2014年1月5日日曜日

ウーム・・・・逸徳

俳句について。いや、よくわかんないのはね。俳句を詠むということ自体もう自己表現だろ。しかもそれをひとりでつぶやくのではなく、他者に公表することが前提だ。つまり「自分を出したい」のではないか。 季語に語らせその影に退くったって、もうその季語を選び、ある世界を語っても、そのこと自体、自分を出しているということでしょ。だからたとえばお師匠の作品は、お師匠をそのまま鏡に映しているなあということを感じるのです。 なんだかよくわからんが、俳句ブームそのものが「やたら自分を出したがる」現象ではないかね。

 友人にプロのカメラマンがいる。世界中をとびまわり作品を送りだしているのだが、おもに「世界のこどもの顔」をとり歩いている。その作品を見ていて思ったんだが、子供たちのまなざしがとてもやさしいのである。そこで、はっと気がついた。 こどもたちはカメラをみているのではない。カメラをかまえている友人をみている、いや友人のまなざしのやさしさにこたえており、そこに一種の交感現象がおこっているのだと。 カラニシコフを構えている兵士に対しては、ああいうやさしいまなざしではこどもたちは見ないだろう。つまりとられた作品は明らかにカメラマンとしての、その場にたった友人のありようを鏡のようにうつしだしていたのだと。 作品が自己を語るとは、おそらくそういうことだという気がしている。

 沖縄について。こういう事実を切り取ってドンと出してきて、さあどうする(とはいっていないか)と突きつけるのは、まさに西澤氏らしくていい。おいらはいやではない。だが、大局的、あるいは鳥瞰図的な議論は重要だが、それはもういい。 その議論を考えたら50年ずっとやってきたような気がする。でちっとも変らなかったんだ。くたびれた。 問題は残り少ないわれわれの人生の中で、そのような問題について、70歳を超えた「自分はどこにいるか」ということだと思う。 たとえば、海を奪われるひとりの辺野古の漁師にとって、彼とどんな向かい合い方をするのか。彼にとって自分とはいったいだれか。(もちろん抽象的な意味でだ。) その余の事はすべて雑事といったら言い過ぎか。 そっちのほうが気になる。 

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