2014年1月9日木曜日

続100メートルの民主主義・・・・逸徳

前から感じていたのだが、今の状況の中で、なんでもっと国民はおこって、具体的な変革の方向を選択しないのかと、単純に疑問であった。これは結局、日本人が政治的に自立していない、いい意味での民主主義、個人主義が育っていないのかと。 だが最近どうも違うのではないかという気がしている。政治的な自立とか、民主主義的な政治能力というものは当然のことだが、実際的体験によって学ばれ、身についていくものだろう。だが、日本の歴史には民衆レベルでのそういう体験が非常に少ないのだ。まず革命の歴史がない。唯一例外的なのが敗戦だったのかなあという気がするが、これは別のファクターもあるのでここでは論じない。(ただ敗戦はいい経験だった。あれが勝っていたらえらいことになったかもしれない)
民主主義は実際的行動を通して学習される。しかし、現代のように社会が複雑化、巨大化すると、個々人の思想とそれによる政治選択、政治的行動がどのような過程を経て、大状況の変化につながるのかがよく見えにくくなってしまう。結果として、民主主義は空洞化し、政治は劇場になり、個々の人間の思いは分散霧消してしまう。こういうのをアトム化というらしい。だからイメージとしてたとえると、おいらの体をつくる50兆をこえる細胞の中のひとつが革命家になり、こんなおいらはいやだと、おいらを改革しようと考えても、なんの変化もおこせない。そこで、絶望した革命家細胞は劇的変化を起こすためにガン細胞化する。つまりこれがテロリズムだろう・・・ という笑い話はやめて、もうすこし続けよう。 政治や社会を動かすプロセスが見えない。そうすると、行動してもなかなか目に見える変化につながることが実感できない。この実感のできなさを乗り越えるのが思想なんだろうが、それだけではそうそう乗り越えられるものではない。それが今のおいら自身の状況かもしれない。
 そこで、気が付いた。自分の行動が確実に何かの変化につながる体験をすれば、それによって人は民主主義的感覚を身につけられやすくなる。(という言い方が甘いことはわかっている) そこでだ、もっと小さい単位、たとえば地方自治体レベル、生活圏を含む地域社会の中で、いろんな行動を行いその成功体験をつみかさねていけば、それは自信と自立につながらないか。社会全体が見えやすいし、システムを動かしやすいので、行動の目標も設定しやすく、展望も持ちやすくなる。何よりもまず、やっていて面白い。というわけで、まず半径100メートルからはじめて民主主義を実践し積み上げ、それを拡大し、さらに横の半径100メートルの民主主義の実践行動している人と手をつなぎ、連帯して、ゆっくりと中央を包囲できないか。(むかーし、農村が都市を包囲するといったやつがいたなあ。毛沢東か・うーんふるい) そんなイメージでいろんなことにとりくんだら、数を集めて規模を競うという発想に魅力を感じなくなってしまった。まず身の回りなのだ・・・・ と、ここまで書いたら、下で「ゴミだしてきてーつ」と山の神がさけんでいる。 うーん半径100メートルの民主主義の中心は独裁政権かもしれん。まあ、また地域実践については面白い話があるので順次報告する。

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