森鴎外(1862~1922・大正11年)が明治15年から大正7年まで書き連ねた日記は出版されたものだけでも独逸日記、観潮楼日記など十種類もあるそうだ。文豪ともなると日記も公表されることを意識して書き記しているので、今ではすべて作品として全集に収録されている。
このうち、鴎外が明治32年から三年間を陸軍第12師団軍医部長(さきに私が書いた小倉連隊軍医という表現は正しくない)として北九州の小倉で過ごした時代の日記が『小倉日記』である。ところがこの『小倉日記』だけが戦前どうしてもみつからず、昭和26年2月になって鴎外の子息が疎開先から持ち帰った箪笥の反故のなかから発見し当時、新聞を賑わしたらしい。
岩波書店は戦前についで二度目の鴎外全集38巻を昭和26年から昭和31年にかけて出版するが、『小倉日記』の収録巻をとくに急いで出版したことはいうまでもない。鴎外研究者や鴎外ファンが首を長くして待っているからである。
松本清張『或る「小倉日記」伝』は昭和27年9月の「三田文学」に発表された。
清張は出版されたばかりの『小倉日記』を読むやいなや傑作『或る「小倉日記」伝』を書き始めたことになる。一日も早く読みたいと一番、首を長くして待っていたのが清張ではなかったか。
『或る「小倉日記」伝』は昭和27年下期の第28回芥川賞受賞作となり、一家が小倉での貧窮生活からやっと脱出することができたとき、清張はすでに43才になっていた。
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