUターン 岐阜県石(い)徹(と)白(しろ)在住)
「・・戦後の経済成長の波が地域の特性をすっかり漂泊してしまった。若者は明日の豊かさを夢見て『こんな山奥にいてはダメだ』と都会に出た。そして50年がすぎ人口は約1/4に減り地区唯一の小学校は全校児童12人。過疎と高齢化に悩むありふれた農村のひとつになってしまいました」
「『失われた20年』で喪失したものを取り戻そうと躍起になってももう無理でしょう。経済成長を前提にした社会モデルに固執するのはやめて次の社会モデルを準備した方がいい。日本が次に目指すべきは『足るを知る』社会であり地域の特性を生かした地産地消型の自然エネルギーがカギになる・・」
「石徹白はまさにそういう社会だったんですよね。雪深く隔絶された集落なので食べ物はもちろん衣服や道具類も手近な材料でつくってきた。そして雪解けの春を迎えるころ『いいお天気ですね』と挨拶すると『ありがたいなぁ』と返ってくる。自らの手で暮らしをつくるからこそ『足るを知る』ことができる。そんな地域の知恵と精神性をもとに次の時代の社会モデルを実現させたいです」
「僕は自然エネルギーの普及だけを目標にしているわけではありません。より重要なのは自分たちの手で自分たちの暮らしをつくっていくという自治の精神、石徹白のひとがよく使う言葉を借りれば『甲斐性』を取り戻すことです。地域の特性を生かした地産地消型の自然エネルギーが普及すれば私たちの意識が変わる。問題が起きたら自分たちでどうにかするしかないのですから」
「たとえば石徹白の水車は羽根に地元の杉材を使い地元のひとがメンテナンスします。ゴミが詰まって水がうまく流れなければ気付いた人が取り除く。自然エネルギーは自治再生のとてもよい教材です。『おまかせ民主主義』といわれるような政治のあり方を変えていくきっかけにもなると考えています」
「・・国内市場が縮むなかいま行われているのは途上国に市場を求め先進国化させていくゲームですよね。日本はそんなことに血道をあげるより経済成長しなくても豊かに暮らせる社会をどうつくるかを考えるべきです。・・・成長を終えた国がどううまく持続可能な社会を築くのか、範を示すのです」
��豊かさってなんですか。
「信頼できるコミュニティ。人と人とのつながりがあってお金に頼りすぎずに生きられることですね。隣近所で融通しあったりする『おすそ分け』の経済があった方が安心でしょう。お金をたくさん稼がなきゃ生きていけないという強迫観念があるからみんなが利己的になる。経済成長しないと福祉がを担えないと国はいいますが共助で代替できる部分は少なくない。『独り占め』から『おすそ分け』へと価値観を転換させる必要がある・・」
「・・命に直結する一次産業が衰退する一方でなくなっても困らないような表面的な仕事ばっかりが増えている。そんな社会が果たして長続きするでしょうか・・」
補足:岐阜市中心部から車で2時間、山間の過疎地で一足先に水車で起こした電気で地域再生に取り組んでいる平野彰秀さんのインタビュー記事。評論家的に机上の理論だけを解説するのではなく実際にエリートの身分から決別して自論を自ら実践しているところが凄い。
朝日新聞・オピニオン(2012.5.29付 13面) (インタビュー記事)
「自然エネルギーが開く未来」 NPO法人「地域再生機構」副理事長
平野彰秀(75年生れ 東大院修了 外資系コンサル会社を経てUターン 岐阜県石(い)徹(と)白(しろ)在住)
「・・戦後の経済成長の波が地域の特性をすっかり漂泊してしまった。若者は明日の豊かさを夢見て『こんな山奥にいてはダメだ』と都会に出た。そして50年がすぎ人口は約1/4に減り地区唯一の小学校は全校児童12人。過疎と高齢化に悩むありふれた農村のひとつになってしまいました」
「『失われた20年』で喪失したものを取り戻そうと躍起になってももう無理でしょう。経済成長を前提にした社会モデルに固執するのはやめて次の社会モデルを準備した方がいい。日本が次に目指すべきは『足るを知る』社会であり地域の特性を生かした地産地消型の自然エネルギーがカギになる・・」
「石徹白はまさにそういう社会だったんですよね。雪深く隔絶された集落なので食べ物はもちろん衣服や道具類も手近な材料でつくってきた。そして雪解けの春を迎えるころ『いいお天気ですね』と挨拶すると『ありがたいなぁ』と返ってくる。自らの手で暮らしをつくるからこそ『足るを知る』ことができる。そんな地域の知恵と精神性をもとに次の時代の社会モデルを実現させたいです」
「僕は自然エネルギーの普及だけを目標にしているわけではありません。より重要なのは自分たちの手で自分たちの暮らしをつくっていくという自治の精神、石徹白のひとがよく使う言葉を借りれば『甲斐性』を取り戻すことです。地域の特性を生かした地産地消型の自然エネルギーが普及すれば私たちの意識が変わる。問題が起きたら自分たちでどうにかするしかないのですから」
「たとえば石徹白の水車は羽根に地元の杉材を使い地元のひとがメンテナンスします。ゴミが詰まって水がうまく流れなければ気付いた人が取り除く。自然エネルギーは自治再生のとてもよい教材です。『おまかせ民主主義』といわれるような政治のあり方を変えていくきっかけにもなると考えています」
「・・国内市場が縮むなかいま行われているのは途上国に市場を求め先進国化させていくゲームですよね。日本はそんなことに血道をあげるより経済成長しなくても豊かに暮らせる社会をどうつくるかを考えるべきです。・・・成長を終えた国がどううまく持続可能な社会を築くのか、範を示すのです」
��豊かさってなんですか。
「信頼できるコミュニティ。人と人とのつながりがあってお金に頼りすぎずに生きられることですね。隣近所で融通しあったりする『おすそ分け』の経済があった方が安心でしょう。お金をたくさん稼がなきゃ生きていけないという強迫観念があるからみんなが利己的になる。経済成長しないと福祉がを担えないと国はいいますが共助で代替できる部分は少なくない。『独り占め』から『おすそ分け』へと価値観を転換させる必要がある・・」
「・・命に直結する一次産業が衰退する一方でなくなっても困らないような表面的な仕事ばっかりが増えている。そんな社会が果たして長続きするでしょうか・・」
補足:岐阜市中心部から車で2時間、山間の過疎地で一足先に水車で起こした電気で地域再生に取り組んでいる平野彰秀さんのインタビュー記事。評論家的に机上の理論だけを解説するのではなく実際にエリートの身分から決別して自論を自ら実践しているところが凄い。
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