山桜の良さを堪能。初日は磨崖仏の大野寺のしだれ桜、室生寺、長谷寺、さらに又兵衛桜をみて、吉野山の中千本の宿に入った。中の日は奥千本まで登ったがまだ全く咲いていなかった。西行庵もひっそりしている。上千本まで下ってくると山桜が全山を埋め尽くすかのように咲き出している。
中千本ちかくには鎌倉末期の後醍醐天皇陵もある。が、私は、南北朝時代より七百年も昔の壬申の乱の舞台となった吉野のほうがはるかに歴史ロマンを感ずる。天智天皇の弟である大海人皇子は、この吉野に逃げて反乱を周到に準備し近江朝廷軍を破って天武天皇になった。
きのうは帰りは朝一番に宿をでて多武峰(とうのみね)の談山神社を訪ねた。
談山神社は20年くらいまえに女房と門が閉まる寸前に入ったことがある。あのときの深とした夕闇せまる談山神社が忘れられないが、今度は朝いちばんに入った。
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我蝦夷、入鹿を倒す密談をした場所だから談山神社(たんざん)というのであるが、むろん藤原氏の元祖鎌足を祀っている。蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子が大化の改新を断行し天智天皇になり大津京で即位するのである。しかし、645年の大化の改新から、天智天皇の長子である大友皇子(弘文天皇)が大海人軍にやぶれて縊死するまでたった27年しかない。
桜よりも紅葉の名所であるが、桧皮葺の十三層の塔を背景に咲き誇る桜もまた悪くない【写真】。ちょうど春の神幸祭が始まるのに幸運にも遭遇した。篳篥(ひちりき)の音色にあわせて神事がはじまった。宮司さんが花粉症なのかマスクをして現れたが祝詞(のりと)がはじまるとマスクを外したので不謹慎にも可笑しかった。われわれも榊でお祓いをしてもらった。
神社から数百㍍離れた森のなかに鎌足の二子である藤原不比等の墓所といわれる十三層の石塔がひっそりと建っている。る。正面からみる石塔はきれいに十三層に積み上がっているが、なんと裏に回ると十三層の石板のうち下から一〇層までがことごとく写真のように破損し欠けている。なぜだろう? 廃仏毀釈のせいか?今後の宿題が残った。
この二泊三日の旅で、宮部みゆき責任編集「松本清張傑作短編コレクション」(文春文庫)の三巻本を半分くらい読んだ。女房たちが雑踏の夜桜見物に出ている間に独りちびりちびりと二つ折りの民宿の座布団を枕に小説を読むことほど楽しいことはない。
松本清張は九州小倉の人である。芥川賞をとった初期の作品『或る「小倉日記」伝』を再読する。「小倉日記」とは小倉連隊の軍医だったころの森鴎外の日記である。さらに「ヰタセクスアリス」を書いた森鴎外の小倉時代の秘密に触れている『削除の復元』も短編ながら面白い。しかし清張の小倉時代の極貧生活を描いた自伝風の『骨壺の風景』を読んで粛然としてしまった。わたしは今年こそはどうしても小倉の北九州市立松本清張記念館に行かねばならないと決意した。
さて、長い長い前書きになってしまったが、結局なにをいいたいかというと、今年秋のほろほろ会の旅行はできれば北九州方面にしたいといいたいのである。国兼さんに『三ツ目が通る』の写楽呆助みたいにペタンと絆創膏を某氏にかわって貼られそうな長々しい文章で申し訳ありません。そういえば先日のお酒も、上野の鴎外ゆかりの地でしたな。鴎外荘を選んだ小蔵ひでをさんの先見の明に恐れ入谷の鬼子母神。
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