まず第一にいのっていること。来年の4月までは最低限東海地震はおきてもらっては困る。実は女房が原発の地元も地元、1K圏の佐倉地区で保育園で働いているのだが、来年4月が定年なんだ。で、我が家は20Kほど離れた東名高速菊川インターのそばなので、ドカンときたらひたすら車で風上ににげる。これやや本気。
地元では、静かな地殻変動がおこりはじめているように見える。県知事は中部電力のプルサーマルにまったをかけた。中電は6号炉の新設を延期した。(中止とはいわない) そして、何よりも中電とぴったりくっついて甘い汁をすっていた地元の保守ボスたちが動揺している。いっぽうで、こわいと思いながら、その不安をおしころして中電の懐柔策にのってきた住民たちが声をあげはじめている。興味ふかいのは、放射能さわぎでこの数日地元のスーパーでは米、乾電池、ラーメン、水があっという間に売り切れたことだ。 買占め騒ぎは前回かいた確証バイアスだとおもっていたが、浜岡ではちと違うかもしれんということに気が付いた。浜岡の買占めさわぎは、一面で原発の安全性に対する不信任投票にもなっているのだ。さあ、地元の地域ボスたち、どうする。
もうひとつ問題がある。原発停止はいい。だが、さしあたりエネルギーの供給についての代替え案を反対派は提案しているのだろうか。再生可能エネルギーはまだ原発の代替えになるまでは育っていない。しかも、電力会社には競争相手がない。こと電力についてはJALがいやならANAに乗ればいいというのと同じようにはいかないのである。彼らは法律で保護されており、赤字にならないように電気料金を設定できる。あんなにだらしのない東電でもつぶれないしつぶせないのである。まず第一に産業界が困る。だから、社会構造を変化させ、エネルギー経済を維持させながら、原発を安楽死させる筋道を議論しなくてはならない。そこが論じられていない原発反対論は弱くないか。かくいうおいらだって、今ガンガンとエアコンを動かしながらこの文を書いているのである。何たる矛盾。なんか、今の状況は解決策があいまいなまま、破滅に向かってつっぱしっているような気がする。レミングの集団自殺みたいだ。
以下、ひとつの妄想を書いてみる。それでも地震がきて、浜岡原発が事故をおこしたとする。ひとつの対応はそれによって、おいらたちがじわじわと殺されることだ。 それもできるだけ悲惨な死に方がいい。できうるならばその破滅への悲惨なプロセスを全世界に中継してほしい。そして、このような文明のままいくとこうなりますよという明確な未来のイメージを発信していくことである。もうそういうことでしか我々が今ここにいて生きているという存在の意味はないのかもしれない。 これは演劇だな。悲劇だ。シェークスピア悲劇の主人公はかならず死ぬ。であるとすれば、できるだけ悲惨な死に方を観客にみせることだ。そのことで観客が目がさめればそれでいい、だめならみんないっしょに滅びるしかない。これ自然の摂理だろう。
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