2012年5月31日木曜日

音楽談議・・・猫跨ぎ

  たまたま、〈泥鰌汁啜りつつ聴く受難曲〉などと、冴えない句をひねっていたら、何、奥方とコンサートか。なかなかやりますなあ。
フジ子ヘミングはその異色な半生記と相まって、いま国内では最も集客力のあるピアニストなんだろうねえ。そしてこれ又、ラ・カンパネラは、これを聴かねば客は収まらないのだろう。物語性、スター性をこんなに求める分野はないね。音楽の真の実力もさることながら、何とかコンクール優勝のキャリアが音楽家人生を決めたりするから、まあ残酷な商売だ。ミューズの女神に取り込まれた人達だなあ。

  実は、何十年振りにCDコンポを買った。居間におき、モーツアルトなど聴きつつソファでいつの間にか寝ているのがいま至福の時間。パソコンにごっそりストックしてあった音源をUSBメモリーに移し替えてそれを差し込んで聴いている。今のAV機器は良いねえ。所謂、熱雑音が消えた。これを消す回路がアンプに入っているのだろう。スピーカーもコンパクトながら私には充分の性能だ。
  それからFM放送。これまでは電波状態が悪く諦めていたが、ケーブルテレビのケーブルにFM電波が乗っていることを知り、分配器で分けてFMチューナーに繋いだら、当たり前だが極めてクリアー。これをこのコンポを通して聴くのが大きな収穫のひとつ。吉田秀和さんの番組(再放送)をやっている。おまけに放送大学が聴けるようになった。これがまた結構面白い。いやはや良いことずくめだ。テレビは本当に見なくなったね。まあ関心のある向きはお試しあれ。

フジコ・ヘミング・・・・褌子

  仁ちゃん猫跨ぎさん句評ありがとう。あたたかい励ましでなんだかむくむく作句意欲がでてきたぞ、 と思って昨日も朝、30分も散歩したが俳句ぜんぜんできなかった。今朝は散歩そのものをさぼってしまった。何事もあきらめが肝心だ。いや明日は俳句の一つやふたつ簡単にできるかも。人間は未来に希望をもって生きるのだ(大げさ)
  きのうはフジコ・ヘミングをききに東京まででかけた。音楽会なんてひさしぶりだなあ。満員の文京シビックホールが暗く静まりかえるなか、ベートーベンのピアノ協奏曲第五番「皇帝」にじっと目をつぶって聞き惚れていたら、大枚はたいてきたのに居眠りしているのではと隣の女房がしきりに指でつつくので困った。(ホントウは狸小路の喫茶白鳥で「皇帝」をふたりで聴いたあの日あの頃を思い出していたんだ…今年のリラ忌もすぎちゃったなあ=2007年5月17日)
  アンコールはリストの「ラ・カンパネラ」。フジコ・ヘミングはこの難曲中の難曲を弾きこなすので世界的に有名になった。聴衆はこれを期待してきているらしく拍手が鳴り止まず80歳のフジコも弾くしかない。右手で猛烈に高音部の鍵盤をたたきながら伴奏、左手で激しく弾くのが疲れ果てると本人曰く本当はいちばん嫌いな曲なんだそうだ。ロシア系スエーデン人の父と日本人の母の間にうまれたが、両親は離婚し、思春期のフジコがスエーデンまで父に会いに行ったら面会すら拒否されたという。
 東北ドイツ管弦楽団との協奏だった。若々しい感じの管弦楽団とフジコとの組み合わせがおもしろかった。たまには音楽もいいもんだねえ
    若葉風そよぎて朝のブラームス  (これは拙作ではありません)

函館通信179・・・褌子氏句評・・・仁兵衛

 昨日同じ題で書いたのだがうまく送信出来ず苛立ってしまった。今日はどうかな?
 何はともあれ褌子さんホロホロ句会新たにデビューめでたしめでたし。恥ずかしがらずに出せば素晴らしい句ではありませんか。猫跨ぎ宗匠の評と添削がまた的確になされているのでなかなか評も出しにくいんだが「厚顔令色少なし仁」と行きましょう。

 宇宙線とらえて白く山法師・・・私の好きな山法師。山の中腹辺りで風できらりと光っている瞬間を鋭く捕らえている。山法師と宇宙線の取り合わせが眞に見事です。特選。
 悪いことなどしてません葱坊主・・・上五、中七の表現に苦労されたのかな。でもどんな悪いことなのか勝手に想像させてくれるのが面白さを作っていますね。
 バナナ熟れ幼き虻に出会いけり・・・確かに季重なりですが幼き虹という表現に興味を惹かれて頂きました。
 
 四日で八つ作られたのとの事 、あな恐ろしや。私は月一回、十句がやっとなのでそのペースでやりますよ。
 逸徳さんのも待ってますよ。


2012年5月30日水曜日

反省の弁・・・猫跨ぎ

囲み記事の切り抜きを忘れないうちに書いておく。

健全な批判精神が欠如 地震学会が反省の弁 (2012年5月11日)
想定外の被害となった東日本大震災を踏まえ、これまでの地震研究に何が足りなかったかを検討していた日本地震学会の臨時委員会(委員長・鷺谷威名古屋大教授)は11日、「研究者間の健全な批判精神や学会内外でのコミュニケーションが欠如していた」などとする総括をまとめた。マグニチュード9の地震を想定できなかった理由として「実力不足」と率直に認め、「地震学の中に閉じこもり、他分野の知見を踏まえた議論が不十分だった」と指摘。学会内には「大震災を想定した研究もあった」との意見もあったが、「社会に発信すべきだという切迫感がなかった」と退けた。

 今回の大震災は関連する科学の敗北だったと私は思っているが、ようやく地震学会が自己批判を行ったらしい。そのせいか、東海地震、南海地震、直下地震の規模や被害想定の見直しがでるわ、でるわ。大体これまでの数倍~10倍となっている。何だろうね。まるで恐怖を煽っているかのようだ。アリバイ作りにこれ勤めているように見えるのは、皮肉に過ぎるか。

2012年5月29日火曜日

褌子句鑑賞・・・猫跨ぎ

・ 宇宙線とらえて白く山法師
独自の視点でいいと思う。
  白く山法師 → 白き山法師 としたい。
・夏初め古刹の庫裏のショパンかな
古刹が余り効いていないし、ちょっと煩い。庫裡で寺と判るから、
夏初め庫裏の奥よりショパンかな
・遠雷や古刹の弘法寸足らず
 弘法が判らない。弘法大師像のことなら、弘法は無理だね。
  阿弥陀とか地蔵とか観音とか言いかえる。
・朝露の墓石の上の鴉かな
まとまっている。が、そのままだね。
・悪いことなどしてません葱坊主
これよく感じがわかるね。いいんじゃないですか。
 〈実直に生きてきました葱坊主 雄治〉と作ったことあり。 
・牡雉子と鴉が遊ぶ芋畑
面白い風景。ただ字数で牡雉としたのだろうけれど、余りこういう言い方はしないね。
雉子(きぎす)ゐて鴉の遊ぶ芋畑 とか。
・日食に子ら歓声老鶯啼きやむ
子の歓声と老鶯の組合せを意図したのは判るが、ちょっと詰め込みすぎ。
子の歓声は省略して、日食と老鶯の沈黙を組み合わせたら如何か。
・バナナ熟れ幼き虻に出会いけり
バナナは夏で虻は春。まあ季重なりでもいいが、どちらが主体なのだろうか。
その視点で見直してみれば如何か。

うまれつき含羞のたち・・・ 褌子

     朝の散歩参拾分×四日間でやっと八句できた
宇宙線とらえて白く山法師
夏初め古刹の庫裏のショパンかな
遠雷や古刹の弘法寸足らず
朝露の墓石の上の鴉かな
悪いことなどしてません葱坊主
牡雉子と鴉が遊ぶ芋畑
日食に子ら歓声老鶯啼きやむ
バナナ熟れ幼き虻に出会いけり

2012年5月28日月曜日

お久し振り ・・・猫跨ぎ

  太田さんは久し振りの登場で元気なようで何より。何年か前と同じ日常で過ごしておられるらしい。タイの仏教寺院の調査も相当深いところへ至っているのだろう。日本の寺院建築は言うまでもなくルーツは朝鮮経由の中国で、もともとは宗教上の専用の建物でなく、あの時代の役所、学校などの公共建築の形式だったとか。タイは小乗仏教の流れに乗ってインドからもたらされたものなのだろう。その一端でも紹介して頂ければと思うが。
  ところで、ここ数日出歩くことが多くて当欄とご無沙汰だった。褌子氏の俳句が記載されていたように記憶するが、どうも取り下げたらしい。残念ですね。俳句の最大の障害のひとつは、恥ずかしがること、と大家がいうのを聞いたことがある。言っては何だが、誰もそれほど注目しているわけでない。そ知らぬ顔で出せばいい。それで段々慣れて、発表するのが楽しくなる。徒然草のアレだよ。

大田さんの発言着きました  

チェンマイからメールが飛び込んできた。
��orohorokaiのアカウントもパスワードも正しくログインに成功した。
これからも面白い発言を期待したい(褌子こと猪坂です)

2012年5月27日日曜日

大田公威/チェンマイは40℃の日々

投稿の方法が全く分からなくなった。
とにかく試しに投稿してみる。
タイの雨季入りは6月に入ってからであるが、すでに連日のスコールでマンションのそばにはジャングルが復活した。
ひな鳥が巣立ち、リスも電線を走りまわっている。
わたし一人は、ひっそりと寺の調査を続けている。
ひに2~3回のシャワーを浴びて、ビールを飲み、8~9時にベッドに入り、2~3時くらいにコンピュータのスイッチを入れる。
タイ語と英語だけの単調な日が続く。

2012年5月26日土曜日

熊さんありがとう

   いっぺんに二つはできるという熊さんの励ましありがとう。この返事もビール飲みながら書いています。
   

いっぺんに二つのこと?   九州の熊

人間の行動で同時にできることの最大値は三つまでとか。これが加齢によってだんだん減少、70歳近辺は二つくらいかなぁ?ゴルフスイングでは自分にとっての管理ポイントというのがあって、左肩を十分送り込む、うでを緩めない、右ひざを絞る(右側に流れないようにロックする)、右わきを絞る、・・等々を意識して球を打つ。個人ごとに重点度合いが違うから優先順のたかいものから「二つまで」を意識してスイングする。わたしの経験からすると三つのことは間違いなくできない。最近は二つの管理ポイントもあやしくなってきた。
というわけで散歩と句作を同時に、という褌子氏の挑戦にいたく感心したしだい。あまりものごとを深く考えないでまずはやってみることが重要なんですねぇ。

朝の散歩・・・褌子

  つま先立ちしながら歯磨きするとか、いっぺんに二つやると濃密な人生になるそうだ。
 そこで朝の散歩に俳句をつくることにした。
 ゴミステーションをへて裏山に釋蔵院というお寺があってそのむこう農家が点在する畑や森を30分ばかり歩くのだ。
 ―――――もうちょっと推敲して投稿したい

2012年5月21日月曜日

金環日食・・・猫跨ぎ

  金環日食は私も見た。久々の朝歩きをして途中、雲が切れて、薄雲を通して丁度いい具合のリングが見える。時刻は7時30分過ぎ。10分ほど田圃を前に思わぬ天体ショーを観察。雲に隠れるが直ぐ切れて現れる。カメラを持って来るんだったなあ。褌子氏は撮ったのか。 あれ程隠れているのに辺りはやや薄暗くなる程度。昼間の明るさの大半は空気分子の散乱光によるもので太陽からの直の光の寄与は僅かなものなんだと改めて納得。
  そばに自転車でやってきた美少女が何とかグラスを持って天を仰いでいた。さしずめここで「やあ、見れましたね」と話しかけ握手をして別れるのだろうが。少し歩いてゆくと、向こうから老人がそのグラス片手に時折止まっては眺めている。私に「見ますか」といって手渡して呉れる。いやあ、何もない方が良く見えますよと言いたいが借りると、薄らぼんやり見える。このグラス売れたんだろうね。今回は無用の長物だった。
 昨日の相撲だが、白鵬が思わぬ乱調で大混戦となった。旭天鵬という脇役専門の地味な力士が平幕優勝。優勝決定戦に勝ち、引き揚げる時、まさに滂沱の涙。周りの付き人も泣いている。いいものだ。大関陣総崩れの場所だったが、この涙で救われた。最年長の優勝とか。37歳。何だ、息子と同じ年だ。

死ぬのに何故生きるのか?・・・褌子

  ↑おおげさなタイトルだな。 
 猫跨ぎさんの一年間のエッセイに期待したい。とくに大道寺死刑囚の句集に関心があります。
  今朝は曇ったり東の空からわずかに太陽がのぞいたり、金環日食は写真のとおり。
  きのう、甲斐駒から流れ出す尾白川渓谷にいってきた。吊り橋をわたって登り出すとすぐ細い道の右側は眼下の渓谷まで絶壁になっており、先日も老夫婦が滑落死したばかりという話もきいていたので不安でしょうがなかった。20年くらい前にも來たことがあるのに全く違う印象で終始おっかなびっくり足もふるえてきて情けない限り。先日の白馬岳での高齢の医者グループ7人の遭難死も頭によぎったせいもある。
  なんとか神蛇滝をみて不動の滝まで歩くことができた。同じ道を帰るのは自信がないとリーダー格に申し出て、安全な尾根道を下った。往復五時間くらいだが麓の甲斐駒神社にたどりついたらぐったり。朝4時に千葉をでて運転をしていたということもあるかもしれない。帰りは車の中でずっと寝ていた。
 ところが帰ってきて風呂をはいりビールを飲んだら非常な活力、生きることへの肯定感(笑)が心身にむくむくとわいてきた。
 今朝になって昨日の新聞を読む。『生者と死者をつなぐ』(森岡正博著)の読書紹介欄に目がとまった。「死ななければならないのに、なぜ人は生きるのか」と問いを発し、「生者や死者、自然のなかにうごめくいろいろないのちを内部に取り込むことによって、私は生きているのである」という“誕生肯定”を「哲学的アニミズムの生命観」と著者は呼んでいると紹介されている。
 なるほどこれだったのか。渓谷の新緑、巨木、エンレイソウなどの山草、不動の滝でしぶきを浴びながら飲んだ谷川の雪解け水・・などが風呂上がりの冷たいビールを触媒にして一挙に心身を活性化したのは。【写真:渓谷をのぞき込む】
 
 

2012年5月17日木曜日

言葉・・・猫跨ぎ

  逸徳氏の言っていた辺見庸の「瓦礫の中から言葉を」読了。後半繰り返される〈言葉と言葉の間の屍〉を苦い思いで聞く。詩人のこの言葉へ平仄を合わせようとすると、時代は相当遡らねばならない気がする。つまり何もない焼け跡の青空まで。3/11の時点で世界はもう取り返しのつかない処へ来ていたのではないか。
  先日買ったコンポを居間に置き、音楽に浸かりきりになっている。結社誌に一頁貰ってよしなし事を一年書くことになった。昨年洪水のように出た震災句が潮の引いたように消えた。辺見庸の一語とダブルイメージとなって景色が霞んでくる。大道寺死刑囚の全句集を取り上げようか。

2012年5月15日火曜日

鴉と胡桃・・・猫跨ぎ

  鴉と胡桃の話といえば、胡桃を道路に置いておき、車に轢かせて中味を食べる鴉の習性が各地に拡がっていると聞いたことがある。しかも車の轍の位置にきちんと置くらしい。そんなことを思い出したのだけれど、まだ熟す前にねえ。不味くないのかな。
北海道では、ツブ貝を上空からコンクリート面に落として割り中味を食べる――なかなか割れないときは、やはり車に轢かせるとか。これなんか、遊んでいるんだね、完全に。

2012年5月14日月曜日

函館通信178・・・青胡桃・・・仁兵衛

 褌子さん、猫跨ぎさん句評有難う御座いました。季節感が少々ずれてくるのは北海道での俳句作りの特徴かな。
 青胡桃の句、これは6月の函館での実景です。函館山の麓に旧イギリス領事館がありその庭に青胡桃がなっていました。鴉が来てその実を二つ三つと石畳に落してゆくのです。私はベンチで薔薇の香りを楽しみながら見ていたんですがその数が段々増えてゆきます。観光客はそこをぞろぞろ通ってゆきますが中には面白がって青胡桃を足で踏みつけてゆく人がいます。当然胡桃が割れて実が出てきます。それを待ってたとばかりに鴉が枝からさああーと舞い降り実をこじ開けて食べるか他所へ持ち去って行くではありませんか。四、五頭の鴉のチームでした。

2012年5月13日日曜日

初夏仁句鑑賞・・・猫跨ぎ

・一湾を周章てて下りて首夏の風
一湾とは海岸の湾入部のことと思うけれど、そこから下りるということがちょっと腑に落ちなかった。多分一湾を望む丘からということだろうけれど。首夏の風が何故周章てたのかもよく判らない。急な夏の到来に戸惑ったということかな。
・山笑ふファッションショーの歩き方
山の麓を歩いている人の形容というより、山が笑いながら歩いている様かな。ちょっとシュールな。
・理科室を残し卯の花腐しかな
これも言葉は易しいが難解句。理科室(のみ)を残すとはどういう状態を表現しているのだろう。
・凪の日や胡坐をかいた蠅二匹
蝿が胡座をかくというのは珍しい発見。特選。
・若葉風仕上げに掛かる船大工
一転し、素直な初夏風景。
・青胡桃鴉の知恵に任せをり
青胡桃とはまだ実になったばかりの青い胡桃。この句意は、成熟した後頂戴する鴉のひと工夫を思いやっているのだろう。いささか理に傾き過ぎた。
・ツーシームフォーシーム切れ青嵐
ツーシームとかフォーシームは野球の特殊変化球のことか。握りで縫い目の数のことね。
野球シーズン到来。しかし草野球にすでに浸透しつつあるのだろうか。
・きっちりと二十五センチ松葉独活
松葉独活ってアスパラガスのことね。しかしどうなんだろう、アスパラガスと記した方がいいと思うけど。
・ジーパンのださい膝穴夏はじめ
いまの若者はまったく。あの「美学」は判らない。
・ライラック遠くに潤む墳墓あり  
何回忌になるかな。

2012年5月12日土曜日

春の終わりは夏の始まり・・・褌子

   今回の仁句は初夏の季語と晩春の季語が交互にててくるのが誠に面白い。
   まさに季節の変わり目
・一湾を周章てて下りて首夏の風
 初夏を首夏というんだね。
 夏がきたという雰囲気がでている。青春の初恋のにおいもする。
・山笑ふファッションショーの歩き方
 パリコレ?現代的な明るい句だ。
・理科室を残し卯の花腐しかな
 なぜ理科室だけなんて理屈はいらない
 最近の長雨はまさに卯の花腐し なかなか雰囲気がでている
・凪の日や胡坐をかいた蠅二匹
 蠅も胡座をかくんだね。手をする足をするだけでなく
 まさに夏がきたという句だが、季節的にまだ早すぎる感あり
・若葉風仕上げに掛かる船大工
  特選 
・青胡桃鴉の知恵に任せをり
 青胡桃=あおくるみ 鴉の知恵に任す? 意味不明だがこんなことを思い出した。
青胡桃は毒をもっている。子供のころ、胡桃の皮を河原で石ですりつぶして川に流して魚を気絶させたことがある。手が緑黒く染まってなかなかとれないので親に怒られた。
・ツーシームフォーシーム切れ青嵐
 わたしにはわかりません
・きっちりと二十五センチ松葉独活
 酢味噌で食べたいね
・ジーパンのださい膝穴夏はじめ
 若いね、夏がきた
・ライラック遠くに潤む墳墓あり
 リラの君を思い出して思わず目が涙で潤んできた

函館通信177・・・句評・・・仁兵衛

 褌子さんの句評があって更に猫跨ぎさんの自解が出てしまうと評が極めてしにくいが仕方がない。

 何といっても「京マチ子・三船敏郎竹の秋」は抜群だね。昔の今と今の今を実に上手く組み合わせて出来上がっていると思う。一つの俳句技法なんだろうけど季語が実に良く効いている作品だと感じた。特選。
・ワッフルの凹みに溜まる春の闇・・・不気味さと甘さを同時に感じさせてくれる面白さを感じました。
・言いよどむとき鶯の初音かな・・・作者はどんな時に言いよどんでいるのだろうか想像をかきたてられます。
・春燈を消しても汚染地図赤し・・・どんな危険が隠れているのか「赤し」の言い切りが鋭さを増していますね。
・富士の嶺の見れば見えたで春の鬱・・・中七の表現につい惹かれてゆきました。

 それでは拙句もそっと続けましょう。

  一湾を周章てて下りて首夏の風
  山笑ふファッションショーの歩き方
  理科室を残し卯の花腐しかな
  凪の日や胡坐をかいた蠅二匹
  若葉風仕上げに掛かる船大工
  青胡桃鴉の知恵に任せをり
  ツーシームフォーシーム切れ青嵐
  きっちりと二十五センチ松葉独活
  ジーパンのださい膝穴夏はじめ
  ライラック遠くに潤む墳墓あり

2012年5月10日木曜日

ご返信・・・猫跨ぎ

午後から天気が急変するね。さっきも雷雨だった。
御批評にちょっとご返答を。

・言いよどむとき鶯の初音かな
��なるほどね。実に面白い瞬間。こういうウグイスは謙虚で顔をみせてくれないが可愛いな)
俳句の場合主語が何かといつも戸惑う。評者は鶯が言いよどむとした。しかし言いよどむと初音が同時とはちょっとおかしくないかい。作者が誰かと会話をしていてふと言いよどんだ時に初音が聞こえた、としたい。
・菊坂の指につめたき桜餅
��菊坂の指ってどういう指か知らないが、桜餅はたしかにいつもひんやりしている。)
菊坂はこの前の文京区散策の一葉ゆかりの場所。ちょっと拝借した。「の」も俳句では多様に使われる。菊坂の指、でなくて、菊坂の、で一端切れる。菊坂に於いてという意味。
桜餅をつまんでいる風景。これも菊坂の指って変だよね。それで於いて、と読んで欲しい。
・京マチ子・三船敏郎竹の秋
��京マチ子三船敏郎なら黒沢明「羅生門」。恐ろしい映画だった。あれは応仁末期、竹 秋の藪の中でおきた事件であったか。京マチ子長谷川一夫は衣笠禎之助「地獄門」
 京マチ子森雅之は溝口健二「雨月物語」。じつに恐ろしい映画。
  断然特選。「・」は必要か如何)
「・」の有無は特にきまりはなくて、好みの問題と思うが、無いと名前が重なって煩雑になると思うが。そう黒沢の「薮の中」のひとこま。京マチ子は豊満な魅力的な女優だった。
・富士の嶺の見れば見えたで春の鬱
��春は生き物万物活性化、花粉だのいろんなフェロモン様のものが空気中をただよう。皮膚科、眼科、耳鼻咽喉科、精神科の患者が一挙にふえるとき。それと富士の嶺の関係がわからない)
これ、前書に後半三句は犬山吟行句と言ったので、そこから想像して貰いたかったが。新幹線から富士山が見えた景。この時期、僥倖だが、それが何なんだと。こっちの気分がすぐれないことを言った。春愁といえばいささか安易に流れそうなので。
・天守閣の階(きざはし)険し桜東風
��犬山城。川沿いにそびえる。 天守閣きざはし険し桜東風ではまずいですか)
そうすると、天守閣で一端切れて、句は三段切れになる。階が天守閣の中の階なのか、天守閣へ至る階なのか、判らなくなる。ここは必須。「の」をつけて上五は字余りになるが、上五の字余りはまあ許される。

re:立夏ですねえもう・・・褌子

・ワッフルの凹みに溜まる春の闇
   春の闇とはおおげさだが面白い。
   陽性の甘ったるいお菓子にも暗い過去忌まわしい思い出がある
・言いよどむとき鶯の初音かな
   なるほどね。実に面白い瞬間。こういうウグイスは謙虚で顔をみせてくれないが可愛いな
・筆太の朱墨の値札桜鯛
   スーパーか魚屋で買い物籠もって値札をみつめている。
・菊坂の指につめたき桜餅
   菊坂の指ってどういう指か知らないが、桜餅はたしかにいつもひんやりしている。
・使はれぬ螺旋階段花曇
   この螺旋階段は古い。黒光りしているが埃もついている。真鍮部分がすりへっている。花曇が洋館の古さをきわだたせた
・京マチ子・三船敏郎竹の秋
   京マチ子三船敏郎なら黒沢明「羅生門」。恐ろしい映画だった。
   あれは応仁末期、竹秋の藪の中でおきた事件であったか。
   京マチ子長谷川一夫は衣笠禎之助「地獄門」
   京マチ子森雅之は溝口健二「雨月物語」。じつに恐ろしい映画。
   断然特選。「・」は必要か如何
・春燈を消しても汚染地図赤し
   原発放射能と春灯の対比あざやか
・富士の嶺の見れば見えたで春の鬱
   春は生き物万物活性化、花粉だのいろんなフェロモン様のものが空気中をただよう。皮膚科、眼科、耳鼻咽喉科、精神科   の患者が一挙にふえるとき。それと富士の嶺の関係がわからない
・男手の伸びて点灯春祭
    ごつごつした男の手でなくてはいかん。白魚のような乙女の手ではだめ。
    準特選
・天守閣の階(きざはし)険し桜東風
    犬山城。川沿いにそびえる。
天守閣きざはし険し桜東風 ではまずいですか

2012年5月7日月曜日

立夏だね・・・猫跨ぎ

立夏だね。もう今年も夏か。春の句を黴がはえぬうちに。
後の三句は犬山吟行のもの。猫が気になってあまりいい旅行でなかった。

・ワッフルの凹みに溜まる春の闇
・言いよどむとき鶯の初音かな
・筆太の朱墨の値札桜鯛
・菊坂の指につめたき桜餅
・使はれぬ螺旋階段花曇
・京マチ子・三船敏郎竹の秋
・春燈を消しても汚染地図赤し
・富士の嶺の見れば見えたで春の鬱
・男手の伸びて点灯春祭
・天守閣の階(きざはし)険し桜東風

2012年5月6日日曜日

キンチョール・・・褌子


idth="320" height="240" align="left" />    連休も終わりましたね。ずっと雨だったが神奈川の七沢温泉に甥っ子がいるので出かけた。
   四日は朝から晴天で大山のふもとの日向藥師まで散歩した。



  たんぼのなかで通称凧おじさんが5メートルもの鯉の凧をあげていた。青空に緋鯉の大凧。さらに日向藥師の手前の土壁には昔なつかしい「キンチョール」の看板。「ルーチョンキいやまちがえましたキンチョール」のコマーシャルを思い出しました。NHK朝の連ドラ『おしん』をやってたころだったか『ひょっこりひょうたん島』のころか。

re:;いいわけ・・・褌子

泉のようにわき上がる気持ちを俳句で何とか表せないか発酵・熟成して余計な形容詞を全部切って捨ててぎゅうぎゅうと17文字に凝縮できないか、と格闘している様を「発酵中」とおっしゃる逸徳さんの奥ゆかしい謙虚なお人柄、じつに生きることに助平なところが美しくさわやか。
吉田一穂(いっすい)という貧乏詩人をあばら屋に訪ねたところ、一部屋しかない閉めきった六畳間に紙切れを何百枚もならべて詩の最後の一行と格闘している一穂先生がうんうんうなっていたという。

いいわけ・・・・・逸徳

作者は弁明せず、作品をして語らしめよ・・・・などといいながら、いいわけするとは気が小さいというか、かっこうつけるというか、情けない。とはいえ、ここで作者のねらいをいうと、だったらこうしたほうがいいというヒントをもらえるかもしれないと思い、拙作についてちと述べたい。初心者の学習の場ととらえていただければ。しかしだ、初心者をよってたかってご批評いただき光栄の至極。 とにかく褒められるのはいい。 褒めれば豚だって空を飛ぶ(宮崎駿の「紅の豚」のファンです) そういうわけで・・・・
碧空の句・・・・・・ 前から気になっていたが、桜の枝は横に伸びていって途中からグッと上に向かう。 これ桜が空をだきとろうとしているように見える。 とにかく桜は、命が聞こえるという気がするのです。それと上野の散策で、赤い椿に食欲と色気を感じたんだが、この感覚も句にならんかと思っているけど、目下発酵中。
 老い一人、・・・・・・・これ写生句というのかな。女房に逃げられて数日ひとり暮らしで自炊した。あの日はとうとう一回も声を出さなかったなあ。内言のみの世界。さすがにひとりぼっちを味わいつつ、晩飯をつくっていたら、東北でワカメと格闘中の褌子さんから「格闘中」とメールがはいり、少し元気がでた。 で海啼いての句につながる・・・・・・・・ 辺見さんの本を読み、東北の褌子さんのメールに刺激されて、九月にみた福島の被災地の光景を考えていたら、ほろほろかいのブログで「砂漠の薔薇」を拝見した。この取り合わせがなんともいいがたい気分にさせた。 あの瓦礫の海には、何にもなかった。砂漠だって薔薇が咲くのに・・・・というわけ。しかしこれまだ推敲不十分だなあ。 この気分を何とか表したいのだが・・・・俳句では無理かなあ。 
風ほえての句・・・・・ 夜更けにひとり机にむかっていると、2キロほど離れた東海道線の夜汽車の音が聞こえる。 しかし、うしみつどきの音は、これ現実だか、幻聴だかわからなくなる。昔聞いた音の記憶と、こころの中でまざってしまうのだ。50年前の記憶と5分前の記憶にそんなに差がなくなる。 主観的世界の中では、確かに時間感覚は独特だなあ。 太陽の余命50億年と、ひとの人生50年の間に差がないのである。これおもしろい。 俳句にしたい。発酵ちゅう。

野麦峠・・・褌子

  連休明けに野麦峠にいって上高地ちかくの平湯温泉に泊まるので山本茂実『ああ野麦峠』を読んでみた。
  飛騨を歩き回って三百人ちかいおばあさんを訪ねて聞いたところ、誰もあんな辛いこと二度と思い出したくもない…というかと思ったら
  「まいにち白米食って親喜ばせる金もらって正月には吹雪の野麦峠を何千人も連なって死にものぐるいで信州から飛騨へ帰ったんだ」と生き生きと楽しそうに語りつづけるおばあさんばかりだったという。親が前借りしているのでマユを煮る蒸気でびしょびしょになって病気になっても帰ることもできず倒れて動けなくなるまでこきつかわれたが、それでもおばあさんたちにとって一生に一度の青春時代の思い出なんだ。良人が戦死しても、つらいことはさっさと忘れて楽しいことだけ思いだして子や孫のために野良仕事に精出す飛騨の貧農のおばあさん。
   ↑これ以前にいちど書いたかも…こういうことが多くなった

2012年5月5日土曜日

逸徳句を鑑賞する・・・褌子

   けふ立夏とか。あんなに寒かったのにもう暑い。
   褌子すけべい説を身近な女性に聞いてみた。子供三人つくったんだから、一人っ子のお父さんより三倍助平とのこと。
   すけべー・スケベーよりも助平がいちばん品良く高潔感、愛嬌もある。日本語の深奥深淵。
・碧空を ハグし疲れて 花吹雪
   ハグは抱きしめての意味? 抱き疲れ? 
・そんなこと おれはしらんと 雪の富士
   そうですか。雪の富士がそんなこと言ってるのか。
・老いひとり もやし卵を 蒸してみる
   無季らしいのがおしい
   老いひとりが余計。春昼にもやし卵を蒸してみる とか 
・五里夢中 五里ではすまぬ 海馬啼く
   トドと記憶中枢の海馬をかけたか。
   たった17文字でことば遊びはもったいない。
・風ほえて 忘れたように 月ひとつ
   いろいろ想像がわくのだが
・海啼いて 薔薇咲くという 砂漠さえ
    海啼くと沙漠がつながらない。
風ほえてとか海啼いてとか、花吹雪のようにふはふはとはかなく五里霧中をゆく観。今回の逸徳句は、「もやし卵」以外は実在=モノを凝視し瞬間を切り取ってないのが惜しまれる。モノは何も眼前になくても想像上のモノでもよいが一点凝視は不可欠ではないか。
  とかえらそーなこと言ってるが一点凝視どころか小生が連休中にはじめた読書はめちゃくちゃ。
  「銃・病原菌・鉄」も中途半端なまま「ショック・ドクトリン――惨事便乗型資本主義の正体を暴く」。ネルソンマンデラ自伝の「自由への長い道」。加藤陽子東大教授の「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」などなど
    

今日は暑かった・・・猫跨ぎ

  褌子氏のエネルギーの源がすけべーかどうかは詳らかにしないが、褌子氏がすけべーかどうかという設問であれば、問題にするほうが可笑しい。すけべーである。論を待たない。そういう逸徳氏がこれまた人のことを論ずる資格がありや、だ。教え子に秋波をおくるという、時代であれば百叩きの上、市中引き回しの刑は免れまい。まあ、いつか銀座にある「スケベニンゲン」というレストランでイタ飯でも食うか。
 話は急に変わって、CDコンポを買った。パソコンにCDを取り込み、最近はネットでダウンロードしたりで、HDには貯まる一方だが、聞くのはパソコンのスピーカー。急に思いついて、ヨドバシで購入。コンポなど何十年ぶりだが、いやあ技術の進歩はすごい。クラシック、演歌と聞きまくっていた。実にいいねえ。何故気が付かなかったか。
  
辺見庸のその本は買ってあるがまだ積ん読。じつは三菱重工爆破事件の犯人で死刑囚、大道寺将司の全句集「棺一基」が出版されたが、この出版の世話人が辺見庸。二冊積んである。辺見庸はずいぶん前吉本隆明との「夜と女と毛沢東」という対論集を読んだことがある。シャープな人だね。脳梗塞を患った筈だが、回復したんだね。

「碧空を ハグし疲れて 花吹雪」:まあまあだね。
「そんなこと おれはしらんと 雪の富士」:できれば我を詠いたい。
「老いひとり もやし卵を 蒸してみる」:いいと思うが、老いひとり、というような人口に膾炙した言葉は出来れば避けたい。
「五里夢中 五里ではすまぬ 海馬啼く」: 四文字熟語もできれば避けたい。
「風ほえて 忘れたように 月ひとつ」:まあまあだね。
「海啼いて 薔薇咲くという 砂漠さえ」:前書きでサハラのイメージ。海啼いてがちょっと意味不詳だった。

無季で行くわけね。
いやあ、或る水準は越えてると思う。あとはどんどん作るのみ。またご披露あれ。

函館通信176・・・逸徳句・・・仁兵衛

 逸徳さんいよいよデビューですね。最初から秀逸句の連発じゃないですか。
 説明は無くして五ー七ー五を間隔を空けずに並べ替えてみた。作者の意図とは違った受け止め方が出来そうだ。

 ・ 碧空をハグし疲れて花吹雪・・・極めてファンタスチックで清清しさを感じた。特選。
 ・ そんなことおれはしらんと雪の富士
 ・ 老いひとりもやし卵を蒸してみる
 ・ 五里夢中五里ではすまぬ海馬啼く・・・夢中は霧中の間違いか?しかし面白さが先に立つ。
 ・ 風ほえて忘れたように月ひとつ
 ・ 海啼いて薔薇咲くという砂漠さえ・・・海・薔薇・砂漠の面白い取合せ。

 これからもどしどし出して楽しませて下さい。


こんにちは・・・・だらだらと・・・・・逸徳

おひさしぶりです。今日は静岡はよく晴れました。しかし、こいのぼりがご町内ではほとんど見えない・・・高齢化現象のためです。やれやれ、このままでは我々の年金もどこまで持つのかなあ。・・・・褌子さん、ボランティアご苦労さまでした。 数日前に辺見庸の「瓦礫の中から言葉を」を読み終わって、表現行為の奥深さと内容の重さにくたびれ果てていた。しかし、褌子さんは、そんなことは軽やかに飛び越えて、高度1000メートルあたりを飛行(浮遊?)するかのように、現地に飛び込んで行動してきた。だだご苦労さまでしたとしかいう言葉がない。 なんでこんなに行動力があるのだろうかと考えてみると、ひとつの仮説はすけべーだからではあるまいか。 すけべーということは、要するにポテンシャルが高いのであり、古来、行動的な有名人にはすけべーが多い。 性的エネルギーが攻撃的行動力に転化しているのである。 ああ、まけた。めまいがする。褌子さんはやっぱり一流のすけべーと思う。・・・・(しかしだ、すけべーという言葉はいいなあ。語感がいい。エッチなんてことばよりずっと奥深い。いいなあ) 最近、地域の高齢者を組織するイベントにかかわっているのだが、それに関連して今までの専門家の研究をいろいろ調べてみた。大変面白いことに、社会参加して行動的な高齢者は、死亡率が低く、認知症にもなりにくい。 だから褌子さんは、結局ほろほろかいの中では、最後まで生き残り、みんなを見送るのだろう。後はよろしくたのむ。・・・・

 お師匠の前回の言葉から、言葉で絵をかけばいいと貴重なヒントをもらい、いろいろ考えているがなかなかむつかしいなあ。しかし、下手でもいい。まずやってみることだと思いつつ、日々の雑用に流されていく。

で・・・ 「碧空を ハグし疲れて 花吹雪」・・・・先回の上野のホロホロ会で・・・・・
    「そんなこと おれはしらんと 雪の富士」・・・・・牧之原台地のむこうにおふじさんは健在です。
    「老いひとり もやし卵を 蒸してみる」 ・・・・自炊していたら東北の褌子さんから携帯メールがきた。
    「五里夢中 五里ではすまぬ 海馬啼く」・・・・短期記憶の減衰はなはだし
    「風ほえて 忘れたように 月ひとつ」・・・・遠く夜汽車の音が聞こえ、それが過去の記憶なのか、現実の音かわからなくなる。
    「海啼いて 薔薇咲くという 砂漠さえ」・・・・ ローズオブサハラか。初めて知った
で・・・・サハラでは、流れ星のくずがひろえる人間のあまりいかないところがあるらしい。 サンテグジュペリの夜間飛行をおもいだした。流れ星と砂漠の薔薇なら俳句になるかと思ったが、むりだ。荷が重い
    


2012年5月4日金曜日

珍品展示会・・・猫跨ぎ

 砂漠の薔薇ね。硫酸カルシウムの結晶だね。砂漠の昔オアシスのあったような場所で採取されるらしい。現地の格好の観光みやげとか。神田の三省堂なんかでやる鉱物や天然石の展示即売会でよくみる。まあ、あまり高くない。
写真は黄鉄鉱(FeS2)の結晶。立方体から小さな立方体が突き出ている。ダリなら喜びそうだ。これも三省堂の展示会にあった。スペイン産とかクロムメッキしたみたいに鏡面になっている。日本産の黄鉄鉱は金色をしているがこんな大きな結晶体はあまり見ない。結晶は面白い形が多いね。格好良く言えば、原子レベルの規則性が巨視的なレベルに顕れているというか。珍品展示会といこうか。

2012年5月3日木曜日

RE:怪しい・・・・褌子

   的確な怪しげなコメントありがとうございます。
   誰からも反応がないので落ち込んでおりました。背後の赤い珊瑚は南の海で仕入れたものを大事に日航機の座席でかかえていたら、とび職(スチュワーデスのこと)が珊瑚の枝をポキリと折ってしまった。平身低頭して謝るので男らしく許してやったというもの。
   じつは好好爺の安原さん、伊万里の古い壺などお宝集めが趣味の方でして・・・
   アポロジニの弓矢とかマッカーサーの「御真筆」(笑)とか妙なものをいろいろもっている。
   源頼朝御幼少のころのサレコウベはまだ持ってない。
   スズメバチの焼酎漬けをつくっていて精がつくぞガンバレと杯でだされるのには閉口。 
   【写真は珊瑚のそばにあったサンドローズ=沙漠の薔薇、サハラ砂漠でのみ産出するのでローズオブサハラとも】  

怪しい・・・猫跨ぎ

  両面に凹みがある石ねえ。片側だけなら、凹みで木の実を砕いたとか何かをすり潰したとか、まあ誰でも考えるが、両面ねえ。建造物の一部かな。
その壺は一見、特に割れているふうもなく、ほぼ完全だね。畑の中からそんな完全なものが出土するかな。結構新しいのではないか。
背後のケースにある赤い珊瑚などを見ると、その人はお宝を集める趣味があるらしい。とっくに調べはついているのではないか。何やら怪しい。(笑)

2012年5月2日水曜日

奇妙な石のつづき・・・・褌子

  ↓のはなしの、国分尼寺跡は小さな記念館が建っていて、いぜん、猫跨ぎさんや逸徳さん、また国兼さんも案内したことがある。
  この国分尼寺から半キロくらい南西に上総国分寺の史跡があるのだが戦前は畑だったらしい。
  そういえば国分寺から1キロ東北のわが家周辺に上総の国の国府があるのではないかと発掘がすすんでいて、そうなれば更級日記の著者はうちのあたりに住んでいたことになるなあと、数年前かブログに書いたことを思い出した。
  このブログをゆうべ書いていたら、女房も写真をのぞきこんで「すり鉢じゃあないの」といった。寺院の礎石ではない。じつに奇妙な石だなあと安原さんとふたりで不思議がって喜んでいるのである。写真を佐倉の歴研に送ったら「なあんだ」という笑い話になるかもしれないが安原さんの夢のほうが大事なんだ。安原夫人がもつ壺の上の写真はごらんのとおり。素焼きでたちまち水が外に滲みでる古拙なつくり。大学の先生がかけつけて「う~む」とうなりながら「古代の貴重なものが出て来た…」と言ったのか、そういうふうに聞こえたのか。これはまさしく国分寺の山門跡の土中からでたのだが国兼博士の写真鑑定結果がまたれる。

2012年5月1日火曜日

奇妙な石・・・・褌子

   市原市の上総国分寺跡の山門周辺に畑をもっていた今74才の安原さんの家にいったら奇妙な石をみせられた。
   安原さんが三十代のころ、畑仕事で深さ1㍍位の所から壺を掘り出した。近くで国分尼寺の発掘をしていた大学の先生が聞きつけてきて、古代の貴重な壺らしいといって帰って行った。そのあと、ちかくの畑から奇妙な石も出土した。
  まもなく、市か県の文化財保護の係官が「ぜひ寄贈を。あんたがもっていても何の役にもたたないから」と言ってきた。その言いぐさが気にくわんと若かった安原さんは寄贈をことわり、奇妙な石が出土したこともひとには言わず40年以上も経ってしまった。
  先日、こんなものをもっているんだと押し入れの下からとりだして壺と石を見せてくれた。
  壺よりも、石の方に関心をもった。岩石学の知識がないので何という石なのかわからないが、かなり重く非常に硬い緑黄土色の石である。両側とも凹面に4~5センチもへこんでいて、写真で見るようにぶつぶつと穴だらけである。胡桃を割ったりドングリなどをあく抜きするためにすりつぶしたものではなかろうかと思った。そうすると縄文後期か弥生時代か。しかし上総国分寺そばの畑の中からでてきたのだから、八世紀半ばのものか。
  不思議な石だなあと面白がったら、調べてくれと頼まれてしまったが、専門外の人間に頼まれても困る。
  と、いうわけで昔の出土品を展示してある博物館などに行ったら似たような石がないか注意してみてみることにしよう。
  安原さんはいちおう仮名だが心当たりのある人は教えて欲しいといっているが、男は、晩年になると若いころは気にかけなかったものが気になるものらしい。ちなみにこの旧家の安原夫人は興味がないとのこと。
【写真=両面とも写真のように窪んでいて、どちらが表とも裏ともいえないつくり。25キロ以上の重さ】