お師匠にならい、最近の感想を。
俳句について。 興味を失ったわけではない。 駄作にも挑戦してみた。だが、どうも気にいらない。 おいらのポリシーとしては、季語辞典や、自分も読めないような漢字を使うことには抵抗がある。 で、なんですっきりと納得する作品をつくれないか、句作しようとジタバタしているときの自己心理を分析してみた。結局、なにかひとこと自分の思いを述べたくなってしまうのだ。ところが575では、これがきわめて困難。で、そんなことを考えていたら、ある作家(だれだか名を思い出せない)のことばにめぐりあった。 彼はいう。そういうやつは俳句はあきらめろと。 どうしても自分の思いをいれたいのなら、もう77とつなげて、和歌のほうがいいという。そうか、思いが77か。とハタと納得。つまりおいらは和歌党かもしれん。 そう思ったのが昨年の暮れ。だが、だからといって、すぐにどうとかなるわけでもない。まあ、今に期待していてくれい。
対人関係の変化について。このごろとみにそれを感じる。どういうことかというと、どうも周囲の世界のとらえ方が自分の中で変化してきているのである。図式的にいうと、現役までの対人関係は旭日旗型(なんとふるい表現!)だった。 自分を中心に放射線状にいろんな分野の世界がひろがっている。それぞれの世界は、案外独立していて、横に交流はすくない。そしてそれぞれの世界において、一番の外縁から、自己の中心に向かい、その関係性の深さにおいて異なる、他者がならんでいるのである。 これは別のことばでいえば、役割演技の世界かもしれない。つまりおいらは、いくつかの舞台をかけもちで渡り歩いていた役者だったのだ。いや、けっこう名優だったと思うのだが。
ところがだ、今はまったくちがう。世界は自分をとりまいで何層もの同心円状の世界の重なりになった。外縁のどこにおいても「おいらはおいら」であり、役割演技はしていない。そして、他者との関係において違うのは、その深さにおいて、相手がその同心円のどの程度の深さにいるかという問題だけである。
同心円を中心に向かって深まっていくと、中心にちかい層ほど、そこにおける登場人物は減っていく。そして中心は自分ひとりである。それは、孤独とか孤立とか寂しいというのとは全然違う。何かひとの存在の本質といった感じである。シェークスピアの名セリフに「ひとは泣きながらこの世に生まれてきて、たった一人で死んでいく」というのがあるが、最初このセリフを聞いたときシェークスピアというやろうはなんとさびしいことをいういやなやろうだ、と思ったが、どうもそうではないのではないかと思うようになった。
そうなると、対人関係の重要性の選別尺度は、「今、およびこれからの自分にとっての重要度」で選ぶということになる。義理やつきあいはもうどうでもよくなるのである。現役を引退するということは、そういうものがなくなるということなのだろう。 過去の人とのつきあいも「今の自分にとって意味のある過去」の登場人物との付き合いが優先される。こんなことを感じたのは中学の同窓会に出るという事を考えたときである。 正直なはなし、自分の世界観や人格形成の中心は高校から大学のころであって、中学の同窓生とは、卒業後の生活も体験もほとんど重ならない。だから顔をあわせても共通の話題がない。いや、もっとはっきりいえば、その場では相手にあわせて「懐かしい幼馴染」の役を演じているに過ぎない。そしてそれはくたびれるのである。いや、おいらの中学時代が悲惨であったというのではない。それなりに楽しかった。だが「今の自分にとって意味のある過去」だったかといえば、それほどではない。考えてみれは数十年ぶりにあった同級生というのは、実は赤の他人とかわらなくなっているのである。そんなことを考えているおいらは冷たいのであろうか。でもまあいいや。イイヒトを演じるのはもうしんどい。 残された時間は本音で生きたいのである。
そうかんがえていると、どんどん自分のまわりの人間関係が変化してきているのに気が付く。 半径100メートル以内のひとが大切になってきた。 そしてホントに大切なものは、実はそんなにないのではないかという気がしてきたこのごろなのだ。 17日 いけたら行きたいなあ。
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