仁ちゃんの俳句をめぐって、三人の感想がならんだ。こういうのはめずらしい。仁ちゃんの作品もさりながら、批評がそれぞれの批評者の個性をあらわし、それぞれがひとつの作品のようだ。まさに批評は別の面からの創造行為だろうなあ。そこで慇懃無礼大胆不敵にも批評の批評を試みたい。お二方の反論ご意見を賜りたい。まあひとつの遊びとしてね。 仁ちゃん、申し訳ない。勝手に使わせてもらいたい。 とりあげたのは「バス停の句」だ。
まず、褌子氏・・・・バス停に今置いてきた春の夜
バス停での瞬間を読むとすれば「いま置いてきた」とは変だ。季語をいま置いてきた…というのはおかしいのではないか。私見ですが。
そしてお師匠・・・・・・ バス停に今置いてきた春の夜
ということは、バスに乗ったあとは、春の夜は無くなったと。特別な夜であったとしてもちょっと分かりずらい。
最後に愚見・・・・・バス停に今置いてきた春の夜・・・・・ いいなあ、この「春の夜」はどんな夜だったのだろう。したしい仲間との語らい? 家族の歓談? それとも恋人との一夜のデート?? その楽しさや優しさを全部バス停において、暖かい思いだけ懐いて作者はただ一人夜のバスに乗るのだ。このバスはどこにいくのか。 人の生は孤独だが、孤立ではない。そこまで考えされる。
まずさっとみると、なんともおいらのはくさいなあ。絵画的に過ぎる。なんか演劇の台本のセリフの分析みたいである。まあいいや。まず確認する必要があるのは、読み手のいる場所と読まれた瞬間だ。読み手は明らかにバスの車内。「今置いてきた春の夜」から、乗っているのは夜のバスであるのがわかる。ここで、何となく勝手に想像をたくましくすれば、バス停の暗い電燈の光のなかで、読み手を見送ってひとりたたずむ麗人をイメージしたいね。これ蛇足。
ここで「今置いてきた」の一言から、この「春の夜」は、漠然とこの世界をつつみこんで流れている一般的な「春の夜」ではないことがわかる。それは「置いてくることができる」ような、この一般的な春の夜から切り取られた、何かそこだけ風呂敷に包まれたような特別の「春の夜」だろう。それから離れて、今読み手はその春の夜を、客観的?に外から眺めているに違いない。 そして、その特別な春の夜がどんなものであったかによって、暗い夜のバスにひとり乗っているであろう、読み手の心にわいてくる感情は違ってくる。ここまでくると、この関係からどんな感情を読み取るかということは、もはやこれは作品の問題ではなく、この俳句の読者の精神状況や感性を反映する鏡になってくる。読者は、自分自身の生を投影するようになるのである。(ここでなんもこころが動かんやつもいる。それはしょうがない。猫に小判だ) そういう絵画的、あるいは演劇的力がこの作品にはひそんでいると思う。良い作品とは、畢竟、読み手の心をどううつしとるかという面をも持っている。
したがって、褌子さん、この春の夜はどうしても置いてこなくてはいけないのだ。読み手はそこから離れてきたのではないか。でないとドラマは成立しない。 そして、この春の夜はなくなってはいない、ただ読み手はその中にいないだけだと思うがいかがでしょう。お師匠。
以上、おそまつ。
追伸、春の雨じゃあ面白くないというお師匠のご批評、まいった。その通りだ。春の雨じゃあ、そのままじゃん、面白くもなんともないと、実は不安だったのをズバリといわれた。
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