西山事件をめぐって。 おいらの評価は師匠とはちょいと違う。 「情を通じ」という表現が有名になった女性事務官の事件、前から感じていたが、この人ほんとに100%被害者なんだろうかねえ。 そういう見方をするのは、逆に失礼な気がする。状況はどうであれ、責任はとらなくてはならないし、そういうことへの責任をとることを承認することは、究極のところでその人の人間としての尊厳を認めることでもある。このことに関連して、思いだすことがある。全然関係ないように見えるが、こういうことである。よく精神障碍者の刑事責任の免責ということが行われるが、それに準じるものとして「心神喪失状態」(これはだれでもなってしまう)の免責ということがあるのはご存じのとおりだ。ところがこのやり方、長いことひとつの強力な批判があるのである。しかもそれは当事者たる精神障碍者たちの中から出されてきたのである。批判の要点はこういうことだ。免責される、つまりお前は責任をとる必要がないということは、容易に責任を取る能力がないということにすりかわり、結局は障害者に対する人間的差別につながるというのである。自分たちは責任すらとらせてもらえないのか。それは社会の一員としての存在をおとしめていることではないのか、というのである。 この話は突っ込むといろんな問題に発展するのでここまでにしておくが、自己の行為に責任をとることを通じて、その痛みを一生かかえながら生きていくことを通じて、はじめて人としての尊厳が担保されるという論理は、おいらにとっては目からうろこだった。やっぱり彼女は責任はとらなくてはならない。あなた大人でしょ。そこのところは、おいらは冷たいのである。
で、西山事件の本質はそこにあるのではない。「情を通じ」ということで、マスコミが二人の関係をスキャンダラスにとりあげたとき、ひざをたたいてよろこんだのは、実は密約の当事者である政府権力側だった。これで、国民の目を横にそらすことができると。そして、マスゴミは競ってその片棒を担いだ。重要なことは、密約という権力犯罪と、道徳的に避難されるような二人の行為はすりかえてはいけないということだろう。次元が違う。主役は権力犯罪である。そこのところは石にしがみついても忘れてはいけないだろうし、二人の事件だけ論じるのは、正直いって気分が悪い。目くそ鼻くそを笑うという雰囲気だ。
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