「手に残る氷の匂ひ炎天下」は類句をみたような気がしたが、やはり猫跨ぎ氏が一ヶ月前の7月12日にも寸分違わずの句を投稿されておりました。しかし名句であると思う。
女房が孫娘とスケートにでかけて左手首を骨折した。二泊三日の入院で手術をしたのだがこちらも三日間、病院に通うことになった。
入院保証金10万円をまず納めたうえに保証人などの書類への署名捺印がやたらに多くて閉口したが、院長先生のX線写真をしめしての説明が丁寧で看護婦さんや職員も愛想がよくて実に気持ちいい整形外科病院だと思った。手首の舟状骨をチタンでつなぐだけの手術なのに全身麻酔で浣腸した上に全裸にさせられ国兼さんご愛用のフンドシみたいなT字帯をキリリとしめて手術着に身をかためてストレッチャーで出陣するのには笑ってしまった。
手術のあいだ病室の女房のベッドで寝ころんで松本清張「数の風景」をよんでいたら、相部屋の五十才くらいの奥さんがカーテンの向こうでしきりにいきんでいるのに気がついた。そのうち若い看護婦さんたちが駆け込んできて「出ましたかあ!?」と叫ぶ。「おならだけ」と蚊の鳴くような声。「おならでも良かったですねえ! 何発でましたか?」「3発です」 股関節骨折で入院しずっとひどい便秘に苦しんでいるらしい。
どこかの病室でしきりに奇声を発しているおばあさんがいる。何をいっているかわからないが苦痛でうめいているのではなく、十秒おきくらいに熱湯をふきあげる間欠温泉みたいに甲高い声で叫ぶのである。よく駅前などで通行人に何か怒鳴り続けているおじさんがいるが、ああいう感じである。気になってしょうがないのでどこの部屋だろうと偵察にでかけた。ドアを開け放しているのでのぞいてまわると、入院患者はさながら老人病院のてい。
奇声を発している病室をひょいとのぞいてみたら、白髪、色白の誠に上品なおばあさんである。薄目をあけて天井を凝視しながら奇声を発し続けている。周辺の病室の患者も見舞客も何事もないような顔をして無理に知らん顔しているが、運悪く同室になったご婦人は憔悴したような顔。看護師さんや職員がひっきりなしに出入りしておばあさんに話しかけているが奇声はとまらないので隔離するかどうか困惑しているようす。一階のリハビリテーション室も見学する。たくさんの器具があって、入院患者のちょうど娘や息子くらいの年の理学療法士とか作業療法士とか五つくらいの資格者がつきっきりでニコニコ親切に患者のリハビリに励んでいる。微笑ましい光景だが人件費が相当なものにちがいない。消費税は医療費には非課税だから、すべての機器、器財、薬品などは転嫁できないので、消費税が10%になったら、親切な病院ほど倒産が続出するときいている。
三日目、もう退院の日である。となりの便秘の奥さんも浣腸ですっきりした顔。やっと手術できることになったらしく優しそうなご主人が付き添いできている。このご主人がまったくしゃべらないのには参った。話しかけたが、ええまあとかいうだけで返事がない。女房の話では、奥さん自身、雑誌もテレビもラジオも興味なし一週間も終日、天井をみて便秘にたえているだけらしい。不思議な夫婦だ。
退院手続きがすんで女房と病室をあとをするときに「奥さん、早くよくなるといいですね」と声をかけたら「ありがとうございます」とはじめて微笑んでの返事が返ってきた。「優しそうなだんなさんですねえ」と、つい余計なことを言ったら、この奥さんが激しく首をふったのには驚いた。「ひとこと多いんだよ、お父さんは」とエレベータのなかで女房にたしなめられたのはいうまでもない。
昼食直前の退院で病院のそとの駐車場は地面が焼けてものすごい熱気。前のコンビニに、かき氷を買いに走り、あらかじめ車のエアコンをつけておいてから、女房と荷物を車に押し込んだ。まことに麗しい夫婦愛である。 このときである。
手に残る氷の匂ひ炎天下 の猫跨ぎ句がおもわず口をついてでたのは。
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