2011年5月21日土曜日

“原子力村”   ・・・褌子

 朝日新聞20日付 <耕論>から引用します
 元東京電力副社長で自民党参院議員だった加納時男氏。
 東大原子炉工学科の一期生でありながら原発を批判してきた安斎育郎氏の両氏の主張を読むといわゆる
“原子力村”のなんたるかがうきぼりになる。

■加納時男■
��7年東京電力入社、89年取締役原子力副本部長、97年副社長。議員在職中は国土交通副大臣などを務める。現在、東電顧問。
 ●「使い走り」とは失礼千万 
 私は1997年に東京電力副社長を辞し、翌年の参院選に自民党から立候補して当選しました。2期務める中で、原子力発電を推進し、エネルギー政策基本法の成立に尽力しました。
 私はあくまでも経済界全体の代表として立候補したのであり、「原子力村の使い走りとして国政をやってきた」などというのは、失礼千万です。2期目の出馬の際に開いた1万人集会では、当時の東電社長のほか東芝会長、日立製作所社長、三菱重工業会長もねじり鉢巻き姿で駆けつけてくれた。経済界を挙げての「草の
根選挙」だったと思います。
 当時の私の秘書5人のうち1人は東電を退職した人で、残る4人は、交代で3年ずつ東電を休職して来てくれました。東電の社長に「いい人がいたら推薦してください」とお願いしたんです。ほとんどが海外留学組で、優秀な方々でした。
東電は給与を負担しておらず、国家公務員としての秘書給与に加え、私の事務所で東電の給与との差額分を補填(ほてん)していました。
 そもそも、「原子力村」という言葉自体が差別的です。政治家や官庁、原発メーカー、電力会社が閉鎖社会をつくっている、という意味でしょうが、原子力産業はさまざまな分野の知見を結集しなければ成り立ちません。それを「ムラだ、ムラだ」とおちょくるのは、いかがなものか。
 それに、2005年に閣議決定された原子力政策大綱をつくる際には、使用済み核燃料再処理の是非を白紙段階から検討しました。政策大綱が原子力業界だけの思惑で左右されるのであれば、ここまでオープンな議論は不可能だったはずです。原子力行政が独断的、排他的ではないことの証拠です。
 専門家養成のため、原子力業界が大学に研究委託や研究費支援をするのも、「癒着」ではなく「協調」です。反原発を主張する国公立大の研究者は出世できないそうですが、学問上の業績をあげれば、意見の違いがあっても昇進できるはずです。ですが、反対するだけでは業績になりません。反原発を訴える学者では、2000年に亡くなった高木仁三郎さん以外、尊敬できる人に会ったことがない。
そもそも「反原発」の学問体系というものがあるのでしょうか。
 福島第一原発事故について「津波の想定などリスク管理が甘かった」と言われます。忸怩(じくじ)たる思いですが、東電や原子力業界だけで勝手に想定を決めたわけではなく、民主的な議論を経て国が安全基準をつくり、それにしたがって原発を建設、運転してきたわけです。「東電をつぶせ」などと大声で叫んでいる人もいるようですが、冷静な議論が必要です。事故は国と東電、業界全体の共同責任だと思います。


■安斎育郎■
専門は放射線防護学、平和学。東京大助手を経て、86年立命館大教授。08年から国際平和ミュージアム名誉館長。立命館大名誉教授
 ●「村八分」にされ助手のまま
 私は1960年にできた東京大工学部原子力工学科の第1期生、15人の1人でした。国が原子力産業に必要な専門家を育成するため、各分野の研究者を寄せ集めてつくった学科で、「原子力村の村民養成機関」というわけです。当然、同期生のほとんどは原子力業界に進みましたが、私は学生のころから「原子力の安全が破綻(はたん)したらどうなるか」ということに関心があり、1人だけ原子力政策を批判する立場になりました。
 国が原子力推進のためにつくった学科から「反原発」の人材が出るなど、あってはいけないことです。私は東大で研究者だった17年間、ずっと助手のままでした。主任教授が研究室のメンバー全員に「安斎とは口をきくな」と厳命し、私は後進の教育からも外されました。研究費も回してくれないので、紙と鉛筆だけでできる研究に絞らざるを得ませんでした。東京電力から一時研修に来ていた人は、去り際に「安斎さんが原発で何をやろうとしているか、偵察する係でした」と告白しました。
 私は「村八分」にあったからこそ、原子力村の存在を強く実感できたわけです。
「私に自由に発言させないこの国の原子力が、安全であるはずはない」と、直観的に分かりました。
 そもそも、原子力産業は国家の意思なしにはスタートできません。原発は事故が起こった時の被害総額があまりに大きく、大量の使用済み燃料処理にかかる最終的なコストもはっきりしない。一般の企業がこんなリスクを背負うことは到底できず、産業化には「原発をつくる。一定限度以上のリスクは国が肩代わりする」という国策が前提となります。
 「国がやる」ということから始まっているから、「やるのがいいのか、悪いのか」という話には、そもそもならない。「反原発」は即、反国家的行為とされます。原子力業界が批判を受けつけない「村社会」になるのは必然だったと思います。
 しかも、「村民」は業界や国だけにとどまらず、原発の建設候補地でもカネを使って、地元の政治家や住民を原発推進派に仕立てていきました。
 私たち原発を批判する研究者は「せめて事故のリスクを分散させるために、原発の集中立地はやめよ。原子炉の出力にも制限を設けよ」と言い続けたのですが、黙殺されました。村の閉鎖性が福島第一原発の事故を悪化させた一因だったことは否めません。
 一方で事故後には、これまで原子力利用の推進派だった専門家16人が、事態の深刻さを率直に認め、政府に提言しました。村全体からみればわずかな人数とはいえ、それだけ今回の事故が「村民」にも深刻な影響を与えた、ということでしょう。

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