2011年3月27日日曜日

技術と哲学 あるいは思想・・・逸徳

ある技術的問題があるとき、その解がどのようなものであるのかということは、数学の問題とおなじで、その技術にかかわる技術者の哲学、あるいは思想性などとは関係なく一義的に出てくるという素朴な考え方がある。つまり技術屋というのは技術に徹すればいいのであってこむつかしいことは考えないという、単純な発想だ。悪しきプラグマティズムというべきか。
 だがそんなことは全然ない。ひとつの問題の解はひとつとは限らず、しかもそこにいたるプロセスもひとつではない。したがって、どの筋道で問題を解決するかということの背景には、技術者の哲学、あるいは思想性というものが(そういうものがあればだが)かかわってくるのは当然のことだろう。で、今回の福島の問題をみていて、もれ聞こえる状況から推測するに、どうもこういう問題がからんでいるような気がしてならないのだ。
 技術に対する単純な信頼は簡単に傲慢さに転化してしまう。「想定外」ではない。想定してもそれを採用しなかったのは、技術者の思想性の問題ではないか。傲慢、単純、資本のロボットということばが浮かんでくるのである。もちろんここには、コスト優先という資本の論理に追従していた技術者の姿勢もはいる。 下請けの被曝も、そこにいる技術者の傲慢と怠慢と無思想がからんでいないか。人命優先なんて思想はなくて、コストの安い下請けにやらせておけという考えがチラリとでも頭の中に浮かんでいたとしたら、そいつは罪万死に値する、ただのロボットだ。傲慢で無思想で、組織の中に埋没して責任を転嫁する技術者はいなかったか。

事態が沈静化したら、あらゆる権力から独立した調査委員会をたちあげるべきだろう。原子力安全委員会のありかたから、東電の体質、そこにおける原発技術のとらえかたまで、それこそかかわった役人と技術者のひとりひとりの思想性にまでさかのぼって徹底的な分析をしてほしい。それが今後の原発の処遇を決める最低限の条件ではないだろうか。


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