おもしろい話なので参戦したくなった。 いや、熊さん、バブル景気を謳歌した我々の世代が痛切な反省としていうからこそ、説得力があると思うよ。無駄なんてことはない。おおいに語ってください。
角度をかえた話題を。社会生物学という学問分野がある(そうだ)。詳しいことはよく知らないが、その世界から出てきた話題で、ちと考えさせられた話があった。詳細は正確性を欠くが、うろ覚えで紹介する。この自然界には、集団を形成する生物種はいくつも知られているのだが、その生物種の平均的な集団の規模と、その生物の脳の大きさに相関性があるというのである。 たしか相関係数も求められていたと思う。で、それにしたがうと、人間の脳の大きさから推定される適正な人間集団の規模は数百人に過ぎないというのである。これはおもしろい。確かにある種の納得させるものを持っている。つまり集団が大きくなりすぎると、もうそれだけでいろんなゆがみや問題が出てくるというのである。 つまり人間の社会は大きくなりすぎ、あつまりすぎたのである。東京のラッシュの人の流れにのみこまなれて、自分がパイプのなかをながれる水流のひとつの水分子になったような錯覚におちいると、それをことさら感じてしまう。
平林泰子という作家がいた。いやなおばさんで、好きになれなかったが、ひとつだけ印象にのこったことばがある。・・・・「とかく メダカは 群れたがる」というのである。 生き物が集まり集団が大規模化すると、それだけでいろんな問題がおこってくる。スケールメリットなんて、誰のメリットなのかよくわからなくなっている。
話題その2. 今、全国的にひとつの面白い動きが出てきている。自分がやや関係しているので紹介してみよう。昔から、住民の自然発生的な自治組織として、町内会とか自治会というのがあった。ここでは、地域ボスがいばってみたり、選挙がからんだりして、特に保守層には落語のネタになりそうなことがいっぱいおこっていた。 ところが、社会の変化の中で、このようなやりかたでは、住民の生活上の諸問題には対応できなくなってきたので、自治会と、行政の間に相当する規模の住民組織が全国的にうまれはじめているのである。規模はだいたい中学校区ぐらいの地域規模である。つまりギリギリお互いに顔の見える最大規模といっていいだろう。一般的には「コミュニティ協議会」とよばれ、行政も、これに予算をつけたりして、この動きを支援するようになってきた。 対応する問題は、自治会のような小規模組織では対処できないような問題であり、運営はボランティアが主体になる。活動内容は千差万別で、あらゆる問題に対応する。学校の経営を考えているようなところや、それこそコミュニテイビジネスといって金儲けしているのまである。(鹿児島県ではこれで焼酎作って売って、各家庭にボーナス出したところもある。いいなあ。) コミュニティ協議会には、だいたい住民の意見を吸い上げる協議機関が併設される。 もうおわかりと思うが、これは一種の小型の「自治政府」なのである。 別の言葉でいうと「地方分権」ということなのだろう。これは一種の生活集団の規模縮小でないか。
一方で、地方自治体の合併によって、自治体の数は半減した。いや半分以下だろう。しかし、それでどんなことが起こったかというと、大規模自治体の出現と、その中心に無数のミニ東京の出現である。たとえば、おいらのそばにある浜松市は周辺の小規模自治体をほとんど吸収合併して、政令指定都市になったのだが、その結果として周辺の住民福祉サービスは逆に、腹が立つほど低下してしまっている。 そして、新幹線の止まる浜松市周辺だけがミニ東京になってしまった。じゃあどうする?と聞かれたら、適度にできる範囲でいいから田舎に住むことだと答えることにしている。無理はしないで。
大きいことはいいことだというが決してそうとはいえないと思う。 原発がとまったりして、経済が停滞するという人がいるが、あまり怖くない。たとえばエネルギー消費が今の半分になったって、それはせいぜい映画「三丁目の夕日」のレベルである。
だから、おいらたちの世代の役割は、愚痴をいうだけでなく「だいじょうぶだよ。何とかなる」と、若い人にいってやることだろうなあ。 とにかく年寄の愚痴が多くなりすぎ、希望を語れる年寄がへったような気がする。そっちのほうが身につまされて心配である。
0 件のコメント:
コメントを投稿