大状況と小状況ということばがある。かって北京の政治と社会の悪と腐敗に怒り嘆いた北京女子師範学生許広平に魯迅が「大きいどぶがにごっている時にちいさいどぶがすむわけがないよ」といって、励ましたというエピソードを思い出す。小状況と大状況をめぐる有名なエピソードである。そしてこの国の大状況は、さまざまな問題を抱えて進行している。ぼくらは、考えてみればその大状況に対してずっと議論をし、運動をし、署名をし、デモをし、そしてまた議論をするということを50年やってきた。くたびれた。(昔、70年代のそう遠くない時期に民主連合政府を、なんていった人がいたなあ。遠い思いでだ)
はたして大状況は好転しているのだろうか。それは見る人にとって違うのかもしれないが、すくなくとも劇的によくなったなんてとてもいえない。達観してしまえばそれが歴史というものの姿なのかもしれないが。
で、大状況に対する対位(体位ではない。褌子さん)の仕方が問題になる。残された時間の少ない我々にとって、どのようなあり方がよいのだろうか。今までのように積極的関与だけでは、目に見える変化が達成できないと、運動する人はくたびれてしまうのだ。実感的にいえば、人はイデオロギーや思想だけでは、日々のあくせくした現実をのりこえられないのかもしれない。そうして転向という問題がおこる。ちがうか。
そこで、自分自身の問題として思っているのは、せめて自分は背筋をのばして、キチンと生きていきたいと思うのである。。この世界が悪くなり灰色になり、まわりからドンドンぼろほろと腐って行っても、まいったと音を上げる最後の人間になりたい。そう思う。この灰色の世界の中で、もっともまともな最後の部分が、わたしの内面世界であると言い切れるようになりたいのだ。
具体的にいえば、今日もよく晴れて富士山がきれいで、平和で温暖なするがの国に生きて、今日は昨日とおんなじで、おそらく明日は今日とおなじだという状況の中にぼーっと生きていても、福島や、辺野古の現実と同一平面の世界で、それをずっと手元にひきつける想像力を枯渇させないで生きていきたい。日常性を通しての緩慢な堕落というのは、自己責任で食い止めることが出来るであろう最後の課題ではないだろうか。人間的想像力。これが自分を自分たらしめる最後の砦であろう。そして、この宇宙の底を吹きすぎる風のなかに、「わたしはわたし」という旗をしっかりと打ち立てていくのだ。具体的実践はすべてそのあとの事である。その点でいえば褌子さんは見事であり、なぜ見事であるかということは誠に心理学的研究対象になりえる。
100メートルの民主主義について論じようと思ったが、時間が来てしまった。また続ける。
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