むしかえしの議論ですみませんが・・。
わたしは相撲と柔道が好きだ。相撲は柔道とおなじ格闘技、そして勝ち負けを競う純粋なスポーツだと思っている。テレビを通じてではなく実際に目の前で繰り広げられるなまの肉弾戦の迫力は観るものを興奮させる。それに勝ち負けという結果がついてきてそのことが多くのファンを惹きつける。という認識であることを前提に以下わたしの私見。
「大相撲の八百長か。前からあったんではないか。子供の頃から相撲好きでよく見ていたけれど、あのころから7勝7敗の力士の千秋楽の勝率が不思議と高かった。暗黙で皆、判っていた風情があるな。立ち会いは阿吽の呼吸。だから阿吽の呼吸は得意なんだ」(猫跨ぎ)
��勝7敗の力士の勝率が高いということが八百長の根拠であるといえるだろうか。八百長はあるという前提を正当化する歪んだ推論だと思う。
「100%八百長と分かっていて許される風土が日本にはあって、大相撲の八百長も日本人は、あってもいいではないかと許してきたと思っています。」(小蔵ひでを)
¨八百長もあってもいいではないかと許してきた¨!? 少し見方が偏っていないか。
「二人で示し合わせれば、どんな熱戦も演じられるのではないかな。相撲が勝負だけになったら、つまらなくなると思うね。」(小蔵ひでを)
¨相撲が勝ち負けだけになったらつまらない¨ 本当にそう思っているのだろうか。こういう認識のひとは相撲をみていて楽しいのかな。興奮するのかな。それともいかにもわざとらしいパフォーマンス万載のプロレスと同じ感覚で相撲をみているということだろうか。
「八百屋の長兵衛から八百長なる言葉が始まったのだそうだ。一対一の格闘技では昔からあったんだろうな。」(褌子) ¨昔からあったんだろう¨ 世論に迎合するような勝手な推論をしたり顔でしないでほしい。
「相撲の八百長はむかしからあったはなし。相撲なんてそんなものと思って楽しめばいいんだよ。」(石原慎太郎) この男の発言はなにをいっても庶民を見下した言い方に聞こえてしまう。尊大なんだよ、君は。
柔道に八百長がある、ありそうだ、というはなしは聞かない。でもプロスポーツではないからと考えればうなづける。じゃあボクシングはどうか。これは超ハングリー競技で大金を得る戦いのチャンスは滅多にない。だから勝ちをゆずるという発想はまず生じない。八百長の余地なし。プロゴルファーはツアー競技のシード権というのがあってその境界近辺の選手はそれこそ上位にいる選手を買収してでもシード圏内に入ろうとする、そういう心境になると思う。でも談合はしない。全力で勝負に挑み負ければ少なくとも1年間はいばらの道を覚悟しなければならない。お互いにそういう世界だと共通認識している。なぜ相撲の世界で八百長が¨むかしからあったこと¨となるのか。そのからくりを知りたい。八百長はあるさ、とすすしげな顔をしている方々は相撲中継はみますか。みていてどんなところが楽しいですか。テレビのまえに座っている時間がもったいないと思いませんか。
こういっておきながら・・。朝青龍はいかにも八百長をやっていたらしいと思いたくなる相撲とりだね。
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