2013年8月31日土曜日

懐古趣味    九州の熊

ずいぶんあちこちに出かけたり飲んだりしてたんだねぇ。こちらにはついぞお誘いの声かけがなかったのだ。疎遠が疎遠を呼ぶ。身から出た錆だ。しゃあないか。 ホロホロ会では一時ブログ上で句会が盛んに行われていて特選だ、準特選だとにぎやかだった。疎外感を味わっている、とすねた投稿に応えてくれたのは猫爺さんだった。優しい対応に猫爺さんの人格をみた思い。なんだかんだといってもホロホロ会は癒しの場だと改めて思う。蛇足:句作を忌み嫌う気はまったくありません。ねんのため。
仁ちゃん、体調が万全でない由、お見舞い申し上げます。最近なぜか天気予報をみるときにこちらの情報確認のついでに函館方面の日よりをみることが増えた。今年はとくに道南周辺の寒気と大雨が長く続いているような。仁ちゃんの足の痛さがこちらにも伝わってくる気がした。あまりじたばたせずに気長に体調と付き合うしかないね。わたしが2年前にハラキリで入院したときに「苦(九)は充(十)への通過点」と言い聞かせて毎日を過ごした。そのうちいいことだってあるさ。気長に生を愉しもうぜ。

2013年8月30日金曜日

函館通信217・・・記憶・・・仁兵衛

 懐かしいホロホロ会の旅の記憶も本当に薄れてきたなー。思い起こせば英蔵さんと上野で飲み始めたのが何時であったか思い起こせない。確か炉辺焼きのある店であったと思う。次の会った時には既に居酒屋に変わっていた。
 その場所で花見時、二人では淋しいので国兼さん、猫跨ぎさんらに声を掛けて人数が増えていった。あの頃の酔った後の上野の夜桜はご機嫌だったね。中野さんが来てくれた時は精養軒に場所をとり賑やかでしたね。その馴染みの店もビルの立替で止めてしまったのは時代を映していますね。
 その間上野、谷中、を歩いたり、或いは上野で花だけ見て駒形の泥鰌やで飲んだりもした。英蔵さんにホームページを立ち上げて貰ったのもこの頃ではなかったかな。小人数だけどの国兼さんの案内で江ノ島、鎌倉も2回行き国兼家にすっかりお世話になって戻った事もありました。
 そんな上野の集まりの中から泊り掛けの旅行の話が持ち上がり最初が褌子さん言われる御岳の文人宿だったのかもしれない。次が知多半島の蒲郡ではなかったかな。兎に角旅行計画は英蔵さんにお任せでした。本当にお世話になりました。一方で北海道を忘れてはいけないと日航ホテルで2回、薄野で2回、定山渓で1回旅行とは別にオリンピック開催年に集まりました。中野さんの顔を見たくて出掛けたといってもいいかもしれませんね。
 ホロホロ会旅行は遠州浜名湖の旅以降参加していません。実はこの頃から酒が飲めなくなり体調が慢性的によくないのです。参加したい気持ちは山々なんですが身体がついて行かないのです。パーキンソンが進んできたのか老化が加速的に進んだのか判らない所がありますがこの一年で歩行が更に悪くなって来ている様に感じます。
 楽しい旅行に水を差すような事をいってはいかん。逸徳さんも早く酒が飲める身体に戻し楽しんで下さい。

懐古趣味もたまにはよかろう・・・褌子

  真砂館だ。雨のなかの彼岸花が目に浮かぶ。
  そうです! 國兼さんはすごい。やっぱり有機化学トップ合格の記憶力だ。
  いちばん最初は奥多摩だった。御岳(みたけ)のなんとかいう渓流沿いの民宿だった。近くに川端龍子記念館とか吉川英治記念館があったなあ。40年前だ。8、9人集まった。青木君もきた。
  携帯電話もワープロもパソコンもデジカメもむろんない時代だ。リコーの青焼きコピー全盛期だったが富士ゼロックスが。僕は会社の頃というか独身時代、プリンスという品のいい高級車?の中古にさっそうと乗っていたんだ。会社辞めて結婚したらトヨタのパブリカに格下げ。その後はずっとダイハツおんぼろ軽自動車にしか乗せてくれない(ムコはつらい)。プリンスは日産に吸収され、総金歯みたいなセドリックの日産も凋落の一途をたどった。酒はトリスでたまにサントリーホワイト。だるまや角はめったに。カシオの電卓がいっきに出回った。ああタイガーのチンが懐かしい。ソニー全盛期。ベータとVHSの規格戦争がおきたのはそのあとか。ワンカップ大関やインスタントラーメン、発泡酒、カラオケが発明されたのはいつかね。
 重厚長大。海はマンモスタンカー、空はジャンボ機。水俣などの公害が大問題になり、光化学スモッグも。浅間山荘事件あったなあ。こちとらが「フーテンの寅さん」みてげらげら笑っていたころ、仁ちゃんはクレラップ開発に全力か。
  「隣の車が小さく見えます」「男はだまってサッポロビール」「クリープの入ってないコーヒーなんて」「ペンタックスペンタックス望遠だよ・・」  下らんCMばかりおぼえとる

2013年8月29日木曜日

ついでにこれやあれや・・・国兼

そうか!!やはり死にそうな目にあったのだ。でも、女房も逃げずに、かいがいしい看護のもとで・・・元気を回復したようで何よりです。
 天竜浜名湖の旅も思い出すナー。台風みたいな風雨に見舞われ、幹事の英蔵さんが列車に乗り遅れたりと・・・。その時宿泊した真砂館で何を食べたか忘れたが、名前だけは不思議に覚えている。そう、その旅の浜松駅近くで食べたウナギのお茶漬けは絶品だった(その後のほろほろ会の鯖街道の店で食べた鯖の焼寿司、私はこの2品が特に印象に残っている)。でも、1年後にその鯖の焼寿司屋からハガキが来て横浜のデパートに行って買って食べたが、なんていうことのない平凡な味であった。やはり、旅の最中のその地元で、おなかを減らし、旅の仲間とバカ話しながら食べる味とは異なるのであろう。

 褌子さんからこれまでのホロホロ会の歴史的旅の記憶をということであるが、私も脳梗塞で脳の記憶回路がショートしてしまった。でも頭の中は混乱していても、記録・・・写真というビジュアルな、どこに行ったか、誰がいたのかという確かなものが現存している。いずれアルバムをひっくり返し、語ろう。確か最初の高分子4期生の会(ホロホロ会という名はずっと後である)は48年ごろの奥多摩だと思っている(まだカメラを持っていなかったのか、証拠写真がない。英蔵さん、仁ベエさんの記憶はいかが???)

秋野不矩美術館でしたね・・・褌子

    そうそう秋野不矩美術館でしたね。黄色を通奏低音にしたようなインドなどの大作がまざまざとよみがえるが、秋野不矩の名前がでてこなかった・・・

あれこれ・・・猫跨ぎ

死にかけて4キロ痩せた?どういう診断だったのかなあ。差し支えない範囲で教えてほしい。ひょっとしてエイズか?

そうそう秋野不矩美術館では、諸兄の冷笑をかったなあ。大作は二階にあったね。あやうく感動を逸するところだった。
浜松では鰻を食べたことを思いだした。こっちは普通の鰻重だったが、鰻のお茶漬けが何人かいて、そっちにすれば良かったと悔やんだものだ。何でこんなことを覚えているんだ、全く。

いやまいった・・・・逸徳

飲み会は失礼した。 俺だけ飲めんという状態は、いつもなら腹立たしく、みんな悪酔いすればいいと、一人呪いをかけていたものが、今回は全然くやしくならなかった。よっぽど体調がよくなかったと思う。医者にしにかけたぞと脅かされたが。とにかく、4キロやせた。

閑話休題 天浜線の秋野不矩美術館によったとき、作品に感動のあまり、美術館に二階があるのを見忘れてきた人がいた記憶があるが、あれはお師匠て゜はなかったかな?

2013年8月28日水曜日

大したもんだ・・・猫跨ぎ

そうか、色々行ったもんだなあ。大したもんだ。
女流画家の件は、浜松の秋野不矩美術館の話。浜松行の時で、柳生さんにはお世話になった。あの時は台風に遭遇したなあ。仁ちゃんもいたね。
女流画家秋野不矩(ふく)。文化勲章を授与されたのは他に、上村松園、小倉遊亀(ゆき)で計三人。他の二人に比べちょっと知名度は低いが、印度を題材にした大作が印象的だった。奥行きがあって、何というか、構想力が大きいんだね。

真面目に歩んできた道をふりかえると・・・褌子

    コバさんに感謝しつつ、過去をまじめに真剣に振り返ることにした。
   諸君はすっかり忘却のことと推察するが、まず、去年の旅行は遠野で一泊、菊池運転手で朝一番に苔むした五百羅漢をみて山越えし宮古の田老地区へ。大槌、山田、釜石、大船渡をへて陸前高田へ。らまっころ山猫で女将さんは可愛いく愛くるしい菅原行奈さん。猊鼻渓、賢治の東北採石工場跡などみましたね。
  その前の年は、山寺立石寺から出羽三山、鶴岡、酒田へ。注蓮寺のカメムシと羽黒山の五重の塔が忘れがたい。
  その前は石見・出雲だ。宍道湖のシジミが貧相だと國兼さんが怒っていました。その前はむろん高野山。持明院宿坊が寒かったが般若湯が旨かった。秋の熊野の山々が今も目に浮かぶ。
  えーと、その前が函館・定山渓で里塚霊園で中野さんの墓参。その前が近江の十一面観音。その前が飛鳥で河野君が当時はとても元気だった様子が目に浮かぶ。その前がたぶん佐渡の鬼太鼓と薪能ではないかね。その前は天浜線の何とかいう女流画家の雨の何とか美術館。その前が怪しいがたぶん兵庫の山の中の武田尾温泉。その前かずっと前か、もっと昔か西浦温泉が記憶に残る。小生の記憶力もここらへんが限界だが、国兼さんの緻密な頭脳ならば全部順番に思い出せるのではないか。
  そして今度はいよいよ能登の旅だ。

ホロホロ会:2013年秋の旅・・・国兼

 この4月に計画されたホロホロ春の飲み会が雨で延期になり、先週8月23日に開催された。
私は場所確保という名目で上野の例の「かよひ路」に4時30分に行き、ビールを飲んでいた。そこに褌子さんがどかどかとやってきて、開口一番、「逸徳氏がが亡くなった」と。オーと思ったね。嫌な予感がしていたが・・。本人から電話があったと。ムー、死者が電話?? 落語の世界に出てくるようなお話で、よくよく耳を澄ませたら「これなくなった」ということらしい。彼も早口で誤解を招く。ホロホロ秋の旅の楽しい計画作りが、すんでのところで「偲会」になるところだった。女房に逃げられても、親の死に目に会えなくても…と言っていた御仁が来れなくなったのは、よほど重篤なる、悪性の風邪だろう。快復したのだろうか?

 所で、今年の秋のホロホロ会は11月23日(土)~25日の二泊3日の能登半島の旅と決まった。こういう時一番頼りになるのはコバさんである。すぐに事前に調べたコース内容の説明に我々4人はただ頷くだけであった。本日さらに詳細なる計画をメールで送られてきた。レンタカー会社への電話、泊まるべきホテル候補等々実に微に、細にわたる内容である。
 コバさんのこの明細なる計画性は、何年か前の湖北の旅をしたときに知った次第。リュックの中にJRのポケット時刻表を持参しており、地方のバスの時刻表も調べていたのには唖然としたことがある。この時間への感覚は、正に、ホロホロ会の松本清張的存在である。

 その時の話題に今年は「カミさん同伴」はという声が出た。私もそうしようとその時思った次第。帰って落ち着いて考えると、昨年9月に脳梗塞になって以来、料理は減塩で味気なく、私専用の減塩醤油を持たされ、晩酌時には焼酎のお湯割りの回数を横目で観察し、特高に常に見張れている感じである。旅行に行った時ぐらいは羽を伸ばし、解放気分の中で美味しく能登のお酒飲みたいものだと。カミさんを同行するのを止めようと!!!

2013年8月26日月曜日

戦勝国連合・・・猫跨ぎ

  まあさ、家康の四代前は木曽の山奥で木樵をしていたと言うことで、日本では貴種をいくら誇ってもしゃあないね。みんな、なかよく貧乏しよう。
ネットを見ていたら、韓国人の国連事務総長談話が伝えられた。どうも昨今の歴史認識問題が妙な具合になっていて、日本の常識は世界の非常識になりかけている。
  国連の地盤沈下が叫ばれて久しい。いまや世界の紛争地域で実質的な影響力を振るえているところはどこか。アフガン、パレスチナ、北アフリカ、カシミール、中印、尖閣、北朝鮮、みんなノーだね。そんな国連の事務総長が何言っても、詮無い気もするが、何を思ったか、日本の歴史認識の誤りを批判している。加盟国に対し何の権限があって出しゃばるのかね。一体、「正しい」歴史認識とは誰が決めるのか。少なくとも君ではない。実に不遜千万だ。そんなことより、一度締結された国際条約を引っ繰り返すような国内法に走る母国の司法を諫めるのが先決ではないか。対馬の仏像を早く返せとも促すべきだろう。国連はせいぜいそのくらいの仕事ではないか。
閑話休題、ちょっと観点を変えて見よう。国連はUNITED NATION。つまり戦勝国連合なんだね。戦敗国は下に控えておれという事なんだ、事務総長の言いたいのは。しかしそろそろ、そうはいくまいて。

強度愛ではなかった郷土愛・・・・褌子

   熊さんの御父上の御出自はやはり徳川御三家のひとつ紀州和歌山藩でしたか。 
   いま、流山の柳生君と電話で長話をしたところ。柳生君は美深生まれで小樽→札幌→日立→浜松→いまは千葉県の流山に住んでいる。
  柳生君のおじいさんがやはり紀州和歌山藩のご出身。おばあさんが徳島の阿波蜂須賀家のご出身だといっていた。おじいさまおばあさまは手に手をとって明治時代に美深にきた。その息子が小樽にきて商売に成功して、そのお坊っちゃまが柳生秀樹君だ。ぼくらは学生時代に柳生君の小樽の家に遊びに行って、いたれりつくせりの待遇でびっくりしたものだ。高分子学の本は少なく、ガロや白土三平などのマンガ本ばかりで二度びっくり。
  北海道の人はみな内地にご先祖様の故郷をもっているはず。たしか猫跨ぎ様のご先祖が福井の越前は朝倉氏ゆかりの北ノ荘のお殿様松平家の御家老筋の御末裔ではないかと氏の古武士風の御風貌からして何となく。国兼様の曾祖父は越後長岡藩の藩主酒井伊豆ノ守のお姫様の曾孫が戊辰戦争で官軍に逆らったばっかりに敗退おちぶれて、屯田兵となりフンドシ一丁で滝川へんの北海道開拓へ・・ではなかったか。国兼令夫人こと奥様のご先祖は周防の国岩国きっての名刹西本願寺派龍谷院が蝦夷地に別院を御建設、勇躍して親鸞上人の御布教で、えーと何だっけ。小林様のご先祖はといえばこれはもうすごい!徳川四天王の猛将筆頭格、本多佐渡ノ守の一番の御家来衆で千葉周作門下示現流だったか新陰流の居合抜きの達人小林雲谷齋の御子孫が御維新で都落ちをして札幌開拓史学校へ…。
  ちなみに五本さんのご先祖様は越中富山藩のご出身だとおねえさんがいっておられました。明眸皓歯からしてあながちまちがいなかろう。なにか日本海方面が多いねえ。拙者はといえばいうまでもないが、さる承久の乱で鎌倉幕府北条執権にやぶれ絶海の孤島佐渡島に恐れ多くも御配流になられた順徳院がつい島の娘とのあいだにおなしになった御落胤の御末裔の子孫が世を忍ぶ仮の姿ではないかという噂がとびかっているきょうこのごろの残暑きびしい季節柄ではある。
  柳生君の弟さん柳生佳樹さんが北海道の美深で松山農場を経営し、森の雫こと白樺樹液を製造しているのは有名なはなしで一昨年、毎日新聞グリーンファーム大賞を受賞した。9月9日~10日と二泊で松山農場を訪ねることになった。いま、佳樹さんの弟さんのお嫁さんと電話でお話して予約したところ。佳樹さんは北大農学部出身でお兄さんに負けず劣らずの美男子で、イケメン俊才兄弟として知る人ぞ知る。
  あー! 早く食べたいなあ~松山農場のジンギスカーン ♪

2013年8月25日日曜日

郷土愛   九州の熊

脈絡のないはなしを思いつくまま・・。
わたしのオヤジ(10数年まえに他界)は和歌山県出身だけど旧制中学を卒業してすぐ札幌に職を得、住みついた。わたしが物心ついたときには北海道弁で会話をしていた記憶がある。今となっては確認しようがないけどなんとなく道産子のような雰囲気があった。わたしはこちらに住みついて間もなく50年、家内は延岡生まれ延岡育ちの日向かぼちゃ。ふたりの子供ももちろん延岡生まれの延岡育ち、かれらの交友範囲も宮崎県人。こちらの風土がわたしにはすべて心地よくごくごく自然に宮崎県人になってしまった。それを少し誇りに思っている部分もある。オヤジの生きざまがDNAとしてわたしに宿っているのではと思えるような?。わたしの長女の婿は東京出身だけど就職した地がここ延岡でこちらののんびりした風土や自然が大変気に入っていて将来はこちらに拠点がある子会社の社長になってこちらで生活したいといっている。これまで付き合ってきた流れや言動をみるとあながち義父へのリップサービスだけとは思えないような気がするのだが・・?プロ野球は日ハムファン。札幌がフランチャイズになっているのとマーくんのファンだから。道産子であることとのつながりはあまりないようだ。高校野球はまずは宮崎、九州、そして北海道のチームの順。このへんはみなさんとおなじ感覚ですね。まあ郷土愛というのは日本国内であればどこでもいっしょという気もするけど。東京、横浜、大阪などの大都会地区に妙に反発を感じるのは田舎生まれ田舎育ちのひねくれ反骨心からきているのでしょうかね。

函館通信216・・・民族意識・・・仁兵衛

 郷土が話題になってきたが私の生まれは東京です。実家の近くの産婦人科で生まれました。数年前に小学校の同窓会で集まった時同じ産婦人科で生まれたのが3人いました。何か同じ子宮から出てきたのではないかと錯覚さえ覚え親密さが深まった感じを強く持ちました。

 生まれはこうでも四男坊だから無意識の内に家は早く離れる必要があるんだなと思っていて北海道ー福島ー北海道と居住地を移って行ったのだと思います。しかし社会的には郷土が移っても内面にはやはり産まれた地東京はしつっこく残っているものですね。時々心の中から顔を出す時が今でもあります。

 さて、もう少し大きく見て日本人としての民族意識はどうでしょう。幸か不幸か解りませんが戦後直ぐの教育を受けた我々は戦前の軍国教育をただひたすら全面否定して歴史をぷつっと切った状態で歴史教育を受けてきたような感じを私は受けます。日本語を話す事だけが共通の日本民族意識ぐらいにしか線が引きようが無いのでしょうか。オリンピック招致で国威発揚を狙う人、被支配は千年経っても忘れはしないと言う韓国の意識、イスラム圏の民族を越して宗教種族?同士の争い等上げたら切りが無い状態に見えます。

 郷土愛と民族意識の接点は日本には殆ど無くなってしまったのかな。居住が都会というお化け屋敷に集中すればするほど民族意識は薄れて行くのだろうね。さて、今日も懲りずに日本ハムファイターズを応援するか。
 

高校野球とわが郷土・・・猫跨ぎ

  高校野球は何のこだわりもなく郷土愛を吹聴できる数少ない機会だと思うね。これは全国規模の現象だろうなあ。翌日にそこここで昨日の郷土の球児の奮闘振りが話題になる。
褌子氏に同じく、私の第二の故郷は千葉だが、ここは結構強豪校がいる。最近はさっぱりだが銚子商業、習志野、市立船橋、拓大紅陵、等々。しかし率直に言って、熊さんほど熱くはならない。千葉は何というか、郷土意識の持ちにくところなんだなあ。何故か判らんが。
  やはり目は北海道に行く。2004年、2005年甲子園連覇した駒大苫小牧が記憶に新しい。田中マー君ばかり関心の的だが、何せ打線も凄かった。何だか負ける気がしなかったね、見ていて。2004年の凱旋の時は北海道庁前広場が人で溢れたとか。津軽海峡を初めて越えたというわけだ。
ところで田中マー君は兵庫県出身で野球留学だった。もっとも両親も移り住んでいたらしい。いまはこちらにさぞや豪邸を建てたことだろう。里田まいというタレントとはやばやと結婚したが、彼女は北海道出と聞くと、やはり同郷で何か惹くものがあったか。
そこへ行くと、延岡にしても前橋育英にしても、県内出身者ばかりというのはなかなか好感が持てる。しかし攻守、好打でよく鍛えられているなあ。心暖まる凡ミスって見ないね。

“超残念なり!”に思う・・・褌子

熊さん
  延岡学園超残念でしたね。準優勝は超おめでとうございます。
  わたしが超面白いと思ったのは、熊さんがすっかり延岡ッ子というか宮崎県人になりきっていることです。私はいくつになっても佐渡島出身意識がぬけず、いまだに千葉県人になりきっていない。なんとなく偶然に千葉に来て、うっかり住み着いてしまったような感じがしている。高知の四万十川河口出身の女房もそうで、夕べのテレビで四万十川紀行など熱心にみていた。千葉で生まれたうちの子供はきいたことないが千葉県人のつもりなのか、そんな郷土意識など全くもってないのか。
  二年前に母校佐渡高校が21世紀枠で甲子園にでたときだけは興奮してテレビみました。あっというまに智弁和歌山に敗退しましたが。甲子園まで応援に行った同級生から悔しいと電話がきた。
 高校野球でよく覚えているのは、大学2年のときだったかに痔の手術で豊平川わきの平岸のなんとか病院に入院したことがあります。ちょうど北海高校が準決勝で勝って病院中おおさわぎになった。決勝で下関商業に負けて、院長まで私の痔の手術ほうりだしてしきりにがっかりしていた。当時、北海道のひとはみんな内地にご先祖様がいるはずなのに、すっかり道産子になりきっているのが不思議に思えたものだ。
 仁ちゃんは北海道の次が住んで長かった福島・東北勢、最後に生まれ育った東京だと書いている。東京がふる里というひともいるんだね。ふる里というと「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」についなってしまうのだが
【写真 ⇒モネの家の小川わきの柳の巨きな株・小生の姿も小さく】
【下の写真 ⇒パリのノミの市で櫛を買ったおじさん。今回握手は男性限定になってしまった残念】

2013年8月23日金曜日

超残念なり!   九州の熊

とりあえず準優勝ということで「優勝」の文字が入っているからよしとしましょう。準優勝盾も持ち帰ることだし・・。応援ありがとうございました。
高校野球ってよほど力の差が抜きんでていないと本命で勝ちきるというのは難しいのが過去の歴史。かっての桑田清原のPL学園やマーくんがいたときの駒苫のように。だからわが郷土の代表も来年はいちから出直し、県予選を勝ち抜くことさえ難しい、今回頂点をのがしたのでこのようなチャンスはもうなかなか巡ってこない、と考えてしまいます。勝つだけが勝負ではない、純粋無垢な美学を体現したではないか、という慰めのことばはあまり受け入れる気にはならない。ここは浮かれず冷静に今後の課題を整理して次に備えてほしいと願うや切! とまあ評論家気取りで云ってはみたもののここ数日で体験させてもらった高揚感は一時的なものかもしれないけどありがたや、ありがたや。選手、監督、関係者のみなさんの御苦労に大拍手です。それにしても生粋の道産子がいまではもう完全に宮崎県人になりきってしまったなぁ。生まれ育って22年、こちらに住むようになってもうすぐ50年。あたりまえじゃぁ~!

2013年8月22日木曜日

函館通信215・・・残念でしたね熊さん・・・仁兵衛

 九州の熊さん本当に残念でしたね。高校野球観戦は好きで好きで殆どTV付けっぱなし。特に今年は接戦の試合が多く大いに楽しませて貰いました。
 不思議なもので応援の気持ちの順序として先ず北海道、次に福島を含む東北、そして生まれた東京都、関東になってしまいます。
 今年の傾向として固い守りから攻撃のリズムを作り出す野球が多く見られたと思います。ずば抜けた投手がいたのではなく守りの好プレーが実に多かった。抜けそうな打球をバランスを崩しながら捕球し味方のピンチを救うのを何回と見たことか。
 延岡も選手が戻ってきたら歓迎でさぞ大変でしょう。昭和46年にいわきでも磐城高校が準優勝した。小柄な大投手といわれた田村選手を筆頭に広い市内をオープンカーで凱旋したのを思い出しています。
 兎も角、延岡学園 準優勝おめでとう!!

2013年8月21日水曜日

わが郷土、快進撃!    九州の熊

延岡学園、とうとうファイナルゲームに到達しました!のびのびと一つ一つのプレイに集中する姿が清々しい。高校野球はプロ野球なんかとまたひとあじちがう味わいがあることを改めて感じています。当地の反応はもちろん大フィーバー。みんなくちをそろえて「ここまで来たら優勝じゃぁ~」。たまにこんな経験をするのも(みるのも)いいものです。みなさん応援してくださいね。

ひとは皆同じで、ひとは皆ちがう----パリの空港から褌子

 パリ5日目の夜で、明日は帰りの飛行機に乗らねばならない。朝晩は10度以下で寒く、蚊に刺されずに眠ることができるようになった。
 前日のルーブルの人混みにこりてプロヴァンという田舎町に出かけた。パリからガラガラの列車に乗って1時間半。パリ郊外にでるとすぐ刈り取りを終えた麦畑が地平線まで広がる。青々としているのはトウモロコシ畑のようだ。北海道に似ている。確かめるとパリは稚内の緯度。ずっと美しい農村風景が車窓に続く。フランスは農業国なのである。 プロヴァンは中世の古い町並を残している。開発や発展から取り残されたおかげで世界遺産に指定された。坂道を登って12世紀ごろの古めかしい聖堂にはいる。七人ばかりに信者を前に年老いた神父さんが説教中。ステンドグラスからさしこむ光のなかでミサ曲を歌い始めたので、そっと後ろの椅子に座る。しばし頭を垂れ前世からの罪を悔い改めた。フランスは九割近くがカトリック教徒の国なのである。
 列車でのんびりパリに帰り、モンマルトルへ。浅草よりもっと人であふれかえっている。サクレクール寺院まえのあまりのにぎやかさにおそれをなして寺院の裏に回って坂道を下ると静かなアパート街。ルノワールやベルリオーズもここらへんに住んでいたそうだ。階段を登るとまた芸術家らしき人々がたむろする一角にでて、豆科のリラの茂みの向こうにエッフェル塔が見えた。ふと五本さんのやさしい笑顔を思い出した。 混んでいる地下鉄で帰る。3才、5才くらいの男の子、女の子を連れたお母さんが床に座り込んで子どもと楽しそうに話している。子どもが嬉しそうにぴょんぴょん跳ねながらお母さんにまとわりつく。なんとも微笑ましい光景で、混んでるのにまわりの乗客も笑っている。
 ホテル近くのお惣菜屋さんにたどり着く。中国人一家の経営で、近所のおばさんたちが量り売りのおかずを買っていく。奥のテーブルで焼きそばとチャーハンと青島ビールで満腹。これで900円くらい。この店に三日も通って夕飯を食べた。
 店番の娘さんが長江沿いの揚州からきましたという。揚州出身の鑑真和上という偉い坊さんがむかし日本に渡海したこと知っているかと紙に書いて質問したが、しきりに首をかしげるばかりだった。
 「再見」と中国語でいうと「さよなら」と娘さんが手を振ってくれた。会うは別れの始めだなあ。
 夕闇迫る区役所の庭を抜けてホテルへ。区役所玄関の時計の下にLIBERTE・EGALITE・FRATERNITEと刻んである。市庁舎、裁判所など古い公共的建造物にはみな正面破風に自由・平等・博愛の文字。屋根には三色旗がひるがえる。フランス大革命の国なのである。
 こうしてパリ5泊の旅が終わった。いちばん印象に残ったのは壮麗な建物ではない。オペラ座の前のストリートミュージシャンかもしれない。スラブ系の姉妹の少女が裸足で踊ったり歌ったり。演奏の男たちもなにかわびしい。ボヘミアンというかロマのひとらしい。しばし、オペラ座の石段に腰掛けて小銭を箱に入れて立ち去った。

2013年8月20日火曜日

花のパリの汚れためとろ、、、こんし

思い出してきましたか。よかった。全くたいしたもんです。記憶が映像音声付きで脳にいくらでも折り畳まれてしまいこまれているのは不思議です。
たしかにパリの地下鉄はホームに入る前に切符つかうだけで、出るのは別の出口から切符なしで出る。その切符もどこで降りようが料金関係なしで大ざっぱです。我らも出口から切符なしで入ってしまったから、あれだとキセルやり放題。このいい加減さがラテン的で非常によい。几帳面なドイツ人はあきれかえっているのではないか。ヴァカンスのせいか地下鉄は半分観光客で半分は金がなくて遊びに行けないアフリカ系のひとばかり。ときどき日本語でもスリにご注意!と放送している。けっこう汚れていて、勝手にアコーデオンひいてお金集めたりもしている。駅入り口に女性乞食もみかけた。車内で地図で道きくと実に親切。席も譲られた。パリのエリートは高級車で移動し、こんな雑然とした地下鉄には普段から乗っていないのではないか。アフリカ系を中心にいろんな人種が車内に乗っていて、広大な植民地もっていた旧宗主国だと痛感させられる。それにしてもオルセー美術館などなんと駅舎だったと言うではないか。アールヌーボーの豪華きわまる洒落たつくりに目をうばわれた。植民地から吸い上げられた富が、自国庶民階級から吸い上げた富がこれだけ絢爛豪華なパリをつくりあげた。
金持ちは遊びに行って空っぽのパリを観光客と旧植民地からの移民が闊歩している。ヴィクトリユーゴー駅とかフランクリンルーズベルト駅とかある。フランクリンはフランス人だったんだね。自由の女神像を新興国にポンと寄付した心意気に成り上がりものへの優越感も感ずる。
昨日のルーブル美術館は疲れたなあ。 もう二度とこんなとこくるもんか(*^^*)

西澤昭裕

2013年8月19日月曜日

思い出してきた・・・猫跨ぎ

だんだん思い出してきた。パリの地下鉄は入口と出口が異なっている。それを知らず、出口専用のところから何か変だなと思いながら、やや強引に入ったなあ。何とかなったが。地下道にサキソホンを吹いて小銭を稼いでいた若者がいた。
味噌ラーメンとスーパードライか。良くないねえ。郷にいれば~の線を維持しなければなあ。ウレシー僕、困ったらブーとかケツ臭せーとか言いながら、向こうのモノを食う、これに徹すべし。偉そうなことを言うと、美術品なんて日本にしょっちゅう来てるじゃない。それこそ、こてこての既視感。それもいいが、下町の路地をなんかうろつきたいなあ。
モンマルトルのへたくそな画家の卵の絵をひやかすのもいい。おお段々思い出してきた。

パリの蚊もやっぱり痒いです、、、こんし

パリにきて三日目となった。猫跨ぎさんと仁ちゃんからうれしい反応があったのでiPhoneからの発信が日本に届いていることがわかり急に元気がでてきた。猫跨ぎさんが若い頃パリのシャンゼリゼ通りを歩いた話を35年くらいまえに、うちに泊まった時にしていました。いらい、ずっと死ぬ前に一度オレも…歩きたいなんて思い続けてきました。
きょうはくたびれましたね。エアコンのない安宿に五泊もするのだが涼しいと窓開けて寝ていたら蚊が入ってきてかゆくてかゆくて。6階だからと油断していた。パリの蚊も市原の蚊も鳴き方は変わらないね。睡眠不足のまま、朝一番に女房とノミの市にいってルーペと櫛(髪がないのに)を買ってしまった。枠が金縁に輝くルーペはブルボン朝のマリー何とかいう王妃様がお使いになっていたものを恐れ多くも値切ってしまい15ユーロだから1950円くらい。櫛は日本製か。そのあとロダン美術館の庭で「カレーの市民」独りずつの顔を至近距離でみた。上野には集団立像だが。バルザック像の“にぎり金玉”の話には現物をみて納得。一角にゴッホの「タンギー爺さん」があって背景には浮世絵がかきこんである。ロダンは人間のもつ苦悩とか悔恨とか逡巡みたいなものが迫ってくる。
そのあとオルセー美術館で例の二枚のゴッホ自画像に対面したがルノワールやモネやマネ、セザンヌ、ゴーギャン、ドガなどと全く違う。ユトリロは哀愁とか生きる屈託があるが。ゴッホの絵は弟テオ以外に生きているときには誰にも理解されなかったという。
オランジェーでモネの睡蓮の丸い壁一面の大作をみて、ゴッホ自画像のはなつ重苦しさから開放され自然の光の賛歌にひたった。コンコルド広場でオベリスクの古代エジプト象形文字をみあげてから、はるかシャンジェルデ通りの彼方に凱旋門を遠望し、ああヨワイ70にしてパリに来たんだと危うく感涙にむせぶところであった。その後はヘトヘトになってパルテオン神殿そっくりの教会とかプロシアから分捕った大砲で作った青銅の塔のうえにシーザーのいでたちでナポレオンがはったとローマの方向をにらんでいるのを見ているのをフラフラになって見上げて、さらに数百メートル這うように歩いてサッポロラーメンにたどり着きアサヒスーパードライ560ミリリットルを飲み干して味噌ラーメンと炒飯喰ったら生き返った。ふと後ろから日本語が聞こえて来た。年の頃65位のおっさんがメガネを頭の上にずらしタオルで汗を拭きながらギョウザと焼き鳥喰って麒麟ビールのガブ飲みをしていた。なにもパリまできて焼き鳥くわなくてもなあ。急に元気出てきてホテルにかえったら蚊取り線香ありませんと平気でいうのでガッカリ。みなさん!いくら安くても夏場は外国でエアコンのない安宿は泊まらないようにお願いします。蚊が入らぬように閉めて寝てると外は涼しいのに暑いです。フランスにはまだ網戸がないのかね。日本から輸入するべきだ。パリにはコンビニがないようだ。雑貨屋さんはバカンスで閉まっているし蚊取り線香も電池も買えなくて困っている(-。-;

2013年8月18日日曜日

函館通信214・・・うぃパリ・・・仁兵衛

褌子さん羨ましいね。褌をキュッと締めてエッフェル塔に登って楽しんで来てください。
昔歌った歌に「パリのエッフェル塔で小便すればすれば・・・云々」という歌があったのを思い出した。
そうそう今豪雨の函館はユトリロ展をやっています。「パリの友夏の終りのユトリロ展」。

猫跨ぎ氏俳句観賞
・釣堀のどの区画にも夏の雨・・・今の釣堀はみんな管理されているけど釣れるのだろうか。釣はへらに始まりへらに終ると言われる。函館の朝市では烏賊釣が出来る。句は単純だが静かな夏の雨を感じさせる。
・蚊を打ってから灯明をあげにゆく・・・お盆の時はたとえ蚊でも殺生はまかりなりませぬ。面白そうな作者の意図がありそう。特選。
・ジェット機の急に現れジギタリス・・・ジギタリスの花は良く知らないが薬草として有効な事は知っている。そこにジェット機が急に現れたのには驚かされた。韻を踏んでいるのにはユーモアさえ感じる。準特選。
・団子虫の転がる先の真夏かな・・・団子無視が丸まったままならさぞ暑かろうに。
・雲の峰扉小さき無言館・・・何も言わなくても無言館は大自然に包まれて存在している。準特選。
面白く鑑賞させて頂きました。

巴里のこと・・・猫跨ぎ

  まだパリに滞在中かな。最初にしては、なんだかあまり感動が伝わってこないねえ。人間70を過ぎるこんなものかな。小生が行ったのは30年以上前かな。パリにいるんだという感じがしみじみしたのは、夕方、サンラザール駅近くのホテルを出て、シャンゼリゼへ繰り出したとき。二階の大衆食堂みたいなところで何を食べたのか覚えていないが、ワインボトルのおかわりをした。帰途、裏通りの店のショーウィンドが洒落ていたなあ。ビルの高さが均一で、かつ佇まいも統一されている。要するに寄ってたかって、パリ全体を演出しているわけだ。野放図な東京の街並みと全く対照的。しかしどちらが良いかとなると、甲乙つけがたい。印象派美術館(今は改名している)へ行く道を間違えて、綺麗なパリジェンヌに教えて貰ったのも良い思い出。そちらも得意の握手に持ち込むよう成果を期待したい。

ゼロ戦---褌子

宮崎監督『風立ちぬ』は見に行きたい。アニメ場面に組み立てた零戦を牛車でそろそろと名古屋から各務原飛行場へ運ぶ場面があるらしい。吉村昭『零式戦闘機』で、開発当時、世界最高速の戦闘機と牛車の対比に一驚したものだ。最近、百田尚樹『永遠のゼロ』を読んだばかり。敗戦前夜の日本海軍が、米軍の新鋭機に遅れをとった旧式零戦に未熟な学徒兵を乗せて特攻攻撃をさせる話。八月十五日の朝に飛び立っていった特攻機もあるという。
ーーーーいま、パリにいるが日本の九月末くらいかと思う気温で涼しい。電車とバスに乗ってモネの睡蓮の池を見てきた。モネが蒐集したたくさんの浮世絵や錦絵がモネの家に展示してあった。
 夕方、セーヌ川の船に乗った。はじめてパリに来たのだが、船から見物するノートルダムなど何となく既視感のある歴史的建造物ばかり。反面、もう二度と来ることはないだろうという思いもある。
ーーー
一泊朝食つきで三千円!の安いホテルだがWi-FiサービスがあってiPhoneからの発信に成功したようだ(^-^)

2013年8月16日金曜日

「風立ちぬ」・・・猫跨ぎ

  今評判の「風立ちぬ」(宮崎駿監督)を見てきた。画像の迫真性、綺麗なことにただただ一驚。戦前の街並や製造工場の風景の細密な再現、冒頭の関東大震災のシーンの迫力。要所要所の飛行機のシーン、ジブリ映画の技術の蓄積は凄いものだと感心。
零戦設計に携わった敏腕設計技師(これは実在の堀越二郎)の活躍と、小説「風立ちぬ」(堀辰雄作)のラブロマンスを織り合わせた物語り。堀越の恋人役の菜穂子がいい。
所謂アニメ映画に期待する盛り上がりはなく、坦々と進んで終幕を迎えるがそれなりの満足感は残る。別離の哀しみと、何もかも失った敗戦は勿論基調にある。幾つかの挿話シーンには作者の意図を感じさせるが、省略。まだの向きは、推薦したい。
 ところで「日本禁煙学会」なるところが、映画に喫煙シーンが多いと制作者に抗議したらしい。子供の教育上よろしくないと。喫煙の害が声高に言われるようになったのは、近々10年くらいか。嫌煙権ももう今更という感じ。昔は普通の生活習慣だったから、それを描いて何の不思議もない。馬鹿らしくて話にならないが、こんな視野の狭い近視眼の連中が最近多い(多分、女性だろう)。今の価値観で昔を裁く愚のひとつだが、これからも続々と起こりそうなことだ。
ついでに言うと、戦争映画の危険性を指摘する声もある。これもその一例だ。

2013年8月15日木曜日

酷暑の俳句鑑賞・・褌子

辰巳団地までわが家から車で5分くらいだが、何十年ぶりに訪問すれば、あまりの変わりようにびっくりすることだろう。近所に住んでいても辰巳は変わったなあと思うから。
先週は那須の満蒙開拓団の再入植地である千振村のおじさんにトウモロコシをもらいに行った。那須高原は秋の気配だったから、函館あたりは一雨ごとに涼しくなることだろう。そのあと、郡上八幡と関市で二泊三日の帰途、浜岡原発を訪ねた。岐阜の郡上八幡は暑かった。長良川は冷たかったが。鵜飼いはあっというまに終わった。千葉もあまりに暑いので明日から一週間パリに行って涼んでくる。夏のパリは現在、最低気温13度~最高気温29度とか。23日の上野かよい路の飲み会にはフランス語がとびだすかもしれないが許してほしい。
―――――
・軍場の松籟夏の野外劇
   五稜郭で野外劇だとすると、演目は「見果てぬ夢…土方歳三の生涯」
・奉行所の通行手形蟻の列
   通行手形と蟻の列だと「鬼平犯科帳」や「眠狂四郎」の一シーン
・複眼の睨んでをりぬ今朝の秋
   トンボですね。ドラゴンフライ好き。せんじつ静岡袋井のトンボ公園で稀少種ベニイトトンボ見ました。
・舳にも艫にも降りて星月夜
   千葉は暑くて蚊もいるし星月夜など楽しむ余裕ありません
・メビウスの輪になりかけて盆踊
面白い表現。郡上八幡ではえんえんと飽きもせずに踊っていましたね。
・空港に人を送りて遠花火
♪あうは別れのはじめとは~♬ 
・新涼や地下鉄降りた踵まで
新涼は秋の季語ですね。函館の夏は短いんだね
・朝顔や青潔く滲み出る
青く薄い花びらはじつにさわやか。迷うことなく潔い青である。特選
・唱歌には明治の苫屋夏の雲
なんか懐かしい
―――――

・清めの塩振られて潜る夏暖簾
   絹ごしの冷や奴と冷酒「浦霞」か秋田の「高清水」でもよい。いや青森の「田酒」か
・降りつづく一葉旧居跡紫蘭
   旧居跡行きましたね。一葉と夏目金之助ばったり出会って一目惚れ
・蚊を打つてから灯明をあげにゆく
なにげない日常の所作。奥様のお盆ですね。
・釣堀のどの区画にも夏の雨
   いい光景だ。少し涼しくなりそうだ。
・緑雨いま豪雨に変はり火焔土器
火炎土器の豪快な赤さとゲリラ豪雨の対比鮮やか。特選
・ジェット機の急に現れジギタリス
ゴマノハグサ科の淡い紫の鐘状の花の静寂とジェット機の激しい爆音
・滑走路の先の夏野や将門記
陽炎がたっている。逃げ水かも。平将門の決起とはかない末路
・雲の峰扉小さき無言館
   上田の無言館、小さな木の扉を押してはいる。薄暗いなかに戦没画学生の絵。
   彼らは、安倍や石破死刑発言、麻生ナチス発言をどうみているだろうか。
・魚臭き路地裏夏の下弦月
安宿の古畳に寝転んで団扇ぱたぱたさせて芋焼酎をオンザロックで飲みたい

2013年8月14日水曜日

極暑の候・・・猫跨ぎ

  帰省中の息子の車に乗って、市原の辰巳団地へ久し振りに行ってきた。昭和43年から同59年まで住んでいた。鉄道が延伸してくる計画がずっとあり、中央部に広い空き地があって何とも纏まりのない団地だったが、京葉コンビナート各社の新しい社員アパートがそれぞれの区域に林立する、高度成長期の申し子みたいな、或る性格を見せた住宅地区だった。
  それが様変わりであっけにとられた。まず、鉄道延伸計画が取りやめになり、空き地は細切れの宅地分譲と相成った。重化学工業の衰退もあるが、社員アパートというものがいわば昭和の遺物であり、その存在理由を失ったのだろう。小生のいたアパートもしかり、更地になり宅地分譲されたらしい。何の面影もない。全体にのっぺらぼうの無性格の住宅地と化していた。アパートの近くの夫婦二人でやっていた小さな中華料理店が今あるだろうか、久し振りに行ってみようというのが、ことの発端だったのだが、その店はまだあった。が、お盆休み。感傷のドライブ旅行。

最近の十句
・清めの塩振られて潜る夏暖簾
・降りつづく一葉旧居跡紫蘭
・蚊を打つてから灯明をあげにゆく
・釣堀のどの区画にも夏の雨
・緑雨いま豪雨に変はり火焔土器
・ジェット機の急に現れジギタリス
・滑走路の先の夏野や将門記
・団子虫の転がる先の真夏かな
・雲の峰扉小さき無言館
・魚臭き路地裏夏の下弦月

2013年8月11日日曜日

浜岡原発を訪ねる・・・褌子

   長崎原爆忌の八月九日、浜岡原発を逸徳さんのご案内で訪ねた。
   福島事故以来、核と人間は共存できないなどとエラソーに言ってきたが、じつは原発がどんなものか一度も見たことがなかったのである。
  市原からKさん夫婦とうちと二組で車で出かけた。菊川IC出口に逸徳さんが炎天下、待っていてくれた。
  浜岡原発まで30分くらい車を走らせると中部電力の宣伝用の電力展示館が見えてきた。
  一号館は風力などの自然エネルギー館だが、われわれのお目当ては原子力館。全景を見渡せる展望台に登る。遠州灘に面して巨大な五基の原発建屋が眼下にみえる。総発電量は五百万キロワットで東電柏崎刈羽に次ぐ。福島事故後に政府命令でむろん停まったまま。監視員がいて撮影禁止なので持参したカメラのシャッターを押せないのが残念。
  福島の事故後にはじまった高さ21メートルの津波対策の防波堤の工事が今も続いているようだ。海上には原発の冷却水の取水塔が二基たっている。はるか彼方の東方に御前崎が見える。強風地帯らしくたくさんの風力発電塔がゆっくりと大きな三角羽根をまわしている。 展望台下の原子力館は撮影自由。圧巻は実物大の原子炉模型。沸騰水型軽水炉の高さ22メートルの威容に目が釘付けになる。【↑実物大原子炉を前に逸徳氏と】
  東電福島第一では3基の原子炉全部が損壊し膨大な放射性物資が大気に放出され、四号基もふくめて毎日三百トンもの汚染水が海洋投棄され絶望的な汚染水対策が続いているが、むろんそんなことには一言もふれてはいない。実物大の制御盤、長さ4.5メートルの実物大ウラン燃料棒、制御棒も展示されていて百聞は一見にしかず。
  逸徳さんが原発建屋がみえる穴場があるというのでぐるぐる車を走らせて、防波堤の一カ所にたどりついた。堤の上から五号基が遠望できるが海からの強風でたっているのもやっと。天気がいい日もいつも強風が吹いているという。過酷事故が起きたら放射性物質はあっというまに静岡市、浜松市に到達し、首都圏や中部圏一帯を襲うだろう。【→防波堤からの遠望】
  菊川ICまで車中での逸徳氏の説明が面白かった。日本中の原発村は原発マネーでたくさんのハコモノをたてて、原発中毒というか人心が荒廃する依存症になる話はよくきいてきたが、地元でこつこつ反対運動をやっている逸徳さんの話はリアルでじつに興味深かった。炎天下、親切にご案内していただき、貴重な運動資料と静岡の銘茶までいただき、鯖味噌までご馳走になった逸徳さんに深甚から感謝の意を申し上げたい。市原市から同行したKさん夫妻も「すばらしいお友達ですねえ」と感嘆の声をあげておりました。

2013年8月9日金曜日

八月度仁句鑑賞・・・猫跨ぎ

  暑い。今日は殊の外暑い。網戸にして扇風機をがんがん回している。ちなみに私の小部屋にはエアコンなし。でもこれでしのげる。暑い夏を味わっている気分もちょっとある。
御当地は、今日は大雨らしいね。いやはや。

まず、通常の写生句から
・複眼の睨んでをりぬ今朝の秋
トンボがもう飛んでいるんだね。ふと目が合ったというところか。
・舳にも艫にも降りて星月夜
舳(へさき)にも艫(とも)にも、星が降るような夜か。星月夜は月がなくても星明かりで明るいということね。影絵のような風景。準特選句。
・迎へ火や風除けつくる二三人
門前で焚く門火。風よけに二三人がぐるりと囲んでいる。景の動きがよく見えるね。特選句で戴く。
・空港に人を送りて遠花火
空港へ送って行く、或いは送ったあとか。遠くに花火が見える。感傷的になるねえ。
・新涼や地下鉄降りた踵まで
地下鉄を降りたときに感じた涼気か。踵までが面白い。
・朝顔や青潔く滲み出る
朝顔の青の鮮やかさは本当に息をのむ程だ。

次に、個人的体験にやや特化した作。
・軍場の松籟夏の野外劇
いくさば。戦場のことね。昔の戦場に格好の松籟が鳴っている。野外劇が繰り広げられている。これも臨場感があるね。準特選。
・メビウスの輪になりかけて盆踊
踊りの輪がよじれてつながる妙な瞬間を面白く表現した。俳諧味がある。準特選。
・ひとりだけじじとは呼ばず孫の夏
じじの気持を察してくれる賢い孫がいてよかった。
・新盆や従兄弟はとこの顔知らず
これそうだね。核家族化が進行して、本当に日本中で起こっているんじゃないかな。

疑問符、気触れ、奉行所、カリヨン、苫屋の五句は、仁ワールドということで、解釈は遠慮しておこう。


函館通信213・・・忘れてた・・・仁兵衛

 函館は今大雨だ。兎に角気候が不安定のまま八月に入っている。首都圏や西の方には悪いが今年の函館は未だ30度を越えた日が一日も無い。札幌や旭川は真夏日が続いているそうだ。
 海流の影響が大きいのだが道東の港では黒マグロが多く水揚げされトキシラズなどの鮭は極めて少ないそうだ。そんなこんなしている内に7月の投句をすっかり忘れてしまった。孫達との楽しい時間も終ったので先月分も含めて駄作十五句厚かましく並べました。宜しく。

平成二十五年八月
・  疑問符に引き摺られてる炎暑かな
・  軍場の松籟夏の野外劇
・  大夕焼気触れたままの肌の上
・  奉行所の通行手形蟻の列
・  行先を告げぬカリヨン風死せり
・  複眼の睨んでをりぬ今朝の秋
・  舳にも艫にも降りて星月夜
・  メビウスの輪になりかけて盆踊
・  迎へ火や風除けつくる二三人
・  ひとりだけじじとは呼ばず孫の夏
・  空港に人を送りて遠花火
・  新涼や地下鉄降りた踵まで
・  朝顔や青潔く滲み出る
・  唱歌には明治の苫屋夏の雲
・  新盆や従兄弟はとこの顔知らず

2013年8月5日月曜日

jubilantly・・・猫跨ぎ

  原爆のはなしの続き。今日の東京新聞にドナルド・キーン氏が思い出話を書いていた。二発目の原爆を長崎に落としたあと、トルーマン大統領は、「この知らせをjubilantly(喜々として)発表する」と言ったという。キーン氏は当時海軍にいたが、これにはさすがに違和感を覚えたという。凄まじい破壊力は広島で充分に知っていたからだ。
jubilantlyとは最大級の喜びの表現だ。この事実は知っておいた方がいい。「やすらかにお休み下さい。あやまちは繰り返しませんから」と主語不明なことを言う前に。

と昨夜書いたのだが、今朝の報道に
 インタビューで、オリバー・ストーン監督は、原爆を投下した米国は英雄であると教わってきたと説明したうえで、「80年代までそうした幻想に疑問を差しはさむことはなかったが、歴史をもっと深く見るようになった。私は歴史に対して建設的でありたい。日本の人々も、米国の神話を受け入れず、なぜ原爆が落とされたのかを学んでほしい」と話した。(読売新聞)
ようやく、アメリカ人はそういう声を出し始めた。日本人はもっと怒れと諭されている。なんと大人しいことよ。

2013年8月1日木曜日

烏瓜の花から歴史認識・・・猫跨ぎ

  烏瓜の花の写真は見事だねえ。夜ひらいて朝になると萎れてしまう実に怪しげな花。以前、朝歩きのときに里山の一角で萎れかけたのを見たのが唯一の経験。ちゃんと五弁の形をしている。夜行性の蛾を誘引するための開花らしいが、こんなのを見ると生き物の不思議さを改めて思う。
色々なおじさんたちの人物模様を拝見したが、病気が多いね。生活環境のせいだと思うが、糖尿病が二名か。こんなところにも格差が覗いている。
 
  日韓の歴史問題軋轢がヒートアップしている。日韓というより、韓国の一方的なヒステリックな対応が目立つ。センサーをぎんぎんに研ぎ澄まして、日本の一挙手一投足を睨んでいる感じだ。何か言えば過剰に反応する、黙っていれば歴史問題に鈍感だといきり立つ。アメリカの各地に件の銅像を建てるなんかを見ると、もう病的な感じさえ受ける。政治家は落とし所を心得て行動するのだろうが、朴大統領にはそれが見えない。驚くのは韓国の司法がこれまた常識外の決定をする。朝野をあげて日本けしからんの大合唱になってしまった。ゴールが見えない。謝罪要求は果てしもない。そのうちに日章旗も揚げるな、天皇を呼びつけて土下座させると言うに決まっている。
  原爆投下は日本人への懲罰だと言った新聞社の論説委員がいたらしい。子供の与太話ではない、いちおう社会のリーダーの発言だ。どんな頭の構造になっているのか。
原爆投下については、「このお蔭で太平洋戦争は終結した。正義の行為だ」というのが、アメリカの有力な歴史認識だそうだ。おそるべき歴史認識だ。まあ歴史認識なんてそんなものじゃないか。
結局は、前の世界大戦の勝者の論理がまかり通っている。