2011年9月28日水曜日

おかえりなさい・・・・逸徳

褌子さん、ご無事でおかえりなさい。 上海にいったということを聞いていたら、新聞に上海地下鉄の事故が報じられ、おもわず乗客の中にあなたの名前はないかと、ドキッとした。とにかくいつどこに出没するかわからんという人だからな。こういう行動力なら、お師匠のいうように「形而上的にぼける」暇はないわな。・・・ いやわからん。上海あたりの裏町をうろついていて、突然「あれ ここはどこ? あたしはだれ?」という光景がリアルに想像される。突発性認知症である。

しかし、俳句はだめだなあ。いまいち真剣味がなく、羞恥心が強いもんで・・・和歌のほうがむいてるかなと思ったりするが、それよりも一般に創作というのは、どこかまっぱだかになって銀座の雑踏をあるくような、いいにいわれない恥ずかしさがあるのである。したがって、一番恥ずかしくて、想像するだけで顔から火がでそうになる光景は、たとえば自分で「私は詩人です」と自己紹介するような場面なのだ。私小説というのがある。あれ絶対わからん。他からみれば、どこの馬の骨かわからんやつの、どうでもいいことを延々と描くという神経がわからん。いったいだれに読んでもらいたいのだ。そういう思いがないのなら、便所でつぶやいているのとどこが違うんだ。自分の世界のことは、自分の中にとどめておけばいいのに。・・・・だから演劇にくびつっこんでも、役者はやらなかった。役者として舞台にたつのはストリッパーとかわらん。考えただけで恥ずかしい。

福島にいってきた。いわきにとまって、そこから車で海岸線を北上し20キロラインの警戒線を突破して、(あとで聞いたら、これ災害対策ナントカ法違反で、10万円の罰金か拘留らしい。しらなかった。したがってこの話はないしょである。)だから細かいことは書けないのだが、完全に死の街になっていた。美田地帯だったところはすべて背丈をこえる原野と化し、住宅街では、にげだした時のまませんたくものが風にゆれていた。某寺院では、お骨が何体かあずけられたままになっていた。みんなにげちゃったので葬式ができないのである。酪農家の畜舎から逃げ出した、やせこけた牛の群れが街中をうろついているそうである。常磐線は寸断され、線路がぺんぺんぐさで覆われていた。
 ある事故がおこったとき、そこにどのような光景が出現するか。それを想像して、対策は講じられなくてはいけないのだろうが、このような光景は確かにわれわれの想像をこえる。というよりも、想像できる土台になる体験がわれわれにはない。したがって、原発対策の国会は、ぜひ20キロ圏内でもひらくべきだろう。なあに、議員たちはみんなもう被曝を心配するような年ではないのだから。

興味深いのは、原発事故で想定していた、緊急時の災害対策システムがまったくまともに機能しなかったことである。原発から数キロのところにオフサイトセンターというのがある。事故になったら関係者が集まって対策を講じる中央司令部になる予定だったそうだ。これまったく機能しなかった。みんなにげちゃったからね。

いわきで、原発問題のある学習会を傍聴した。参加者はみんな年寄ばっかり。聞いたら老人会の学習会だった。あとで、ひとりの参加したおじいさんと話した。彼いわく。「これはまごのための戦いです」・・・・ そりゃそうだ。そこにいる人たちもそしておいらたちも、福島の収束をみとどけることはまず不可能である。世代を超えたながい戦い。いったいこういういきのながい事例は今までにあったのだろうか。いろいろ考えさせられた。

0 件のコメント:

コメントを投稿